日本テーラワーダ仏教協会 質問&議論BBS

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クリスチャン預流果は実在えるか? - ポンタ
こんにちは。

クリスチャン預流果は実在しえますか?

過去に「クリスチャンですが悟りを開きたくてたまりません。
教義上大丈夫でしょうか?
2021年12月24日 (金) 03時42分 No.5445」という質問があり、その時は全く疑問に思わなかったのですが、ヴィパッサナー瞑想を実践し「涅槃」を体験し、アビダルマの意味で預流果に達し、かつ神への信仰心を深める。別に「仏法僧への不壊の浄心」があるわけではない。

初期経典的には「仏法僧への不壊の浄心」がないならば、ヴィパッサナー瞑想で「涅槃」を体験しても「預流果」ではないと個人的には思います。

投稿された方以外にもクリスチャンでヴィパッサナー瞑想をやってる方はそれなりにいらっしゃるようなので、果たして「クリスチャン預流果」は実在しうるのか?と疑問に思った次第です。

宜しくお願いします。
2024年11月27日 (水) 17時15分 No.6350
クリスチャンでも悟れますよ - なみ
長老の過去動画にクリスチャンが勝手に弟子になった話だとかそういう話もあったはずです。

問題は心でしょうね。
クリスチャンはただの看板ですよ。

ただ、質問者さんの神への信仰心とか諸々の部分は妄想でしょうか。
難しいでしょうね。
神とかいう存在証明できないものを信仰することが無知ですから。
無知を大きくすることと悟りの道は正反対でしょう。

ジョークとしては面白いです。
2024年11月29日 (金) 18時16分 No.6362
想定問答 - ポンタ
こんにちは。

なみ様、コメントありがとうございます。ジョークということで想定問答を作ってみました。ご鑑賞ください。

想定問答。



クリスチャン「仏教で涅槃と呼ばれてるもの、それはキリスト教では神の領域であり、永遠不滅である。」

仏教徒「いや、涅槃は永遠不滅ではない。そう解釈したら邪道だ。」

クリスチャン「それは仏教側からの言いがかりで、現に仏教で言うとこの涅槃を体験して神に救われた人がたくさんいる。」

仏教徒「そう思いたければ思えばいい。だが、仏教的には邪道であるのは変わらない。しかも涅槃は言葉に出来ない。それを神の領域などと言葉にしてる時点で涅槃ではない証拠だ。」

クリスチャン「「涅槃」という言葉を使っておきながら、それを言葉に出来ない、とはかなりの屁理屈だな。神も同様に言葉には出来ない。だから、「涅槃」=「神の領域」として問題ないのだよ。語れないからこその「神」である。」

仏教徒「だから邪道者は困る。思いたければ勝手に思えばいいが、仏教の「涅槃」ではないことだけはきっぱりと言っておく。」

クリスチャン「あれれ?、仏教って宗教を越えた実践であって、つまり科学であるから、キリスト教の解釈を邪道扱いすること自体おかしいのではないかな?クスリはキリスト教徒にも効くはず。」

仏教徒「確かに仏教は科学であり宗教を越えた教えである。だから、当然その効き目は万人に通用する。勿論キリスト教徒にも。」

クリスチャン「なるほど。そう聞いてるし、そうだろう。仏教徒だけにしか効かないクスリなら、それはクスリじゃないし科学とは言えないからな。クスリが効いて「涅槃」=「神の領域」を体験出来た、と言ってるのだよ。」

仏教徒「涅槃を体験して預流果になれば、実体論から目覚めるから、神を信じられなくなる。だからそれは「涅槃」ではない。」

クリスチャン「おやおや?、、仏教が宗教を越えるなら「覚り」も宗教を越えるはず。まさか、宗教を越えた科学的な教えと称して、肝心の「涅槃、悟り」だけは、仏教だけの専売特許にしてるのか?それに仏教の「涅槃」こそが「涅槃」であり、キリスト教の「涅槃」=「神」は邪道だと文句つけるような言いぐさは随分と差別的だな。」

