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アビダルマの矛盾について - ポンタこんにちは。
初期仏教Q&A.意欲・やる気を育てる方法。
https://www.youtube.com/live/2M61QicttyU?si=CMZHqrp7drVYQ4xI
この動画のQ16はアビダルマに基づく内容ですが、質問内容も長老の回答もちょっとおかしくないですか?
「涅槃を対象に」というのは原理的に不可能です。何故なら、涅槃とは「認識がストップ」した状態なので、つまり何も認識不可能な状態です。従ってそれを「対象化」する事自体が不可能です。対象化出来るなら、認識が働いてます。
長老は「アビダルマは知識的に」と、知識的な面を理由に、実践するにはそれを気にしない。という趣旨の回答をされてます。
それはそれで問題ないと思いますが、私が問題にしてるのは、その「知識レベルが既に破綻しており矛盾しているのではないか?」という意味です。
そこに「認識がない」ならば、涅槃は絶対に対象化されないはずです。対象化するとは認識対象だからです。
どのように考えればいいでしょうか?
宜しくお願いします。
2024年11月24日 (日) 20時42分 No.6332
頭で考える必要なし - なみ涅槃を対象とはいっていますが、涅槃という状態にいるのだから涅槃を対象という言葉になっているのだと思いますけど。
例えば私たちが何気なく吸ってる空気ですが、わざわざ認識していなくても空気があることは息が出来るのだからわかるでしょう。
経験したらもう認識できるのです。
私たちは別に空気がある!これだ!と空気を対象としながら息する必要は無い。
かといって空気は認識できないからそれは対象化されないよとは言わないでしょう。
空気というものを経験すればそこで何かやろうとすると空気を対象としてという言葉になることもある。
質問者さんの言うとおり、初めての場でこれが涅槃かとは思えないでしょうね。
でもそれは最初だけの話で、流れを観察して終われば涅槃だったと認識できる。
意識飛んでたわけじゃないですからあれが涅槃かと分かります。
だから涅槃は誰にも経験できない、現実に意識を戻したら忘れてしまうみたいなそういう話では涅槃そのものの単語も成り立たないでしょう。
だから長老は我々には気にする必要はないといったのはそういうことだと思います。
経験すればいらないから。
たぶんそれだけのことですよ、こんな回答で満足できますかね。
2024年11月25日 (月) 18時06分 No.6343
今この瞬間 - ポンタこんにちは。
とてもご丁寧なコメントありがとうございます。
問題にしてるのは「今ここ」という瞬間では「対象」にならないのでは?という意味です。何故なら、その時は「認識(観察)自体が停止」しているからです。
ヴィパッサナー瞑想は「今ここ」という「瞬間」を観察しますよね?その時の観察対象を「対象」と呼ぶと思います。
涅槃を体験したと判明するのは、涅槃から出てきた後のことで、それは、なみ様が「空氣の比喩で」指摘された通りだと思います。つまり、涅槃を「経験した」とわかる(事後的に)。
「今この瞬間を観察」する上で「認識停止状態を対象として観察する」のでは、その瞬間にはまだ「認識(観察)」が働いている、という事になり、それは「その時(涅槃)認識停止状態」であることと矛盾してないか?、、、という意味です。
勿論、事後的に「涅槃を経験した」という認識は別にあるかと思います。
また「認識停止状態をその瞬間に認識できる(今この観察で涅槃そのものを観察する)」というなら明らかに「今の瞬間における対象」なので、話はがらっと変わるかと思います。
2024年11月27日 (水) 17時15分 No.6344
誤字 - ポンタ誤字の訂正です。
(今この観察で涅槃そのものを観察する)」というなら⇒⇒(今この瞬間で涅槃そのものを認識する)」というなら。2024年11月27日 (水) 17時15分 No.6345
涅槃について - ポンタちょうど、問題にしてることを解説されてるスマナサーラ長老のYouTube動画がありました。
《ブッダのことば》涅槃いう境地。https://youtu.be/6_oFxn3Iun8?si=rO2b-cw-hWuTGXjz
この動画の54:22から「paradox」というタイトルで、その経典解説に「こころの認識対象にはならない」とあります。
