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生きとし生けるものが幸せでありますように。
こちらの関連記事へ返信する場合は下のフォームに書いてください。
人間は外部の客観的な事実を認識できない? - viriya度々質問してすみません。
https://youtu.be/quggLUN1whU?feature=shared
この質問と回答に大いに刺激されたので質問します。
この質問者様は、世界に自分しかいないと感じたと言われています。最初聞いた時、?という感情と、ちょっとわかるという感情が起きました。それで長老の回答を受けて素晴らしい内容だと感じるようになりました。質問者様とスマナサーラ長老に感謝します。
私の質問は、自分以外の客観的な世界はどうやらあるらしいが、人間は客観的な世界をありのままに認識できず、人間が認識できるのは今ここの瞬間だけ、今の心の状態だけということで間違いはないか?といことです。人間は目の前の他人を認識する時も光と音の速度の制約があり、リアルタイムで彼らを認識できず、表情や声という物質を介してコミュニケーションしているので、完全に相手の心にアクセスすることはできない。故に誠実さや正直さ、嘘をつかないこと、怨まないことは道徳になっているんだと思います。人に限らず、地面や空、月、太陽を見ている時も実際は自分の心を見ているだけで外部の現実を見ていないということでよろしいでしょうか。また、他心通や天眼通などに関しても、リアルタイムで相手の心や物質を知ることはできないのでしょうか。
2024年08月27日 (火) 23時04分 No.6175
現実 - test01ab違いのわからない物は同じ物という哲学者もいるようですね。
でも
SFで人間そっくりのロボットが出てきて、それは人間か、と言えば、
違うわけで。
戒律の説明で、人間を対象にした戒律では、
人間の定義が説明される事がありますが、
その時「人間とは」に続いて「人間である」と説明がある場合があります。
現代科学での論理学だとか数学のように、
世間での学問上での論理で、「これはこうである」
というものとは違った方法、仕組み、理論が
世界に存在してるのかもしれません。
実際は「人間とは人間である」が通用するのでしょう。
修行が進むと前世の記憶を思い出せるようになったりと、
神通力に関しては、現代のコンピュータや機械を扱う時に必要な法則や学問とは別の、
理論が働いてるように思えます。
その理論は、現代の世間一般の
教科書や学校では扱われてないので
僕は全く専門の知識などありません。
今回、僕が言えるのは、
仏教では、「人間とは人間である」という認識を可としているらしいという事です。
これはある種の現実を見れているという
事なんじゃないでしょうか?
2024年08月30日 (金) 19時58分 No.6179
回答ありがとうございます。追加質問 - viriyaご回答ありがとうございます。
人間とは、人間であるは面白いですね。
おっしゃる通り、まるっきり嘘の世界を誤認識しているとも言えないですよね。
私は学問や科学には疎いので言及すると大雑把になりますが、世俗の知識の世界は仮説の上に仮説を積み上げる世界だと理解しています。(間違ってたらすみません)「本能寺の変は本当にあったのか」「地球温暖化はしているのか」という素人の問いに対して、まともな学者なら蓋然性の高い主張を説明できると思いますが仮説である以上、真理とは言えないと思います。絶対こうだとは言えない世界です。地球が丸いかという問いや、民主主義や人権は正しいかという問いも結局は推測の世界になります。世俗諦とはこのように理解しています。
逆に、心や心所は瞑想実践で今どのような状態か事実にアクセスできます。これは気付いて事実を確認した世界なので否定できないです。例えば浄心所の慚愧や無量心所が心に現れた時、これが善い心なのは明白で気付きがある以上、これを悪い心であると理解することは不可能です。
このように自分の心のことは事実を明らかにできるが、外の世界は推測の世界では無いか?という質問でした。
なぜこのような質問をしたかというと慈悲の瞑想中、あれ?生命っているの?という感覚になったからです。元々はスマナサーラ長老や仏教の教えをもとに、人間の身体や心は変化する、他人に何か嫌な事をされたり言われても、自分が見聞きした時、あるいはやり返そうとした時は、すでにその他人はいなくなっている(確かこういうお話しだったと思います。厳密には違うかもしれません)という考えに少しずつ納得していったら、他の生命って居ても自分は他の生命を正確に認識できないんじゃ無いの?正確に認識できないのに、怨んだり憎んだりするのは正当性が無いんじゃ無いの?と思うようになりました。
