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お釈迦様の人生はやりたい事をした人生ですか?それともやりたくない事もした人生ですか?
何か伝承や文献にやりたくない事もしたという記録はありますか?2024年09月11日 (水) 06時16分 No.6192
感情が気になる人生 - なみ悟るまでは普通の人間ですからね。
人間ですからやりたいことやりたくないことはあったと思います。
悟ったとされる35歳までは色々あったと思います。
やりたくないことをしたという記録があったかどうかはしりませんが、
記録として残っている悟った後の少しそれっぽいところをあげましょう。
お釈迦様が仏教を女性に教えたときの話です。
当時は今よりも女性が下に見られていた時代です。
すごい世間の反発がありました。
そして一番に解脱された乳母に女性も解脱できることをみんなに証明して欲しいとそれとなくお願いしたくらいですからすごく苦悩されていたのがわかります。
だって、それを証明するってどうやってですか?
かなりの無茶ぶりです。
そもそも、仏教では解脱を証明すること自体あまり推奨していませんね。
それは今のテーラワーダ仏教を見ていても分かります。
誰もそんなの証明してやるぞーとは言ってないんですから。
解脱は他人に自慢することやひけらかすことじゃありませんね。
でもそれをわざわざあえてやってみせてはどうだろうかというようなことを言うくらいです。
相当当時の人々の無知や態度に悩んでいたのだと分かります。
それって別に記録として残っていなくても嫌だったと思いますよ。
そんなの見せたら仏教って凄いじゃないか、私もやってみようかなと完全に無知で神秘体験に魅せられて信仰してしまう人も出てしまう可能性だってあります。
でもそういう気持ちはつまびらかに描かれたりはしません。
気持ちってその人の中に現れる現象であって確認できないでしょう。
こんな気持ちでしたと言ったって、分かっているのは本人だけ。
だから言葉にしたって役に立たないんです。
やりたいとかやりたくないとかそれって感情なんですから。
他人の感情を見ても自分の感情が変わる、それだけではないでしょうか。
他人の感情が本物かどうかは確かめられないんですから。
それを真実だと知る方法がないのに真実であるかのように受けとると色々問題になってきます。
人は自分の感情には奴隷にまでなっているくせに本当は他人の感情を知ったつもりで出来ていないんです。
少し説明します。
他人の感情を知るためには、
自分の理解できる感情を自分の中から発見して、それが他人の感情であると発見しようとするやり方しかないんです。
「やりたかったことです」と一概に言っても、
それぞれの人の中にやりたかった経験を通して、その感情を通して理解するしかない。
だから自分の人生で大小様々にあるやりたかった経験のピースを当てはめて理解することしかその人にはできませんよ。
だって経験してないことは、推察で知らないからです。
そのシーンだけ切り取っても人生全体を俯瞰して、その人の感性感覚まで共有することが不可能な以上、100%という精度にはなりませんよね。
そしてこういう風に見たい、そうに違いないという自分の感情の歪みもあって初めて「ああ、それがあなたのやりたかったことですか」という自己感情から導いた結果の見解があるんです。
逆も同じです。
そんなものを信じること自体が本当はおそろしいことですが、世の中の人たちはみんな共感したつもりになってそれで何となく人間社会をまとめているんです。
だから、それが正しいと思って生きています。
別にそれが間違いだと言ってはいません、そういう生き方でも生活可能ですからどうぞ続けてください。
ですが、それを性格にするほど続けることはとても危険な行為だと私は思いますよ。
他人の感情が気になるということは自分の感情を回転させるための無知が作った病だと思った方が良いと思います。
病ですから進行すれば自分が壊されます。
他人の感情に振り回され始めます。
他人の感情を理解しようと自分の感情を使う羽目になるわけですからその人に心の自由はありません。
自分の感情の奴隷どころか、他人の感情の奴隷に成り下がるのです。
悲惨ですよね。
でも世の中はそういう人々はたくさんいますよ。
例えば神を信仰してしまえばどうなるでしょうか。
もし、神が最もやりたくないことをやっているなら私もある程度のやりたくないことやるべきだと考えてしまうんです。
そのときの頭の中の等式は神≠人間ですから人によっては人間が人間を殺すこともやりますよ。
それくらい危険なものだと私は思います。
2024年12月02日 (月) 15時26分 No.6374