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スマナサーラ氏の書籍に、自我を噴水に例えているページがありました。
下から複数の噴水が飛び出し、それらが上空中央で結合したものが我であり、そしてそれはすぐ下に落ちてしまう。(つまり無我?)
我というものがそのようなもので、方々の因縁でできているなら、それは奴隷の様なものと捉えられませんか?
しかし、一方で価値判断する存在とも書いてありました。
奴隷なのか?価値判断する存在なのか?
その辺りがわかりません。
どうなんでしょうか?2025年01月23日 (木) 15時04分 No.6460
感情の奴隷、感覚の自動判断 - なみ答えはタイトルに書きました。
説明したいと思います。
人間は感情の奴隷ですと長老は仰っていますね。
感情ってなんでしょうか。
感情は感覚にオートで反応するこれは嫌だ、これは良い、これは何も感じないとする(不苦、不、楽の)価値判断でしょう。
食べたい、寝たい、手に入れたい、
叶えられないと怒りが湧く、悲しみが湧く。
これらってどうやって制御できますか。
だから人間は感情の奴隷ですという真理を語っている。
ところで価値判断、どうやったら変えられますか。
それはもちろん、オートでやっているんです。
これはいい香りだなあと思ったらもう自我も判断も起こっているんです。
そこに意識を挟んでいや悪い香りだと思ってやるぞとは普通働かない。
そういう話だと思いますよ。
噴水というのは一瞬の出来事でしょう。
そういう速度で物事の認識は進んでいる。
その過程で自我も現れますよ。
私というのはこんなものだと自分で定義する。
こんなものというのは感覚の話。噴水の形を遠巻きに見てからこのようなものと言っているに過ぎません。
それが一瞬一瞬形を変えていることには注目していないのです。
方々の因縁という単語、ちょっと正確に理解しかねますが、
このような現象にこのように感覚しこのように反応しました。ただそれだけですよ。
それは仰るとおり奴隷のようなものと言えるでしょうね。
価値判断するのは何に対してですか、感覚に対してでしょう。
時々人は理性的にと言いますが、多くの人々の理性というものは自分を先にする(自分に益すること)という邪見が入っていますね。
自分の感覚に従ってこれがいいと理性を使うのです。
ですから価値判断、まったくこれ感覚ですよ。
ですから戦争反対が正義だの、と始まるのです。
中道が現れないところに嵌まってしまう。
ちょっと話しすぎましたが、まあそういうところで噴水なのだと思います。
見たらもうその噴水というものが良いか悪いか判断し決まっている。
そこでは感情の奴隷であり、感覚の自動判断が起きているということです。
私の思っていることは以上です。
2025年01月27日 (月) 18時08分 No.6463