仏教徒「いや、アビダルマによると、涅槃を体験したら預流果で、だから、永遠不滅な神などないことが実践者にはわかるという意味だ。差別でもなんでもない。」

クリスチャン「実践して永遠不滅がわかるとは、仏教徒が永遠不滅はない。という教義を君ら仏教徒が信じているからだ。君の言う通り涅槃を体験して、永遠不滅を信じなれなくなったら、クリスチャンをやめるはずだが、彼らはますます神への信仰心を深めているのだぞ。変じゃないか?」

仏教徒「まぁ、譲って、君らキリスト教徒の涅槃体験は認めよう。しかしそれは仏教の預流果じゃない。預流果ならキリスト教の神を信じない」

クリスチャン「また、おかしなこと言った。仏教が科学であり、万人に効果あるなら、どうしてキリスト教の「涅槃」=「神の領域」をなぜ素直に認めない?、、まぁ仮に君の言うことを信じてみよう。「涅槃」を体験すれば預流果になり永遠不滅を信じられなくなる。つまりヴィパッサナーをやるとキリスト教から離れる。てことになるが、そんなことは起きてない。つまり、仏教の肝心要のクスリとしての効果が実は効いてないことを世間に吹聴してることになる。この矛盾に君は気づいたかな?」

みたいな


2024年12月02日 (月) 15時26分 No.6370
質問の意図がわかったような気がします - なみ
確かに神というわけのわからないものと涅槃というわけのわからないものは我々一般人には同じものに見えますね。

私も正直にいって涅槃などと言われても大してわかりません。

神の領域というのも初めて聞きました。

ただ、クリスチャンであることと、ヴィパッサナーをすることは両立できますし、私は預流果になったクリスチャンですと言うのは人の勝手です。

阿羅漢でクリスチャンで神も信仰してますと言うのは人の勝手ですよ。
お笑い種ですけどね……。

そういう嘘の人はいくらでもいると思いますよ。

さて、この問答についてですが、涅槃=神の領域?は同じと思っているところに何か問題があるように思いますが、この人はどうやって調べたんでしょうか?

話は少し変わりますが、
アビダンマの解説の一部に人の心はその強さによって修行の進める段階が決まっているそうです。

つまり現世でいくら頑張っても成果がないという人はいます。
五蘊がうまく働かない、心の受容が限られている、要するに心の力が弱いと修行の成果が得られないという話です。

だからといって努力を怠ってはならない、それが分かるのは仏陀だけだとも長老は仰っています。

ここで言いたいことは、涅槃やら預流果やら気にしていても仕方がないんじゃないかということです。
神の領域だ!などと思ったところで、その個人の見解が万人の見解になることはありません。

それをやると宗教やテロ組織になりますよね?

では何が違うのかというと仏教の凄いところはすべて検証できる点です。

涅槃を信仰しなさいとはいっていません。

神を信じないと教徒になれない宗教とは違います。

なので、涅槃とか預流果とか、知識、言葉で捉えようとしない方が良いと思います。

涅槃という体験はあくまで努力が実を結んだ結果を説明するためについた名称であって、目標ではないし信仰する対象でも議論の対象でもないという考え方です。

なぜそういう考え方をするかというと、

例えば、涅槃というのは時間の感覚が短くなるのだという説明があったとしても人それぞれの時間感覚が出てきてまったく正しく説明ができない。

気持ちがいいのだといってもその人の心に受容できるだけの気持ちよさしか理解し得ないからです。

だからここに認識のバイアスが入らないようにとしてしまうと、1/75秒だとか修行体験に基づいた現象を引き合いにだして緻密に説明する必要がある。

そうなると修行をしていない人は余計に理解に苦しむからです。

「私」という実感を「あなたも私がありますね?」と説明するくらい不可能な話です。
こうしたらここが痛い、これはあなたも同じでしょう? だから私の感じる私とあなたの感じる私は同じです。

