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解脱のモチベーションについて - S.I仏教徒が解脱を目指すのは、苦である「生きる」ということを厭うためであると理解しています。
ということは、仏教徒にとっての仏道修行は、唯物論者(死んだら無になると思っている人)が生きることが嫌になって自殺することと、モチベーション的には同じことだと言えてしまうのでしょうか?
(智恵の有無、その行為の結果の違いなどはあれ)
だからなにということもないのですが、ふとこんな考えが浮かんでしまい、自分では反論したいような気もするけどそれで正しい気もするなあという気持ちでもやもやしています。
どなたか、肯定でも否定でもいいのでコメントいただけるとありがたいです。2024年10月06日 (日) 14時02分 No.6263
非存在欲 - ポンタこんにちは。
自殺願望は非存在欲が原因のようですから、非存在欲が活発になって「悟った」と勘違いするリスクがあるように思います。
非存在欲が活発になると五欲がかなり少なく感じたりするので、五欲が活発になってる時と比較して「悟った」て気分になる可能性があります。
また「厭離」の気持ちを無理に引き出す必要はないと思います。それは「生きる」を観察した結果として自然と現れる気持ちで「怒り」とはかなり違います。
「怒り」「非存在欲」を強化する方向ならまずいと思います。
チェック方法は、そこに「笑い」があるか?「お布施」した際に「勿体ない」と感じるか?などです。つまり「怒り系の煩悩のチェック」をすれば、わかるかと思います。
以上、ご参考までに。。
2024年10月09日 (水) 00時49分 No.6264
前提が…… - なみ私の個人的な考えでお話しします。
解脱を目指す理由は生きることを厭うためというのは難しい言い回しで、質問者さんの理解は恐らく間違っています。
(厭う:いやがる。いやがって避ける。きらう。2.大事にする。かばう。)
解脱をする理由は、苦しさから逃れるためじゃありません。
人生を心を善いものにしようとする結果として起こるのが解脱です。
なので、モチベーションは自殺することと同じではありません。
どうして同じと感じるか説明します。
まず、生きる苦しみから逃れる厭うというのは苦しみというイメージから受ける不快に対して怒りの感情が起こっています。
なので、苦しみ=怒り=嫌いなわけです。
同様に自殺も、動機としては現在の環境が嫌だから自殺したいという話です。
環境が苦しみ=怒り=嫌いだからです。
だから同じと考えてしまうのです。
なので、間違えた根幹である生きることについて説明します。
そもそも生きることは苦であるという発見が仏教にはあります。
苦という言葉で区切っているところが味噌です。
苦しみと言ってしまうと凄く感情的になるので注意が必要です。
人は喜んで苦を得ています。
例えば、好きな食べ物を食べるときにも好きなものを得るときには必ず前提の苦を喜びます。
一生懸命稼いだり、順番を待つのも厭わなかったり、です。
これが俗世間の生きるということです。
その交換条件が5:5ならまだしも、2:8だったり1:9だったりするわけです。(楽しみ:苦しみ)
でも、みんなそれが当たり前だと思って楽しく生きようと必死になっていますが、多くの人はそれで幸福だと満足してはいないのです。
それは今日、文明が遙かに発展しているのにも関わらず幸福度があがっていないことを見ても理解できます。
何のために苦を得ているのかといえば、楽しみを得るためですが、それは多くの場合、貪瞋癡を限りなく得ることになっているのです。
これが最大の苦の原因です。
何かを得た経験をすればさらにもっとこうしたら、と欲の回転。
怒りの経験をすればさらに次はこうしてやろうと、怒りの回転。
もっと効率的に楽しようではないか、もっと人からだまし取ってやろうではないかとどんどん心が汚れる方向へ行くのを厭わない痴の回転。
こういうのを単一ではなく時には複合させて回転させていると説くのが仏教の物の見方です。
こういった風に生きることを厭うと言っているのだと私は思いますよ。
なので、質問者さんのいう解脱の目的は生きることを厭うという理解はちょっと的外れな感じで、
わかりやすくいえば、
食べ物に入る毒を嫌うと言っているようなものだと思いましょう。
まあそもそも毒だよねって気づいてるので飲まない食べないだけです。
毒だったら食べないのは当たり前だと思うかもしれません。
けれど、俗世間を見ればみんな食べています。
だからこんな恐ろしい世界からは離れたいというのがモチベーションになる人もいるし、
もっと善い世界はないのかと頑張る人もいる。
この生きるという世界が見えるかどうかでだいぶ違うように思います。
2024年12月02日 (月) 15時26分 No.6375