もう一つ質問させて頂きますと、六師外道の懐疑主義者(現代の懐疑主義との関連はよくわからない)と上座部仏教の違いは、勝義諦を認めるか認めないかの違いという理解でよろしいでしょうか?世俗の世界では無限に懐疑することが可能だが、真理の世界では瞑想実践で勝義諦に気づくことができるので、懐疑主義は成り立たないのでは?という妄想が最近頭に浮かびました。2024年09月07日 (土) 21時54分 No.6181
主観的な事実 - ポンタこんにちは。
かなり厄介かつ大切なご質問ですね。
今、私はこの掲示板にコメントしてます。それは第三者から「身体の行為」として認識できます。
質問に「道徳」とあったので、その辺の事情かな?って。
さて、私がどんな意図をもってこの掲示板にコメントしてるか?は第三者に判定不能でしょう。
自身の意図(身口意の意)を知るのは他ならぬ自分自身以外いないと思います。
さて、厄介な質問に思えたのは、「ある事柄を知るのは自身以外いない」となると、ある経験が絶対化されてしまうということです。
瞑想で神を観たのなら、そしてそれに確信したならは、その人にとって「神は絶対に実在する」となるでしょう。
「無我を経験した」なら、そしてそれに確信したなら「無我は絶対的な真理」となるでしょう。
「無我ではない」を経験したなら、そしてそれに確信したなら「無我ではないが真理」となるでしょう。
経験と確信に他人が介在する余地はありません。
経験はいい意味で捉えれば、それは「真理についての絶対的な確信」に繋がるでしょう。
動画での質問は、「経験したのだが疑いがある」ということだと思います。
「教義と実践(経験)と確信」という巨大なテーマなので、私にはこれ以上語れませんが、極めて大切なテーマだとは個人的には思います。
ご質問の答えにはなってませんが、一応ご参考までに。。
2024年09月07日 (土) 21時54分 No.6183
こんにちは
>人間が認識できるのは今ここの瞬間だけ、今の心の状態だけということで間違いはないか?
>人に限らず、地面や空、月、太陽を見ている時も実際は自分の心を見ているだけで外部の現実を見ていないということでよろしいでしょうか。
恐らくですが「今ここの瞬間だけ、今の心の状態」、「自分の心をみているだけ」は、正しいと思うのですが、もう少し補足をすると、
「(自分の)心が作り出したイメージを見ているだけ」
という方がしっくりくるのではないかと思います。
つまり、よく言われるように、ありのままの現象を観ないで「主観的に見ている」ということです。
例えば、自宅で目を閉じてヴィパッサナー瞑想をしている時に「ヴォーン、ガタン・ガタン」と音がした瞬間に、実際に見たわけでもないのに中型トラックの映像(イメージ)が心(例えば、まぶたの裏)に思い浮かんだり、家族の声が聞こえてくると、その家族が話している様子(イメージ)が勝手に表出してくると思います。
つまり、
実際には、ただの音の振動(音波)でしかない物理現象(色)を感知しているに過ぎないのに、そこに様々な感情や物語が貼りついたイメージ=名(例えば映像など)として認識しています。
このような観点で以下の参考資料を読まれると理解が深まるように思います。
参考資料1)では、このイメージを「サンカーラ(思考)」と表現し、参考資料2)では、心象(心的現象)と表現しています。
神通力との関連やメカニズムは解りませんが、恐らく、他心通などでは(対象者の)心の想(サンニャ)=イメージ(心象)=サンカーラ(現象)=記憶など、要するにカルマを読み取っているのではないかと推察します。
参考になれば幸いです。
生きとし生けるものが幸せでありますように。
1)スリランカの少女が父に語るブッダの教え 「無我」を語る幼稚園児の説法
https://j-theravada.com/dhamma/oriori/sachi_samidu_01/
2)スリランカの少女が父に語るブッダの教え すべては心象として捉えるべき
https://j-theravada.com/dhamma/oriori/sachi_samidu_01-2/
2024年09月07日 (土) 21時54分 No.6184
他の認識 - test01abこれまで経典に接して来た限りでは、
他を認識することは可能としていると思います。
実践されてる現場を見たことはないですが、
ある戒律では、比丘が疑わしい行為をした場合、
信頼できるウバイに判断を任せて罪のレベルが
どれに当てはまるかを決めるという物があります。
比丘としての生命を左右するほどの罪とされる場合もあるので、
これほどまで致命的な判断を
他人に任せるというのは、やはり
「他」を認識できているとしているから
だと思います。2024年09月11日 (水) 06時16分 No.6191
自灯明 - 青い蓮華>人間が認識できるのは今ここの瞬間だけ、ということで間違いはないか?
