日本テーラワーダ仏教協会 質問&議論BBS

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執着 - きき
例えば、自分を執着できない場所に置いたとしても、根本的に解決しなければ潜在煩悩として残っていて執着がない状態に見えるだけ。であれば、どこに居たとしても修行は可能。というよりも、執着できる環境に身を置いて解決する方がいいのではないかという考えに至りました。合っていますか?
2025年01月04日 (土) 10時29分 No.6442
非存在欲 - ポンタ
こんにちは。

非存在欲が活発になり「死ぬのが怖くない」「五欲に未練がない」といった状態の時は、刺激が強く煩悩を掻き立てられやすい環境が逆にあだとなるリスクがあるような気もします。

非存在欲が活発になると、意外と気分がよくなったりします。後悔など怒りの感情は気分が悪くなりますね。

あくまで私の推測ですが、非存在欲が強い時に、夜の繁華街に出かけてみて「こんな誘惑多い環境において、欲が生じなかった。だから修行が進んでるんだ!」と勘違いする可能性があるようには思いました。

一応、ご参考までに。

2025年01月06日 (月) 23時39分 No.6443
私は間違っていると思います - なみ
確か長老の動画で一節にあったのですが、
嫉妬心は一人でいても見つけられないとありました。
だから一人で森に籠もっても嫉妬心はなくなったのかどうかはわからないと。
執着心も同じに思います。

離れたからといって消えたかどうかはわからない。

ですが、かといって俗世間で修行することが最善ということを唱える人もいるが、それは違うということも仰っていたと記憶しています。
元動画がどこだったか思い出せずすみません。

ここからは私の推測と長老の話を織り交ぜますが、

例えば性欲なんかだとそれを満たすために変な環境を作らないといけません。
それは仏陀は推奨していません。
単純に心が汚れるからです。
わざわざ性欲が刺激されるような環境に身を置くのは心が汚れるよという至極当たり前の話です。

執着も似たようなものだと思います。
理由については同じですよね。

とどのつまり、執着とはそれ単体で執着を思い出す度に心を汚すものだと思います。

確か仏陀の弟は自分の許嫁のことが気になって修行に身が入らなくて仏陀に天女を見せて貰い、それを目的に頑張っていたら仏陀にその話を広められて、一層悟りに励んだというエピソードがあったかと思います。

それほど執着は手放し難いものだという良い例だと思います。

ですので、執着が手放せないからといって執着に身を置くことは推奨していないことはおわかり頂けるかと思います。
仏陀がもしさき様のように考えたのならあなたは許嫁のところで修行しなさいと仰ったはずです。

ですが、仏陀がやったことはあえてもっと強い執着をわざわざ作ってあげてから弟子に言いふらして後に引けなくしたんです。ちょっと怖いですよね笑
(仏陀はこの問題が女性の美への執着と見抜いたからこそ天女を見せたのだと思いますからそういうものを私たちは自分で自分を見抜かないといけませんね)

ですから、執着を忘れるために逃れることも身を置くことも間違えているでしょう。

恐らくこの執着という問題につける薬は厭離ではないかと思います。

仏陀に天女のために修行しているなんて噂を広められたら相当恥ずかしいと思いますよ。
それでもその嫌なことから離れられない自分を嫌になったように思います。

これは極端な例ですが、
執着というものは他人から見るとすごく変なことなんだと思います。

私たちは普通執着するとそれって楽しいこととか嫌なこととか感情とセットで考えますが、みんなそれを聞いたら「ええ?」って反応するでしょう。
結構多くの人が執着してることでも人によってはそんなこと?って思ってますよね。

なので、解決の糸口はそこなのかなと思います。

結論としては私はまず執着をもっと細かく観察するべきなのかなと思います。

https://www.youtube.com/watch?v=X9MQRRA2VzU

こちらに厭離に関する詳しい方法が解説されています。

もしくは善行為によって喜びを感じる生き方ができれば執着はなくなると私は考えています。(これは私が修行中なのでアドバイスできません)
https://www.youtube.com/watch?v=3DsyJgyXOwQ

