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私は医薬品分野の専門家なのですが、瞑想を実績されていて人格・能力的に凄い方々でも、その道の専門家の間では科学的な間違いや世間的によくある誤解とされている情報(例えば、〇〇は健康に良い、悪い、科学的に否定されている理論体系など)に引っかかっているのを偶に見かけて、大変がっかりすることがあります。
修行を進めても、世間的な知識について正誤が判断できるようにならないのでしょうか。また、誤った常識や誤った見解を持たない為にはどのように気をつけたら良いのでしょうか。ご教示いただけましたら幸いです。2024年11月27日 (水) 17時15分 No.6352
コロナワクチンを例に - ポンタこんにちは。
コロナワクチンについても陰謀論が出たりしましたね。
あの時「科学的な根拠」という言葉が蔓延しました。
しかし、「科学的根拠の意味」を専門家が説明したのは、ワクチン接種で反ワクチンなど起きてから、かなり後だったように記憶してます。
「科学的とは統計的データである」。100人のうち90人に効果があるか?副反応があるか?が「科学的根拠」であり、ある特定の個人については「100%安全」だと断定出来ない。、、、という解説。
そうですね。瞑想したからといって、専門的知見が持てるわけじゃない。
1.特定の分野なら、その分野にアンテナを張ること。⇒コロナワクチンについて、私は徹底的にアンテナ張ってました。
2.多義に渡るなら、信頼できる専門家の知り合いを作ること。医学で言えば、セカンドオピニオンの存在を作る。
そんな程度のことしか思い浮かびません。
自分自身でアンテナ張って、更に信頼できる専門家の意見を聞く。1と2に分けましたが、便宜上分けたけです。
あと、基礎学力を見直す。とか。
「小学生の中学受験」の、算数や国語のやさしいのをやってみる。
小学生レベルの基礎学力。侮れないと思います。基礎学力あるなら、専門家の主張の理解も深まります。
以上、ご参考までに。2024年11月29日 (金) 18時16分 No.6358
1.知識は煩悩 2.見解は認識で間違える - なみまず、人は完璧ではありませんと長老も仰っています。
あれほど偉大なる仏陀でさえも最初は説法がうまくいかなかったし、間違いもあったんです。
なので、他人を見てこの人はという人であっても間違います。
だからがっかりしちゃう自分にまず問題があると認識した方がいいかもしれません。
ここに来られる方は大抵、知識人で人格も一般人より遙かに優れた方が多いです。
しかし、なんでも知識で物事を捉えようとして失敗しているように思います。
目の前の現象に知識でぶつかるから答えが見えなくなってしまうのです。
特に他人の頭を1回通して出てきた知識はその人のバイアスがあるので最悪です。
仏教も今の時代にある初期仏教以外は滅茶苦茶でしょう?
まず、知識で正誤の判断、見解をつけるのはやめましょうと私は提案したいです。
なぜかというと、それを正しいと判断した自分というのはすごく自分本位に判断するからです。
それは私の生命を助けたという基準に基づく見解であることがほとんどだからです。
ちょっと脱線しすぎるので話を戻しますが、
薬の分野でも様々な薬が日夜その情報をアップデートしていますよね?