「人間の認識」というふうに一般化してしまいますと迷いますので、「自分の認識」に置き換えます。
質問:自分は、今ここの瞬間を、正しく認識していますか?
答え:おそらく「いいえ」です。私というバイアスをかけて見聞きしているからです。
根本法門経を微笑んで読み終えることができるようになりましたら、この問題は卒業です。2024年09月11日 (水) 06時16分 No.6194
多数の回答感謝 - viriyaポンタ様、イエモン様、test01ab様、青い蓮華様回答ありがとうございます。
ポンタ様。確信については、他人が確認するのは非常に難しいでしょうね。心所への理解や、心が物質に働きかける法則を知っている人はある程度相手の心を予想できるでしょうし、神通力を持つ僧侶ならば相手が悟っているかどうかわかるでしょうね。
イエモン様。そのスリランカの女の子の説法は前にも読みましたが、今回改めて読むと納得感があります。青い蓮華様の紹介してくださった根本法門経をmixiで読んでから読み直すとなんとなくわかりやすかったですが、まだまだ完全の理解という感じではないです。また、行(サンカーラ)が思考であるというのは、不覚でした。(僕は行のことなら意思のことが頭に浮かび、思考は尋伺だけと誤解していました。ほとんどの心所は確か行でしたね)
test01ab様。他の認識はできても不完全ではないかという事です。例えば、あいつは悪人である、ということすら非常に難しいと思います。(目の前の人の発する表情や声を感覚で受け止めて、一時的に悪い事をしているくらいは言えると思います)ただ、客観的な事実を共有することはある程度できると思うのは同意です。学問や裁判や犯罪捜査を否定しているわけではありません。
青い蓮華様。ぴったしの経文を紹介してくださりありがとうございます。最初読んだ時、繰り返しが多く、ちんぷんかんぷんでしたが、mixiのまとめを見てなんとなく理解できたように思います。
凡夫(目の前の人間に固定的な人格を見出したり、自分の心に浮かんだ概念を疑うことができない人?怒りや怨みは自己責任だと気付けない人?)
有学(気づきを保てば、心に現れるのは心象や概念だと知っているが、煩悩が現れると一時的に気づきが弱まる人?)
阿羅漢+正自覚者(そもそも概念がない?感覚はある。)
こういう理解でよろしいでしょうか?2024年09月18日 (水) 21時53分 No.6207
悪人と善人 - test01ab悪人か善人かであれば、
経典の中に
「世の中には悪人が多く善人が少ない」
という意味の文があるので、
(善人の多い地域など偏りはあるかもしれませんが)
海外旅行などして他の国などを見て、
それまでに見た人間の半数以上は悪人だと考えていいと思います。
例えば僕が見た中では、
ある東南アジアの駅前の屋台で
若い男の店員が、片目の潰れた野良犬を狙って、笑顔を浮かべながら氷片を
力一杯投げつけているのを見たことが
あります。犬は困った様に逃げていたと思います。
多分、この男は悪人です。
2024年09月20日 (金) 11時31分 No.6216
リアルタイムが不可な例 - test01abどこに書いてあったか忘れましたが、
「相手が戒を守ってるかどうかは、長く一緒に生活しないと分からない」
と書いてあるのを見たことがあるので、
時間をかけないと判断できないものもあるんだと思います。
この例だと、リアルタイムの認識(判断?)はできないのでしょう。2024年09月20日 (金) 11時31分 No.6218
阿羅漢の認識 - 青い蓮華>ぴったしの経文を・・・読んだ
実際にお読みになったんですね。すばらしい!