最後までアドバイスできずすみません。

お互い頑張りましょう。
2025年01月06日 (月) 23時39分 No.6444
例え四畳半の - 青い蓮華
おはようございます。
ききさんが、掲示板を盛り上げようと頑張っておられます。(*^ヮ^*)
ネタだとしても、(他の方の投稿内容と重ならないように)まじレスしてみますね。

質問:あえて喧騒な街中に身を置いた方が、煩悩が際立って、よい修行の場になる?
返答:普段の日常生活の中で学ぶということでしたら、難易度が若干上がりますが、それもありですよね。

積極的な取り組みに好感いたしました。


やっぱり静寂な方がよいのでは・・・と思い直したときのために。

DhP 372
natthi jhanam apannassa panna natthi ajhayato
yamhi jhananca panna ca sa ve nibbanasantike

ダンマパダ372節(青い蓮華訳)
智慧がない人には禅定がない 禅定がない人には智慧がない
禅定と智慧と 両方をそなえた人が たしかに涅槃に近い

ここで禅定と言いますのは、「こころの落着き」のことですね。

例え四畳半の部屋であろうが、トイレの中であろうが、
こころから落ち着ける、ほっこりできる場所がほしくなるときがありますよね。
宗教、関係なく。

旅行を終えて故郷に近づくときのような感じ、我が家に戻ったときのような感じ。

こころから落ち着ける、ほっこりできる、此処この瞬間が涅槃です。
その様子を寂静と言ったんですね。

考えるな!感じるんだ!(*^ヮ^*)
2025年01月07日 (火) 15時04分 No.6447
ありがとうございます - きき
この質問に回答頂けて、修行仲間がいることを再認識し、嬉しく思います。ありがとうございます。
言葉足らずだったのに、意味を汲み取って頂いてありがとうございます。補足させてもらうと、執着できる環境に身を置き、というのは、欲で満たされる状況という意味ではなくて、執着から苦しみが生まれる事が分かりながら、すぐに手に取れる場所に身を置いて、手に取ってしまえば苦痛を味わう、という環境の方が修行が進むのではないか、という質問でした。

修行者の性格や、修行の進み具合、タイミングなどなどの条件によって、どちらがいいというのは異なってくるとは思いますが、この質問をした時は、大分自分を追い込んでいました。という事は、思考したということですね。いらん事考えず、また、慈悲で満タンになる様に精進します。ありがとうございました。



2025年01月09日 (木) 13時34分 No.6450
執着に執着する馬と鹿の意見 - 青い蓮華
ところで、
静寂な山奥で瞑想したところで、スッとしたのはそのときだけ。
山を下りたら、素凡夫に戻ってる。
はたしてこんなやり方でいいのだろうか、って誰しも考えることがありますよね。

他所で、執着を手放す方法とか、真顔でアドバイスしている人の声が聞こえてくることがあります。
そう言うあなたは、本当に本当に、その方法で完全に解決したの?って心配になります。
またまた敵を作ってしまった。(*^ヮ^*)

執着が湧く→手放そうとする→新たな執着が湧く→頑張って手放そうとする→また執着が湧く→
ずっ~と、エンドレス。

リンネ(*^ヮ^*)
2025年01月14日 (火) 12時16分 No.6454
エンドレス - きき
理性で智慧を育てるんですね。エンドレスは嫌なので、如理作為に励みます。
2025年01月18日 (土) 17時48分 No.6457
バニラ・アイスクリームにトッピングは要らない!(*^ヮ^*) - 青い蓮華
>理性で智慧を育てるんですね。エンドレスは嫌なので、如理作為に励みます。