知識も同じです。
昔は良いとされていたものも今は悪いとか、間違った考えだったりと色々変化するのです。
その中にあって我々人間が知識で挑めばめちゃくちゃにやられるのは当然です。
なので、知識を頼りに物事に見解を持つことが危険であると戒めるのが大切に思います。
そして、誤りという判断さえ正確にはわからないのです。
AというルートとBというルート、どちらが正解か?という問題に対してBを選んだからAが間違いであったというためには見解が必要でしょう。
その見解に是非を付けてしまうと、結局自分の限られた知識バイアスのせいで間違えるのです。
後から考えてあーやっぱりあっちの方が正解か、などということはよくあることでしょう。
新しい知識によって選んだルート(選択)が失敗だったと気づいたのです。
さっきまでは正解だったのに。
だから見解そのものも捨てた方がいいと私は思うのです。
すると答えは今手にある情報でこのように判断しました、とそれだけの話になります。
薬品の分野もそうですよ。
今ある情報ではこれが正しいと思われているから薬は売られているわけです。
そこに誰かが頭ごなしに理由もなく間違いだろとは言わないでしょう。
別に間違った知識で間違ったことを信じていてもその人には現時点で情報がないというだけと思います。
すべて因果法則でそうなっているだけの話ですからそこは人格と関係しているとは私は思いません。
しかし、その人が貪瞋癡や慢で間違えを妄信しているのならそれは人格者とは思いません。
そこでお前はどうしてもっと知識を身に付けないんだとか、そういう考えがあるとしたらこちらの慢です。
私ってえらいでしょうという態度がこちらにあるのです。
だから人格者といっても結局はその人の業と因果法則でそうなってますからそこに現れた現象といった感じに見てみてはどうでしょうか。
それでがっかりすることも期待することも本来は成り立たないことになると思います。
ちょっと理解不能な回答になっているかもしれません。
わからなかったらすみません。
ただ判断を正しくしたいというのはいいのですが、他人に期待するのはすごく危険な生き方だということだけは覚えて欲しいと思いました。
長くなりましたが、長老の法話の中に判断について大変広く深い範囲でお話されていましたのでさらに向上を目指したいと思われれば是非見てみてください。
(字幕を入れると見やすくなります)
https://youtu.be/3aYhhiismtg?si=WIY9mCss-km_Kw1d2024年11月29日 (金) 18時16分 No.6361
なみ様、ポンタ様、ご教示いただきありがとうございます。リンク先のYouTubeの公演動画も含めて大変参考になりました。
コメントを拝読して、自分自身について幾つか気づきがありました。
まず、知識に非常に寄りかかって生きていることに気がつきました。知識をとても頼りにして生きていたため、正しい知識をどこか求めていて、誤情報にがっかりしていました。
また、エビデンスを積み上げて作られた「作品」に執着を持っていることに気がつきました。医薬品を例にとると、薬理、非臨床、臨床データ、市販後の集積情報など、科学的な膨大な論拠を進捗に積み上げた上に、様々な監査、査察や審査プロセスまでも経て承認されます。その「作品」であるエビデンスを作り上げる労力を知っているから、好きな作品が貶されたような気分になっていたようです。身近な例で言えば、漫画家さんだったら、親友に好きなマンガを良く読まずに、ひどい思い込みで貶されたような、そんな感じです。
最後に、特に尊敬できるような人は、自分より知識の面で優れていて欲しいと、勝手に期待しているところがありました。真偽を見分けるような特別な能力があったり、優れた学習が転移して別分野で発揮されるような、誤ったイメージを持っていました。だから、間違った情報を語られるとびっくりしていたのだとわかりました。
確かに、世間を見渡せば、医学、物理学、生物学、心理学、仏教学さえ、ニセ科学的な位置付けの存在がない学問分野はありません。その学問分野も歴史を遡ればボロボロです。それを信じてしまう人は情報が足らないだけというのは、良く理解できました。自分も専門知識が無い分野の話はボロボロですし、ガッカリすることではないですね。
ポンタさんの回答から、より正しい情報に近づく為には、しっかり必要な勉強をするか、その分野で真偽を判断できる人を頼る、YouTube のリンク先から自分自身の判断のバイアスを知ることが必要といったことも納得できました。
自分にとって中々離れられない重要な疑問だったので、回答いただきとても助かりました。
大変恐縮ですが、更にもう1段階、質問させていただければと思います。
講演にあったように、「ありのままに見る」ことが重要なのだと思います。それは、医薬品開発に喩えると、「試験の生データを見る」と同じなのかなと感じました。医薬品開発の場合、試験の生データから、証明された正しい統計手法(知識)で解析すると、データから解釈(判断、推論)で結論が出せます。知識が無かったり、誤った手法で解析したりすると、間違った結論につながります。