その調子で頑張ってくださいね。
>最初読んだ時、繰り返しが多く、ちんぷんかんぷんでした
お釈迦さまのお話は、微に入り細を穿って、ぶっちゃけクドイですよね。笑
親切心の表れなので、許してあげてください。WWW
お話が長いことで、こんがらがってしまう等々の弊害が出やすくなりますので、
例えばこのように紙と鉛筆で整理してみます。
●凡夫の認識 ●阿羅漢の認識
①・・・ ①・・・
②・・・ ②・・・
③・・・ ③・・・
④・・・ ④・・・
⑤・・・ ⑤・・・
対比することで、違いが明らかになります。
自分は何をすべきかが見えてきましたらしめたものです。
実践します。
これらが智慧の一連ですね。
>この質問者様は、世界に自分しかいないと感じたと言われています。
内容をよく存じませんが、自分しかいないと感じたのが本当だとしたら、
まだまだです。
観察する私がいない。観察される対象もない。
これが無我の境地。阿羅漢の認識ですね。
>慈悲の瞑想中、あれ?生命っているの?という感覚になったからです
優れた感性をお持ちのようにうかがえます。もう一歩です。
>こういう理解でよろしいでしょうか?
仏教界一番の難しいお経ですので、歳月を掛けて味わってみてください。
2024年09月20日 (金) 11時31分 No.6223
冷房の件が効きました。 - viriyatest01ab様。お釈迦さまも概念を使って説法されますよね。「悪人」「愚か者」とか。
吉祥経の一節は大好きです。
東南アジアの件、どこにでもギョッとするような行為をする人はいますよね。
青い蓮華様。根本法門経をもう一度読んだのですが、wikipediaやスリランカの少女の解説の補助輪を使って読んだ前回と違い、そもそも文章の意味が難しかったです(笑)
読んだ瞬間に理解できるまで頑張るしかないです。
イエモン様の意見を元に、瞑想中に鼓膜に触れる音、身体に触れる冷気という感覚から「冷房」、「冷房と身体までの距離」、「冷房の映像イメージ」という概念や心象が生まれることに気付きました。眼耳鼻舌身が受け取った「色」から意が「概念」を作り出したということですよね。本当に受け取ったのは「身体に触れる地火風」、「耳に触れる音」だけ。
「生命」も概念でこの調子だといないということになります。
皆様ありがとうございました。2024年09月22日 (日) 08時31分 No.6231
随喜 - ポンタviriya様、こんにちは。
生命もいない,とすると、随喜(他の成功や善行を自分のことのように喜ぶ)はどう解釈されますか?
それは正しい認識ではない。「一見すると他の成功というのは、あくまで自分の主観の世界であり、実際は他にとっての失敗であり悩みかもしれない。従って随喜は場合によって不適切である」ってなりませんか?
ちょっと疑問がわきました。2024年09月24日 (火) 13時33分 No.6235
世俗のム「ムダ」と、聖の「ムダ」 - ポンタこんにちは。
長老の法話『世俗の「ムダ」と、聖の「ムダ」』を紹介したいと思います。
先の随喜に関する疑問は、「精神的立場の「ムダ」第一ステップ」からの疑問です。
3つの立場を混同すると議論自体が滅茶苦茶になりかねないと思い、紹介させて頂きました。
慈悲の瞑想も、基本的には「精神的立場の第一ステップ」だと思います。
以上、ご参考までに。2024年09月24日 (火) 13時33分 No.6236
ムディター - ポンタ随喜の説明で「他の成功や善行を自分のことのように喜ぶ」と書きましたが、その意味だと「随喜+ムディター」が正確でしたね。
〜生きとし生けるものが幸せでありますように〜2024年09月24日 (火) 13時33分 No.6237
概念であろうとなかろうと - viriya自分の感じていることが仏教的に合っているかわからないので、自分の知識の範囲内で答えると、「生命」は概念だが慈悲の瞑想や、随喜のように概念を用いて心身を清めて幸福を感じることができるということだと思います。
感覚器官で地火風を認識する→概念を用いて受け取った情報を当てはめる→慈悲心やムディターで思考する→楽の感覚を味わう
という流れだと思います。概念だから悪いというわけではないです。
ただ、優れた行為をしている人間の身体の動きや声、表情を見て感覚だけで圧倒されることはあると思います。この場合、概念が働いているかは僕の能力では分かりません。
随喜、にしても間違うことはないと思います。善をなしている他の「生命」は概念でも、善の「感情」、善によって生じる「物質の動き」があるということではないでしょうか?それを自分が感覚器官で受け取ることで、概念のあるなしに関わらずに、随喜できるのではないでしょうか?
