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五蘊と修行 - KK人間は五蘊によってできているということですが、それでは修行によって五蘊は変わるのでしょうか。悟りに近づいた状態と煩悩にまみれた状態とでは何かが変わっているのだと思いますが、それは五蘊が変わって悟りに近づいたということでしょうか。それとも、五蘊以外の何かが変わったのでしょうか。人間が五蘊でできてるのであれば、悟った五蘊とそうでない五蘊があることになる気がしますが、そういう理解でよいのか分かりません。
よろしくお願いいたします。2025年01月14日 (火) 12時16分 No.6453
関連資料を調査した結果を共有します。 - 修行者仏道に関する有益な情報を提供することにより、功徳を積みたいので、書込させてください。
日本テーラワーダ仏教協会のスマナサーラ長老は、次のように解説なさっています。
「アビダルマでは、物質と心を徹底分析します。これ以上分析できないところになったら、それを勝義諦と言うのです。物質は二十八、心は一つ、心所は五十二、涅槃は一つ、まとめて八十二のダルマがあると教えているのです。存在と言えばこれしかない、という意味でしょう」(『初期仏教経典解説シリーズⅢ大念処経』2016年p186)
また、ゴータミー精舎で行われたアビダンマ講座(https://liberi.jp/abhidharma/)で講師をつとめてくださった西澤卓美先生によれば、施設(せせつ)(概念やイメージ、名前など)は勝義諦として存在せず、対して、勝義諦(心、心所、色、涅槃)はそれぞれの性質を保ちつつ実在するものです(「マハーシ・サヤドーによるヴィパッサナー瞑想法の理論と実践:高い学識と指導力を持つ稀代の高僧が説いた涅槃に至るブッダの方法(特集 ヴィパッサナー瞑想)」サンガジャパン36:2020年p184)。
こうした勝義諦と五蘊の対応関係について、前述のアビダンマ講座で使用されたテキストのp58に掲載された図で解説しています(https://liberi.jp/abhidharma/ad-text_1.pdf)。五蘊(色蘊・受蘊・想蘊・行蘊・識蘊)のうち、受蘊・想蘊・行蘊は心所cetasikaであり、識蘊は心cittaに対応することが説かれています(図では心1つをさらに89種に分類していることに注意。テキストp4,22でふれている通り、心を1つと統合してカウントしても89種と細分化してカウントしても間違いではありません)。また、涅槃以外の勝義諦はすべて五蘊で網羅されていることも図にて説かれています。
日本テーラワーダ仏教協会ウェブサイトの解説(https://j-theravada.com/world/keyword/keyword-11/)によれば、「心と心所は、水と水の成分にたとえるとわかりやすい」「心も、心に溶けている心所によっていろいろな心があります」「不善心所は心を暗く狭く弱くし、浄心所は心を明るく大きく強くします。不善心所の溶けた心は毒水のようなもので、浄心所の溶けた心は栄養のあるスープのようなもの」「愚者か智者かの違いは、心所で決まるのです。心を暗く狭くする心所が生まれないようにして心を広く深く強くする心所を育てあげていく…それが仏教の実践です」とのことです。
KKさんのご質問文において「五蘊以外の何かが変わったのでしょうか」とありましたが、ここまでの説明を踏まえると、修行によって五蘊以外の要素を浄化していると考える必要はないと思います(最終目的地である涅槃以外のすべての勝義諦が五蘊で網羅されているから)。修行によって、浄心所が成長し、浄心所がとけた心つまり善心が成長していくと考えるのが適切と思います。
ちなみに、五蘊における受蘊・想蘊・行蘊のうち、受蘊(=受心所)・想蘊(=想心所)は全ての心に必ずとけている心所(共一切心心所と呼称される)で、不善心所でも浄心所でもありませんので(前掲テキストp14~17参照)、浄心所は五蘊でいえば受蘊・想蘊でなく行蘊として出現します。
KKさんのご質問文において「悟った五蘊とそうでない五蘊があることになる気がします」とありましたが、悟ったかた(つまり預流道以上に到達した聖者)は、悟りのレベルに応じて、不善心所が発生しなくなります (前掲テキストp78参照)。つまり五蘊において、不善な行蘊が悟りのレベルに応じて殲滅されていきます。
当然ながら、より厳密に教学のポイントについて理解したいならば、まだ修行が完成していない私の言葉を介在させずに、上で紹介したような専門家の先生が作成なさった資料をご自身で熟読なさるのがよろしいかと存じます。
今回の書込が、KKさん・わたくし・閲覧された皆さん全員が仏道をすみやかに完成し、輪廻から解脱するためのたすけとなりますように祈願いたします。この書込によって得た功徳を全生命に回向します。この功徳が、全生命が幸せに暮らし、そして涅槃を得るためのたすけとなりますように。2025年01月17日 (金) 00時07分 No.6455
五感と五蘊 - なみシンプルに考えるために五蘊をまずは五感と置き換えてもいいでしょうか。
人間は五感を感じる生き物というほうがシンプルでぴったり理解できます。
意というものもありますが、これは特殊なので脇に置きます。
五感への執着が悟りで変わるものと思われます。
それによって心に現れるものが変わるのだと思います。
なので、結果的に五蘊。変わったと言えるかも。
あんまり興味ないのですが頑張って分かる範囲だけ。
土砂降りの雨で濁流した太い川が氾濫していると思ってください。
この川が感覚です。
近くに行って川の流れを覗き込んでみる。
この覗き込むという行為が執着です。
何が見えますか、川の流れが見えますといってもそこに見えますと言った瞬間のそれはもうないのです。
ポイントポイントに見える川の流れというのはずーっと流れていって意識で追い切れないでいる。
ですが、人はある一部分を指してこれが今見た感じた私の川の流れですよと言うのです。
これが五蘊のようなものです。おそらく。味とかだと分かりやすいかもしれませんね。
あれは本当に感覚の一部ですが、よく味も分からないという言葉、緊張したときに言いますよね。
あと怪我なんかも後から気づいたり、見えているのに見つからないとか。
なので人には常にこの不完全あいまいな五蘊が働いていると言える思います。
それで悟った者は執着がありませんから五蘊を作るためには五感の川を覗かないといけませんよね。
どこかに意を作って感覚をチェックして五蘊の流れを見る。
それで五蘊、果たしてあるのかという問題。
執着を消した五蘊は五蘊と言えるのか?という質問にそのままなりそうですね。
あるとも言えるし、ないとも言えるのではないかと愚考します。2025年01月23日 (木) 15時04分 No.6462