そんな認識もあり、正見で分析したら、瞑想などの実践・直接的な知覚や体験から、真理を抽出したり検証できるようになるというイメージを持っていました。四諦やアビダルマを勉強したら、観察したものから真実が見えてくるような、そんなイメージです。
実践を進めていく上で、正見やアビダルマや勝義諦みたいな、前提となるような知識は必ずしも必要ではなく、直接知覚だけが真実として、何も知識を持たずに観察する方が、正しい取り組み方でしょうか。
長文になり申し訳ありませんが、よろしくお願い申し上げます。2024年12月02日 (月) 15時26分 No.6371
正見を間違って理解していました。 - みわすいません。追加の自分の質問は、質問自体が誤解に基づいていて、間違っていました。答えは、なみさんの回答で既に回答されていました。
正見とは「四諦の知識を使って分析すること」でも「お経やアビダルマを頭に叩き込むこと」みたいに誤解している部分がありました。
テーラーワダー仏教協会のサイトにも、見解自体が無いことが正見と書かれていました。
https://j-theravada.com/dhamma/chienotobira/tobira125/
四諦のような真理も、「そのまま見つける」もので、見解として駆使しようとすれば、正見ではなく、逆にありのままの真実から遠ざかってしまう。それで、「判断するな」という話になるわけですね。
自分と同じような誤解をしてしまう人は多いのかもしれません。2024年12月02日 (月) 15時26分 No.6372
ご参考までに。 - ポンタこんにちは。
「世俗の「ムダ」と、聖の「ムダ」」https://search.app?link=https%3A%2F%2Fj-theravada.com%2Fdhamma%2Fq%26a%2Fpp200708%2F&utm_campaign=aga&utm_source=agsadl2%2Csh%2Fx%2Fgs%2Fm2%2F4
物理学は世俗の範疇です。物理学の専門的なことなら、やはり物理学者に質問するでしょう。テーラワーダのお坊様に物理学の専門的知識を質問しにいく人はいないと思います。
なんかこう、あたかも瞑想すれば世俗的な学問的なあらゆる知識に精通出来るのではないか?みたいなことを考えられてる印象(私の印象で違ってたらごめんなさい)があったので、先の「世俗の「ムダ」と、聖の「ムダ」」という法話を参考資料としてあげました。
勉強して知識を増やすことは、世俗的には「ムダ」ではない、ということだと思います。しかしそれが「解脱」となると「ムダ」になる、と理解してます。
特に聖のムダの2番目と世俗的知識の話とを混同すると、話がめちゃくちゃになるかと思いました。
「正見」については、「比丘たちよ。正見を得る縁は二種ある。他からの声と如理作意である」「仏法」(ポー・オー・パユットー著)(p 270)(註・第17巻増支部二集140ページ:第10巻中部根本(43)15ページ参照)。
とあります。これについてはスマナサーラ長老の最近の動画「無明を破る二つの条件」https://youtu.be/jrZsTkEe2f4?si=PEWWWdFe2d7pFstj」
が、参考になるかと思います。
また、その「正見」にも2種類あるようですね。「八正道大全」に詳しく書かれてます。
2種類の「正見」、「聖の「ムダ」の一番目と二番目」に当てはまるように個人的には思いました。どんぴしゃ当てはまるか?は正直わかりません。
以上、ご参考までに。2024年12月04日 (水) 13時23分 No.6377
ありがとうございました - みわ大変参考になります。理解が浅いところがわかり、助かりました。
仕事中にサティを入れて実況中継して、仕事が遅くなったりしたことを思い出しました。マインドフルネス瞑想あたりを入口にすると勘違いしそうですね。
自分の考えは、「瞑想すれば世俗的な学問的なあらゆる知識に精通出来るのではないか?」とは少し違って、「瞑想すれば、聖俗問わず、正しいこと(知らない、間違いの別)がわかるのではないか?」ですね。
例えば、詳しい知識を持っていないことに気が付けたり、内部矛盾している論理に気がついたり、ニセ情報の悪意や社会的悪影響に気がついたり…
ニセ情報に騙されてしまうことが、「正しいか判断できる能力」がないことを示しているように感じてしまっていました。「正しいか判断できる能力」として、一般化しすぎていたようです。
2024年12月06日 (金) 18時01分 No.6388
念の為に - ポンタこんにちは。
ああ、そういう意味でしたか!みわ様、なるほどです。
念の為に、私が紹介した「八正道大全」によれば、見解が起きなくなくなる、つまり聖なる正見は「覚り」の一歩前の心の状態のようですね。
「見解」なしには生きていけないと思いますよ。