もし相手が不幸な場合、随喜が無効な可能性もあるかもしれません。
以前、スマナサーラ長老と佐藤哲朗さんが動画でお話しされていました。(zoom形式の動画)。そこで死者に慈悲の瞑想をしないのは死んだことで「生命」という概念が成立しなくなったとおっしゃっていたような気がします。(うろ覚えなので間違っているかもしれません)
西澤卓美さんのサイトが参考になります。
https://ameblo.jp/2430soken/entry-12027987646.html
私の意見は間違っている可能性もあるので、その際は指摘してください。
2024年09月26日 (木) 18時23分 No.6242
ありがとうございます - ポンタご返信ありがとうございます。
スマナサーラ長老と佐藤さんの対談では、概念ではなく「生命の実在」が問われていたように記憶してます。
今目の前にいない、つまり生死が判明しない場合において、頭の中で故人をイメージして(生きてると思って、つまり概念で)慈悲を送っても無駄、って長老の話だったような。
慈悲はあくまで、実在する生命に対して送らないとダメという長老の解説だったと記憶してます。
そもそも論として、慈悲の瞑想で生命について疑問を持たれたようなので、意見を述べさせて頂きました。
中々興味深い議論になりましたね。
〜生きとし生けるものが幸せでありますように〜2024年09月28日 (土) 23時51分 No.6245
随喜 - ポンタ私見ですが、概念であろうとなかろうと、それが「不貪不瞋不知」にもとづくなら問題ないと思います。
スマナサーラ長老が「それが真のカルナーであるなら、そこに智慧がある」と説法された記憶があります。
真のカルナーであるなら、私が先に疑問視した誤認も起きないと思います。
誤認なら智慧ではないからです。
随喜にしても同様なことが言えるんじゃないかと個人的には思います。
〜生きとし生けるものが幸せでありますように〜2024年09月28日 (土) 23時51分 No.6246
誤字でした - ポンタ最初の投稿で「不貪不瞋不知」と書きましたが「不貪不瞋不痴」の間違えです。2024年09月28日 (土) 23時51分 No.6247
心 - ポンタ論点が複数ありますが、「心」というキーワードに絞ってはいかがでしょうか?
西澤卓美さんのブログ紹介ありがとうございます。
生命がいない、とするから問題が起こります。
西澤さんの話に拠れば正しくは「勝義諦によれば生命は存在しない」です。存在するのは名色で、生命は世俗諦の話です。
慈悲の瞑想で「全ての名色が幸せでありますように」と念じても、意味不明な呪文を唱えてるようになります。
だったら「両親が幸せでありますように」と念じたほうが実感を伴った慈悲の気持になるでしょう。
片方は勝義諦、もう片方は世俗諦を対象にしてますが、問題はあくまで「心」です。勝義諦ならいいってことではない。
死随念も「心」が問題になります。サマタ瞑想も「心」が貪瞋痴で染まるなら、瞑想になってない。
怒りが湧いた時「見たものはただの色だ、それに怒るのはおかしい」「言いたかったものは空気の振動だ。それに怒るのは馬鹿げている」というやり方も結局はそれによって、心の怒りが鎮まる、ということだと思います。「心」が不善から離れました。
それが「人が成功するのは目に色が写っただけだけの話だ」とか「助けを求める声を空気の振動にすぎない」と捉えるなら、ただのニヒリズムで「心」が善になることはないでしょう。寧ろ悪だと思います。
ムディターや随喜も「心」が大切になるでしょう。
人の心を直接知りたければ、他心通で他の心の波動を感じる必要があるようです。それは可能のようです。
死体や故人(死人)に慈悲の瞑想しても、それは、ただの物質だから慈悲になりません。物質に「心の働き」はありませんから。
生命=心という働きを持った物質、とするなら、その「心」に絞って考えれば、この議論の見通しがよくなると思いました。