こういう理論が破綻しています、同じじゃないです。
心の違いによって我慢の限界点は人によって違うのと同じです。

なので、何かの体験について説明するときその体験を初めに感じて定義した人とまったく同じ体験ができると思わないことです。

それぞれの人々の心の受容レベルに差があるからです。
そのキャパシティの範囲でしか、人は体験、理解を得ないのです。

イメージが湧くでしょうか……

物事を捉える時には必ずその人個人のマインドセット、既にその人が経験と心で認識した機能を使うことになることと思います。

そうなると言葉そのものが足枷になるんです。

「神」という説明不可能な認知の歪みだらけの妄想を「ある」と思ってしまうとそこからして議論が進まなくなるんですね。

「涅槃」も同じです。

終着点の涅槃までは人によっては届かない可能性も十分にあるのです。


ただ、その終着点がありますよと言わないと「これって意味のないことなんじゃないか」とか、「終わりのない世界だ」と勝手に結論を持ってしまう可能性があるのだと思います。

なので、仏陀が涅槃はありますよ。頑張ってねと言っているんだと思います。


それで、涅槃や神を議論できない理由は他にもあります。

比較対象する対義語が存在しないので実像を捉えられないという問題です。

個人的な話になりますが、最近、男だ女だと騒ぐ問題についてですが、

じゃあ男って何?女って何?というと、結局誰も説明できないんではないでしょうか。

なぜなら、男を説明するためには女を説明する必要があり、女を説明するには男を説明する必要があるからです。

これは男女平等問題が解決しない理由の1つの気がします。

神信仰と同じです。

長いと言うには短いとイメージするものが必要なのです。

実際には女っぽい男もいれば男っぽい女もいるのです。性器が付いていても染色体は逆の性別という人もいます。

だからまったく何が何だかわからない世界がそこに生まれるんです。

今のポンタさんが作った劇場も「ある」という前提があるため相対的に回答を出そうとして失敗していますよね。

矛盾だと結論付けていますが、矛盾しているのはどちらも妄想の域を出ていないせいだと思います。

比較対象するものがなければ何一つ定義は出来ません。

だから、長老もよく言いますが「それってどうやって調べたの?」になってしまうのです。

だから、「神」というものを作るのにはいろいろ神ではない対照的な存在をよく出すでしょう。
悪魔だとか、異教徒だとか、堕天使だとか、背信者だとか。

そういう神と対なるものを作って初めて神というものの存在が確かなものになっていくのです。

だからそれって全部妄想で無知なわけです。

出したものすべてがどうやって調べたんだ?という問いに半端な回答しか持っていないから。

涅槃は少し違います。

仏陀が一般人に説明する場合、仏陀は消去法を使うようです。

以下抜粋https://j-theravada.com/dhamma/kantouhouwa/kantou125/

1.いかなる存在でも無常で、一時的なものである。
  たとえ、天界、梵天などの幸福な境地に生まれても、そちらには寿命があるので、最終的な    
  境地ではないと理解することです。
  それを乗り越えた境地は、涅槃