いきなり「聖なる正見」の話で納得されたようなので、それが少し気になりました。
これは冗談ですが、医師が「最近の身体の具合はどうですか?」に対して「最近だの、身体の具合だの、そのような見解は全て捨て去った」とか患者側が言ったら話になりませんからね(笑)(聖と世俗の混同です)
その見解に固執しなければ宜しいかと思います。
一応、ご参考までに。
2024年12月10日 (火) 15時34分 No.6394
質問に答えてませんでした - ポンタこんにちは。
みわ様、まだ肝心の質問事項に答えてませんでしたね。
>>>例えば、詳しい知識を持っていないことに気が付けたり、
私の経験では「詳しい知識を持っていないことに気づくのは、その詳しい知識に出会った時」です。
ゲーデルの不完全性定理というのがあります。よく「トンデモ本」が多いと言われてます。
大人のための数学塾に通って、その方面の勉強をしたことがあります。
そこでわかったのは、ゲーデルの主張は「あくまで数学」であり「数学の中でも限られた分野に関する研究である」ということでした。
従って、いろんな分野の方が「ゲーデルによれば‥」と、ゲーデルを引用してその主張の妥当性を論じるのは、カテゴリーエラーということになります。
しかし、それとて、専門的に数学基礎論を学んだ方から教えてもらったからこそ判明した知識です。
目の前に「ゲーデルトンデモ本」と「ゲーデル正統本」があるとして、瞑想すればどちらが「トンデモ本」か?を、専門的な知識無しに判別出来るとは、ちょっと思えませんね。数学者の書いた本にも「トンデモ本」(数学基礎論専攻でない方が書いた場合など)があるそうなので。
専門知には、専門知なりの「その道の流儀」があり、その辺の正誤はやはり門外漢の素人にはわからないんじゃないかと思います。
一応、ご参考までに。2024年12月12日 (木) 18時17分 No.6419
まとめと御礼 - みわありがとうございます。
質問は頂いた回答で理解できているので、残りの雑談、感想(書きたいことを書くだけ)みたいになってしまいますが、すいません。
「本当に正しいか」は、古今東西の哲学でも重要なテーマですよね。お釈迦さまと同じ時代でも、厳密な直接知覚しか認めない順世派がいたり、部派仏教で正量部といった部があったり。
例えば、アマゾンの奥地で幻覚剤で幻覚を見るのと、瞑想中に偶々同じ幻覚が見えて「見えている」と実況中継して無視するのとは、体験は同じでも対処と得るものは違います。体験をどう解釈して、心の成長につながるかどうかは、前提となる知識や先入観的な部分がとても重要と自分は思っています。キリスト教徒が瞑想したら、慈悲の心を、神のアガペとして解釈でしょうし、神道なら真心と解釈するでしょう。
過去世を見たという人がいたとして、本当に見えたと思うのか、頭の中で自分でイメージしただけと思うのか、神からのスピリチュアルなビジョンと思うのか、体験そのものは「それそのもの」ですが、解釈と答えは人によって違ったものになります。
似非科学も宗教も、偽物もその道の「専門家」でそれっぽくしていて、ある意味その道の「専門家」が揃っていて、一見見分けがつきません。宗教も間違えたら、身ぐるみ剥がされることだってあり得ますよね。
正しい情報かわからないのは、とても危険な欠陥だと思います。
その危険な人間の欠陥を仏教では認めていて、仏教で目指すゴールが「正見がない」であるとしているならば、上記のような「真実を見つけるための正しい見解探し」とは全く別の道になります。「どの見解は正しいか?」という問いの追求の外側にあるわけですね。世俗から聖へ向かう段階に合わせて、正見がない方向に見方を変えていくということも確認できました。リハビリみたいですね。
長年探してきた「正解の鍵」を探す必要がないことがわかり、なんだかすっきりした、と感じです。
習熟したカテゴリーでない話をする時には、聞く方も話す方も相当に気をつけないといけないです。冗談ですが、外科医のお医者さんが、「人生の苦しみを無くすために〜」と説明しはじめたら、「先生、大丈夫?」となるでしょうね。
最後に結論をまとめておきます。重ねて御礼申し上げます。ありがとうございました。
Q:修行を進めても、世間的な知識について正誤が判断できるようにならないのでしょうか。
→ なりません。間違いは避けられません。
Q:誤った見解を持たない為にはどのように気をつけたら良いのでしょうか。
→ 世俗的な問題なら、知識を持つか知識を持つ人を頼るしかありません。それでも間違いは避けられません。2024年12月14日 (土) 14時43分 No.6421
重ねて御礼申し上げます。 - みわYouTubeの動画でもスマナサーラ長老に一言で、「知識も判断も不完全なものである」とまとめられているのを拝見しました。
なみさん、ポンタさんに教えていただいたことと同じかと思います。
ありがとうございました。2024年12月15日 (日) 22時02分 No.6424