〜生きとし生けるものが幸せでありますように〜2024年09月28日 (土) 23時51分 No.6248
律蔵 - test01ab僕は論蔵をほとんど読んでないので勝義諦だとかはよくわかりませんが、
不殺生戒での、殺す対象に「殺意を持つor持たない」だとか
殺す対象を「生物だと思っているor思ってないor疑ってる」の違いで
罪の度合いが変わってくるのは、このテーマに何か関係してるのかも
知れないと思いました。2024年10月02日 (水) 15時33分 No.6251
考えをまとめました - viriya>> スマナサーラ長老と佐藤さんの対談では、概念ではなく「生命の実在」が問われていたように記憶してます。
教えてくださりありがとうございます。
>> 慈悲はあくまで、実在する生命に対して送らないとダメという長老の解説だったと記憶してます。
これはわかるんですが、客観的な外部の世界にいる生命を生命であると認識する時、概念や心象、思考の流れが起きて、「◯◯は生命である」となるのではないでしょうか。「生命」はただの名称で、五感から得た情報を心が認識する流れで生じるのではないかと。
>> そもそも論として、慈悲の瞑想で生命について疑問を持たれたようなので、意見を述べさせて頂きました。
慈悲の瞑想の効果に疑問を持ったわけではなく、自分の生命を認識する心の流れを観察すると、自分は外部世界をありのままに認識する能力はないのではないかと思い至ったのです。神通力について聞いたのは、超能力なら物質の時空的制約を破れるのではないかという妄想です笑
>> 私見ですが、概念であろうとなかろうと、それが「不貪不瞋不痴」にもとづくなら問題ないと思います。
同意します。
ポンタ様の意見に反対はありません。僕の言い方がおかしかったかもしれないです。要は、自分は物質の速度による制限、心の働きによる制限で主観的な妄想の世界に住んでいるのではないかということです笑。妄想で世界を認識している人間に他者に害意を持ったり攻撃する権利はなく、それは自分以外の全ての衆生に当てはまるのではないかということです。自分の認識の中に現れた「生命」を基にその「生命」が存在するとは言い難いのではないかと。
話をこんがらがせてしまい、すみません。
https://komyojikyozo.web.fc2.com/snsgv/sn05/sn05c10.files/sheet001.htm
最後にこのお経が参考になると思います。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%9F%E3%83%AA%E3%83%B3%E3%83%80%E7%8E%8B%E3%81%AE%E5%95%8F%E3%81%84
外典扱いと知らず、探すのに苦労しました。
ミリンダ王の問いの名前と存在のところに注目してください。
昔は総体も車ではないと言われて?と思っていました。
生きとし生けるものが幸せでありますように2024年10月02日 (水) 15時33分 No.6252
色々考えてみた - viriya先ほど回向をしていたのですが、やはり目を閉じて念じるという行為をすると、生命は概念(イメージや名称といった方がいいかも)ではないかと思うようになりました。
神々、先祖、祖父母、両親などなど。僕が想起した通りに彼らは存在していないでしょう。
普段は目を開いているから誤解するだけで、目の前の人物を「母」、「兄弟」と認識する時も「概念」なしにはあり得ないと思います。(概念というより名称といった方がいいかも)そしてその想起を現実と勘違いするべきじゃないんだと思います。
概念はコミュニケーションツールだと思います。僕が想起したと通りに「先祖」が存在しなくても、近くで回向を聞いていた餓鬼道の生命は「ああ、先祖とはわたしのことだ」と理解して随喜するのではないでしょうか。
最初の僕の意見が間違いの可能性も出てきました。僕の認識する形では、生命は存在しない、といった方が的確かも。いない、というべきではないかもしれないですね。