2.無執着になると、心は自由なのです。
  一切の現象、無常なるもの、有に対する執着から離れることが、涅槃

3.五欲に完全に執着しない状態を得る。最後に、如何なる存在にも執着しない境地

----ここまで----


あるというところから離れるのが涅槃だという説明に対して、神の領域は恐らく私が思うにすべてが揃った世界だと思います。

心に絶対的な幸福が存在する。領域。

だからこの2つは似て非なるものですし、あるということは消えるということです。



また、この問題には心に去来する涅槃という境地を説明するのに自分の認識を使っても捉えられない問題があるように思います。

それぞれ何を言ってみたところで自分の主観に基づいた結論にしか達しないわけですから。

涅槃と神の領域というのはどっちも経験し得ない妄想になってしまっているのです。

もしその領域にいるという人がいても確かめる術がないんですね。

なので、もし心の中にこういった問答が現れたら「それって私の心の向上に何の役に立つの?」と聞いてみてください。

誰も何も言えないでしょう。

言ってみたところで、それは妄想で何の力も持たない言葉です。
この人は神の領域という妄想に至る道を妄想で描くしかないわけですから。

仏教はしっかりと妄想をなくすことを勧めています。
2024年12月06日 (金) 18時01分 No.6381
教義と体験 - ポンタ
こんにちは。

なみ様、コメントありがとうございます。

想定問答を途中でやめたのは、そもそも「キリスト教」について殆ど知らないからでした。

実際にキリスト教徒の方でヴィパッサナー瞑想されてる方のコメントが望まれますね。

キリスト教の方がヴィパッサナー瞑想する場合、「キリスト教の教義」に従って瞑想するでしょう。

仮にそうであるならば、仏教における「涅槃」と全く同じ体験しても、それを「神の領域」(これは正確なキリスト教の教義にもとづくものではありません。キリスト教にもとづくなら、仏教では考えられない概念を使用するのではないか?という私なりの推測です)とするのは、論理的な帰結になります。


「教義と瞑想実践」というのが本質になるかと思います。

初期経典によれば、預流果の条件として「仏法僧への不壊の浄心」があります。初期経典に依拠する限り、クリスチャン預流果は存在し得ないとは思いますね。

(ここで、テーマを一旦打ち切り、仏教の話に戻します)

ちなみに、>>>涅槃と神の領域というのはどっちも経験し得ない妄想になってしまっているのです。

これは違いますね。「涅槃」は経験出来ない妄想概念ではありません。「涅槃」は経験可能です。






2024年12月10日 (火) 15時34分 No.6392
ちょっと話が - ポンタ
何を語られてるか意味不明な箇所がありましたが、いくつか「あれ?」と疑問に思ったとこを説明したいと思います。

>>>なので、何かの体験について説明するときその体験を初めに感じて定義した人とまったく同じ体験ができると思わないことです。

◎煩悩を滅尽された阿羅漢果という点に関しては、ブッダも阿羅漢も「同じ」体験をされてますよね。「これは誰も理解出来ない」と諦めかけていた「悟り」「解脱」を説かれはじめて人々を、お釈迦様と「同じ「悟り」「解脱」」に導いた。そのようにして人々に教え導いたのが「仏教」ですよね。

>>>終着点の涅槃までは人によっては届かない可能性も十分にあるのです。

ただ、その終着点がありますよと言わないと「これって意味のないことなんじゃないか」とか、「終わりのない世界だ」と勝手に結論を持ってしまう可能性があるのだと思います。

なので、仏陀が涅槃はありますよ。頑張ってねと言っているんだと思います。

◎「ブッダの教えは実践してみれば即座に結果が現れます。解脱・涅槃は、今生で、この身体で、体験することができます。」『ブッダの実践心理学 第七巻』(p75)より。

有名な「ダンマの徳」の二番目の解説部分ですが、なみ様の解釈だとこれは単なる「気休め」ですか。

私はそう考えてません。「解脱・涅槃」にいかないのは「怠けてる」からだと思います。何故なら、法則とは「必ずそうなる」という性質のものだからです。カップを手から離せば床に落ちる。これに個人的な解釈の余地はありません。落ちろ!って命令する必要はありません。

必然的に「解脱・涅槃」を体験するというのも、そのように、修行すれば嫌でもそうなる。という意味です。それが法則というものだと思います。

ただ、五逆罪で、ブッダから教えを聞いても「悟れなかった」などの実例はあったようですね。

以上、ご参考までに。



2024年12月10日 (火) 15時34分 No.6395
ありがとうございました - ポンタ
初期仏教Q&Aで取り上げて頂きありがとうございました。
2024年12月13日 (金) 13時33分 No.6420


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