ひょっとして、
問題が、修行をする場所ではなく、他にあるのでは・・・
と思ったので、「執着を手放す方法」云々を出してみました。

スマナサーラ長老は、執着に関して、
①○○を、発見する。
②「妄想するな」は○○という意味。の二つを示されたんですね。

このことから、経典に沿っていることが分かります。
このことから、真理に沿っていることが分かります。

だからスマナサーラ長老を信頼できるんです。

「手放す」とか「手放す方法」とか、馬と鹿のようなことを言ってないんですね。
気付けたのかどうか。
気付くことができた人は、長老の話をよく聞いている人ですね。

ちゃんと、リンネから離脱する道を、指し示しておられますでしょ。
2025年01月27日 (月) 18時08分 No.6464
納得できました - なみ
手法という切り口に感心いたしました。
頭の中に考えが流れたので一応書き留めたいと思いました。
さき様はもうご納得されていると思うので他の方に補足のような感じで見て貰えたらと思います。

執着を手放す手法というと何か凄いもののように感じますが、とどのつまり執着から離れようとするのもそれそのまま執着の裏返しですよね

本当に執着がなくなったら道ばたの小石のような感覚じゃないとおかしい。

わざわざ小石から離れようと考えている時点で対象をとって執着しています。

「きらい」って感覚です。

このきらいな環境に身を置くことで執着を果たして手放せるのか?というと論点が違うという蓮華様のご指摘はその通りだと思います。

私の発見ではそもそも執着、これは慢の一部だと思います。

私というものが執着を起こす。
執着に対して渇愛が生まれ、嫌いだの好きだのと始まる。

ですから、バニラアイスにトッピング、思いついたら執着です。

何が言いたいかというと、執着への執着が起きているんですね。
既にその手法を考えていることで執着に嵌まっている。

それよりは離れて見る。
物事は離れて見るとより正確に分かる。

ちょっと思いついた例えですが、
テレビの子供向け番組で登場する怪獣の玩具、ヒーローの玩具。
あれってとても子供からすると魅力的なんです。
でも大人になっていくとすっかり執着が消える。
観察能力が上がったということだと思います。

そういうことで、現実から執着を手放すにはこの現実を観察しないといけない。

そこで無常を理解できたのなら終着が成り立たないということが発見できると思います。

わざわざ執着をそばに置いても慢が自分を苦しめるだけだと思います。
(こうしなくてはならないのだ!という気持ちが自分を破滅に追い込む)

要するに苦行、荒行によって悟りを拓くとする方法。
その入り口に感じました。

仏陀はそれには意味がないと仰っていました。

ここに丁度お釈迦様が行った苦行について触れた記事があります。
https://j-theravada.com/dhamma/kougi/kougi-039/

このように完全に滅却しようとするのもそれ自体に溺れてみるのも意味がないということが書かれています。

2025年01月30日 (木) 22時08分 No.6465
リスペクトと豊かな掲示板 - 青い蓮華
>蓮華様
「様」付けは、少しあらたまった状況下で使いますので、掲示板では少し重いかな。
「さん」付けも、相手へのリスペクトを十分表しており、優れた日本の文化です。
通常これでよろしいかと思います。
さん付けで、どうぞー。(*^ヮ^*)

>こうしなくてはならないのだ!という気持ちが自分を破滅に追い込む
なんと凄い感性なんでしょう!
仰る通り、真理に、こうしなくてはならないとか、そういうことは書かれてないんですね。
(この項、取扱いが危険なので、仏教を学び始めの方々は忘れてください。)

まるで一陣の清風。豊かな掲示板になっていく予感がいたします。
ご活躍を期待しております。
2025年02月03日 (月) 09時18分 No.6466
ありがとうございます! - きき
敵を知らないと戦えない事に気付きました。闇雲に、執着を無くそうと必死に執着して苦しかったです。はっきりと分かる苦しみがあるから、苦しみの生滅の発見に至る、ですね。
2025年02月04日 (火) 21時29分 No.6467
言葉が足らなかった。。 - きき
苦しみの生滅の発見が出来るように、観察し続けたいと思います。
静かな場所から返信しております 笑
2025年02月04日 (火) 21時29分 No.6468


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