仏法僧に過ちを懺悔します。
気付きを与えてくださったポンタ様、ありがとうございます。2024年10月02日 (水) 15時33分 No.6253
一旦 - test01ab僕が語るべき範囲の限界に近づいた気がするので、
一旦この議論から離脱しようと思います。
みなさんありがとうございました。2024年10月02日 (水) 15時33分 No.6254
生命 - ポンタこんにちは。
話がスッキリしてきましたね。
主観的な概念上での「生命」が、その「概念通り」に実在するかは不明だが、勝義諦で言うところの名色は存在する。名色なら時空関係(21世紀に生きる人間という制限)を超えて生命を定義出来ると理解してます。仮に地球外生命体が存在しても、それは我々が通常認識してる生命体であるかは不明。しかし必ずそれは名色であるはずである。餓鬼道の生命体についてもそうかと。名色でないなら生命でない。
スマナサーラ長老の故人に慈悲を実践しても慈悲にならないとは、「その人の概念上では存在してる「ある御方」が実在しない場合は慈悲にならない」ということで、「概念上では存在してるはずの「ある御方」が元に実在するなら慈悲が成立する」みたいに理解してます。
「生きとし生けるものが幸せでありますように」なら、概念上の存在と実在が常にイコールになるので(餓鬼道にも通用する)問題ない(この問題ない、ってとこがブッダの智慧の世界の凄さじゃないか?って思いました)と理解してます。
〜生きとし生けるものが幸せでありますように〜2024年10月03日 (木) 12時11分 No.6256
正業 - ポンタ不殺生戒ではないのですが、八正道の正業の「殺生から離れることの定義」をウィセッタ長老から教えて頂いたことがあります。
ちなみに以下です。
1.対象が生きている。
2.生きものであることを知っている。
3.殺意。
4.殺す又は殺させる。
5.結果としての死。
ここで、1と2が今回のテーマに関わるように思いました。
〜生きとし生けるものが幸せでありますように〜2024年10月03日 (木) 12時11分 No.6257
こんにちは
未だ議論が白熱していたのですね!
実は、9月8日の協会講演会『ブッダが教える「自己中のススメ」自と他の区別を超えること』で、viriyaさんの疑問に対する回答を(ほぼリアルタイムで)長老が、詳細に解説して頂いていましたが、視聴されましたでしょうか↓↓
https://www.youtube.com/watch?v=8PjIZ716PCE
ここまで議論が進んだ後に、viriyaさんの追加質問に立ち返ってみると、非常に鋭い問いだと思いました↓
>世俗の世界では無限に懐疑することが可能だが、真理の世界では瞑想実践で勝義諦に気づくことができるので、懐疑主義は成り立たないのでは?
この問いをベースに、これまでの議論から「世俗の世界」と「真理の世界」に分けてみると、
①世俗の世界(世俗諦)=俗世間
知識・概念、感情などによって心が作り出したイメージ(思考・妄想)の世界(主観的世界)
Viriyaさんのいうように「仮説の上に仮説を積み上げる世界」で、ゴールが無いのが俗世間だと思います(心象・イメージ、妄想)。
②真理の世界(勝義諦)=出世間
知識・概念、感情などを排したありのままの現象=無常・苦・無我=名色の生滅変化(事実・現実・実証)。
100%の現実・事実を観察しているためゴール(終わり)がある。
では、①→②へ、どのように修行したらよいのか?
最近、気づいたのですが、「戒・定・慧」に七清浄と十六観智+七覚枝の一部を組み合わせると、下のようになります。
この中で修行者にとって、重要なステージ(俗世間と出世間の境界)が「心清浄」のステージだと思われます。
スマナサーラ長老が随所で
「まずは、思考・妄想をストップすることに挑戦してください!」
と仰っているのは、本格的な出世間の修行の入り口に立ってください!
