日本テーラワーダ仏教協会 質問&議論BBS

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ブッダへの信について - ポンタ
こんにちは。

ブッダへの信、とくに確信については、2600年前のお釈迦様の時代の信と現代での信とは決定的な違いがありませんか?

確かに、経典から、あるいは長老方の解説から、ブッダの桁外れの智慧を垣間見ることは出来ます。

しかしながら、お釈迦様の時代には、お釈迦様の佇まいやそのお人柄は勿論、お釈迦様から直接説法を聞き、その上でブッダに対する揺るぎない確信を確立できたのだと思います。

現代でも、ただ本を読むことより、法話会や瞑想会で直接指導を受けることの重要性があるかと思います。

ブッダから直接説法を聞くなり瞑想指導を受けることはとてつもないことだと思います。

その意味で、お釈迦様の時代のブッダへの信と現代のブッダへの信は埋めがたいものがあるように思いますが、いかがでしょうか?

仮にそうだとすると、預流果の条件である「仏法僧への不壊の浄心」のレベルがお釈迦様の時代とは異なり、現代では預流果は存在しない可能性もあるように思いました。
2024年11月24日 (日) 20時42分 No.6333
法への信 - なみ
仏陀への信ということですが、
信を持つべきは仏陀ではなく法であると長老は何度も仰っているように思いますが……。

そもそも特定の個人に信を抱くということは奴隷根性であると思います。
人間は完璧でも完全でもないので、人に信を持つことそのものを危険視さえしているはずです。

参考に「真の仏教を確かめる」
https://www.youtube.com/live/L7LL33YJcF0?si=Jbl6V1tSfqSg89c8

ここで語られているように人格完成を目指さないのならそれが欲になっていないか確認してください。

頭の中で湧いた思考でちょっと偉くなろうとしている(慢が働いている)可能性すらあります。

第一に預流果が存在するといってもしないといってもあなたに確かめる方法はありますか?
海の水はしょっぱいよと言われてもあなたが海を知らない場合はどうやってどれくらいしょっぱいのかと感じることは不可能でしょう。

第二に知っている人がデータ出して海水塩分は3%くらいでしょっぱいのですと言われても頭の中で適当に妄想し満足して本人は何も知らないまま、海の水と聞かれたら3%と偉そうに語るのです。

3%、どうやって確信を得たんでしょうか。
結局それって言われたことを馬鹿みたいに信じただけですよね?

かといってその人物が信じられないから信じるに値しないとか信じられるから信じるとか、今と昔は違うから昔の海の水というものはなくなったはずなのだ。というのは智慧のある人間の思考でしょうか?

何かの奴隷になろうとしていませんか?
無知になって心を汚そうとしていませんか?

今一度ご自分を確認なさってみてください。

2024年11月27日 (水) 17時15分 No.6348
正等覚者であるか確かめる - ポンタ
こんにちは。

なみ様、コメントありがとうございます。

我々はダンマを頼りに「信」を深めていくよりないですね。

ブッダの時代には「ブッダが正等覚者かどうか調べなさい。調べてから教えを聞きなさい」というブッダによる戒めがあったそうです。

なかなか凄まじい内容で、例えば「一目惚れ」みたいなことを許しません。

それは「一見で人を決めつける」ような現代人にも通用する「教え」だと思いました。

しかしながら、その手段はブッダなき現代では出来ませんね。

以下、引用します。

「比丘たちよ。思察しようとする比丘は他人の心の次第を定める方法を知らなければ、ブッダが正等覚者であるかどうか知るために、如来について吟味すべきである。 比丘たちよ。思察しようとする比丘は他人の心の次第を定める方法を知らなければ、ブッダが正等覚者であるかどうかを知るために、如来の二種の法で吟味すべきである。すなわち、眼と耳で吟味すべきである。 眼と耳で当然知られるかぎり、憂鬱の法は如来にあるかないか。眼と耳で当然知られる如来の憂鬱の法はないことを知る。 それからお前たちは眼と耳で当然知られる限り、善悪の混じった法が如来にあるかないか、如来をさらに吟味する。そして如来を吟味したとき、眼と耳で当然知られる限り、如来の善悪の混じった法はないことを知る。 それからお前たちは眼と耳で当然知られる限り、穢れのない清純な法が如来にあるかないか、如来をさらに吟味する。そして如来を吟味したとき、眼と耳で当然知られる限り、如来の穢れのない清純な法があることを知る。 それからお前たちはさらに如来がこの善法を維持してるのは長い間か、わずかな間かどうかを吟味する。そして、如来がこの善法をわずかな間ではなくて長い間維持することを知る。 それからお前たちは如来をさらに吟味して、この比丘は有名で名誉がある、何か欠点があるかないか、さらに吟味する。(というのは)、比丘(によって)は有名で名誉を得るまでは欠点を持たないが、有名で名誉を得ると、そのときには欠点が出る。そして、この比丘は有名で名誉があるが、欠点はないことを知る。 それからさらに、この方が恐れずに不善を控える人で、恐れるから不善を控える人ではない、あらゆる欲を感受しないのは、貪欲がない、貪欲を無にしたからか、そうではないか、如来をさらに如来する。そして、この方が恐れずに不善を控えていて、恐れるから不善を控えるのではない、あらゆる欲を感受しないのは、貪欲がなく、貪欲を無にしてるからだと知る。……(以下略)」『仏法』(ポー・オー・パユットー著)(p159〜160)(注・第10部根本(47)49ページ以下)

長いので割愛しますが、「このように答えられる師に聖弟子は正法を聞くために近付くべきである」と経典では続きます。

要は「徹底的にあら捜ししなさい。そして欠点が見つからなくて、正等覚者だと自分自身の眼と耳で納得したら、その上で法を聞きなさい」ってことで、現代の「自称覚者」とは全く違い、さすがは正等覚者だと個人的には思いました。

実際にブッダの時代に、3ヶ月間に渡って、ブッダを徹底的に調べた人物がいたそうです。

ちなみに「この調べる方法は先の仏語で紹介した以外に、信が生じるまで、調べる例を示す仏語がある。以下に示す内容は、ブッダ自身ですら吟味せよとの教えである」「仏法」(p259)と著者が述べてます。

先の初期経典からの引用は、その後に続く内容です。
2024年11月29日 (金) 18時16分 No.6356
質問に答えてませんでした。 - ポンタ
まだ、質問に答えてませんでしたね。

 >>3%、どうやって確信を得たんでしょうか。
結局それって言われたことを馬鹿みたいに信じただけですよね?

まさに、この点に関してで、眼と耳でもって「正等覚者がホントに正等覚者か?」を調べる手立てが無い故に、経典に記されてるような意味内容での「ブッダへの信」(あくまで経典に記されてる意味でのブッダへの信)は現代では持ち得ない。何故なら、正等覚者であるブッダを目の当たりにすることが現代では不可能だからです。

が、私なりの回答です。


また、世尊に対する信心でさえ個人に対する愛情に変われば、解脱、最後の段階の慧の自由にとって障害となる。ブッダはそれらを捨てよと教えられる。と、ポー・オー・パユットー氏がブッダの言葉を引用して述べてます。

ブッダへの信について、大変興味深く書かれてます。
2024年11月29日 (金) 18時16分 No.6363
誤字 - ポンタ
先の「正等覚者であるか確かめる」という投稿で誤字があったので訂正します。

(注・第10部根本(47)49ページ以下)⇒⇒注・第10巻中部根本(47)49ページ以下。
2024年11月29日 (金) 18時16分 No.6366


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