それならアビダルマのような「対象にする」という矛盾がなく、スッキリわかりやすいです。
次のタイトルは「仏陀の総論」で
1:08:30まで解説がされてます。
その解説も矛盾なく合理的に思いました。
ちょっと話がズレますが、初期経典では、滅尽定を体験出来るのは阿羅漢果だけ、に対して、アビダルマでは、不還果と阿羅漢果が滅尽定を体験出来る。と明らかな内容の違いがあり、アビダルマの主張はホントなのか?という意味も含めての質問でした。2024年11月27日 (水) 17時15分 No.6346
あまり - みや合理的には行きつかないとしたほうがよさそうです。
対象にとったのは、涅槃に入って涅槃を観ることではなく涅槃を対象に取ったということだとは思います。
悩み苦しみの無い世界を対象に取ると落ち着く程度と思っていいかもしれません。2024年12月04日 (水) 13時23分 No.6378
現象世界 - ポンタこんにちは。
みや様、コメントありがとうございます。
落ち着く程度なら、認識が活動していてもあると思います。通常のヴィパッサナーでも落ち着くことはありますね。それは現象世界での出来事ですね。
「涅槃」は、認識自体が消えた状態(現象世界に非ず)なので、落ち着くとか、そのレベルの話じゃないと思います。
現象世界の出来事で、その時に苦しみが減っているという意味であるなら、「対象」という表現に違和感ないですね。
初期経典による解説のほうがしっくりきます。
スマナサーラ長老の経典解説でも「涅槃は心の認識対象にはならない」てあったと思います。
paradoxというタイトルですが、パラドックスでも何でもない、と個人的には理解してます。
ちなみに、ここで言ってる涅槃とは「滅尽定」のことです。
「「悟った」とは、滅尽定をほんの瞬間だけ体験することです。」『ブッダの実践心理学第二巻』(p303)。
2024年12月06日 (金) 18時01分 No.6380
追加です - ポンタちょっと追加です。
色界禅定でも「悩み苦しみ」から解放されたような実感がありますね。かなりの落ち着きや喜悦感があってもそれは「涅槃」ではない。
ブッダ当時のインドでは色界禅定のことを「悟り」だとしていたとか聞いたか読んだ記憶があります。
ひとつの解釈としては、アビダルマの「涅槃を対象に取った」という解釈はあり得るとは思いす。しかしその解釈だと「なぜ経験してない、また知りもしない「涅槃」を対象に取ろうとしたのか?」を説明出来ないと思います。
「涅槃だった」と知り得るのはあくまで事後的だからです。
2024年12月06日 (金) 18時01分 No.6383
ポイント - ポンタ2つ投稿しましたが、言いたいポイントは、
>>>悩み苦しみの無い世界を対象に取ると落ち着く程度と思っていいかもしれません。
という点で、これだと色界禅定や無色界禅定も入ってしまうのではないか。
ということです。
それらの禅定世界は「悟りに非ず」として、その後、お釈迦様が悟りを開かれた。という事もあり、しつこくなりましたが、コメントした。という経緯です。2024年12月06日 (金) 18時01分 No.6384
動画 - ポンタこんにちは。
3つコメントしましたが、スマナサーラ長老の動画でちょうど参考になるのがありましたのでご参考にされてください。
「ブッダの呼吸瞑想」https://www.youtube.com/live/FyGZuJPgTZY?si=iFQbA2rGn8pkRan0
動画の1:46:47の「悩み苦しみ」というのが、私が言った「悩み苦しみ」とほぼ同じ意味です。
特別に「涅槃」でなくとも「悩み苦しみのない世界」ならば普通にあります。
また、動画のラストになる2:08:00以降で、「捨てる」「何も取らない」と長老が解説されてます。
つまり、みや様のおっしゃる「悩み苦しみの無い世界」も全て捨てるのです。
禅定で喜びがあり、現象も非常によく観察出来ている。それらを全て捨てる。
私の言葉で表現すると、「最高のコンディションの心」「無敵の心の状態」を全て捨て去る。
「全てを捨て去る」というのと、「何かを対象に取る」というのとでは、意味合いが異なります。
こうして初期経典を基本に考えると、やはりアビダルマの表現は、やはりおかしいなと改めて思いました。
比喩的に敢えて表現すれば「涅槃も捨て去るのが涅槃」ですね。2024年12月06日 (金) 18時01分 No.6387