という狙いが込められていると推察します。
■戒
1)戒清浄
五戒や十善を守り、(荒い)心の波を鎮めるステージ
■定
2)心清浄
心(貪瞋痴)を完全に鎮め、観察能力(集中力)を高めるステージ
心清浄の条件:
「サマーディ(禅定)」か、「思考・妄想をストップ」のどちらかの習得が必要。このステージで念覚枝が現われると思われます。
※これ以降が勝義諦=出世間の智慧の世界→本格的修行の段階↓↓
■慧
3)見清浄
・名色分離智
※このステージで択法覚枝が現われると思われます。
4)度疑清浄
・縁摂受智(因縁関係の理解)
5)道非道智見清浄
・思椎智(無常・苦・無我の理解)
・生滅智(生成消滅のより深く明晰な理解)
6)行道智見清浄
・壊滅智(他、7つの智慧)
7)智見清浄
・道智
・果智
以上、詳細は『ブッダの実践心理学 第8巻』を参照してください。
では、今後の修行の参考になれば幸いです。お互いに精進しましょう。
生きとし生けるものが幸せでありますように。
2024年10月04日 (金) 14時51分 No.6260
一に自己観察、ニに自己観察、三に自己観察。 - 青い蓮華>自分は外部世界をありのままに認識する能力はないのではないかと思い至ったのです。
viriyaさんに、能力が有るのか無いのかというと、有るんですね。
過小評価はいけません!妄想です。笑
ここだけの話。本当は、お釈迦さまと寸分たがわず、見えている、聞こえています。2024年10月04日 (金) 14時51分 No.6261
議論 - viriyatest01ab様。僕も戒律と勝義諦の関係についてよくわかりません。五戒については、悪いことしたら即座に苦受として結果を受ける、集中力がぶっ壊れると理解しています。カルマについてはよくわかりませんが、人生の中であまりにも理不尽なことを思い浮かべると、まぁあれはカルマかな、と思っています。
ポンタ様。話がまとまってよかったです。言葉は丁寧に使わないと色々とごっちゃになりますからね。
イエモン様。スマナサーラ長老の法話は知っていたのですが、まさかyoutubeで配信しているとは思っていませんでした。教えてくださりありがとうございます。
https://saltyhakata.livedoor.blog/archives/10262502.html
ソルティはかたさんのブログでだいたいの内容を知っていたのですが、長老の法話の部分を視聴後、自分の感じていることがそれほど的外れではないような気がしました。
あと蜜丸経の本を買いました。チャンディマ長老の解説本です。
接触→感受→知覚→思考→妄想 と言う流れのようです。
知覚の段階(多分五蘊の想に相当)ですでに主観の領域に入るらしいです。ただ皆さんもご存知の通り、正思惟もありますので善の主観もあると言うことかもしれません。それこそ慈悲の瞑想のように。社会的に問題にならない、非難されない主観といったところでしょうか。妄想は渇愛、慢、見によって起きるそうでいいところは一つもありません。
気付くことが解決方法。しかし、自分は未だ知覚を止めれたことがないです。少なくとも止められた記憶はない。「知覚は知覚である」と気付くくらいですかね。
>>②真理の世界(勝義諦)=出世間
概念も感情を気付きを入れて、心の機能、流れとして見るならば勝義諦の世界でしょうね。
>> スマナサーラ長老が随所で
「まずは、思考・妄想をストップすることに挑戦してください!」
と仰っているのは、本格的な出世間の修行の入り口に立ってください!
という狙いが込められていると推察します。
妄想は止められても思考はかなり難しいですね。チャンディマ長老によると結果は原因がないと起きないとの事なので、知覚の段階で強い気付きを起こせば、思考は止まることになるようです。でも瞑想中はダンマに関する思考も起きちゃいますし、ラベリングも一種の思考と聞いたことがあるので難しいところです。
https://note.com/annata/n/na85eb6c0ca1c
https://note.com/annata/n/nd9820b78a80d
ルアンポー・プラモート師の法話は参考になるかもしれません。
貝多羅葉さんのnoteは良い意味で衝撃的な記事が多いのでおすすめです。
青い蓮華様。うーん。あるがままの認識はよくわからないです。どうしても知覚に進んでしまうんですね。知覚は主観であり、現実ではないとはわかるんですけど。
生きとし生けるものが幸せでありますように
2024年10月06日 (日) 14時02分 No.6262
こんにちは
いろいろと情報提供ありがとうございました。
最近、noteは見ていなかったので、これを機に再開したいと思います!
>正思惟もありますので善の主観もあると言うことかもしれません。
私のイメージでは、
慈悲の瞑想は、貪瞋痴を慈悲喜捨へ「上書き保存」、
ヴィパッサナー瞑想は、貪瞋痴の「アンインストール」という印象を持っています。
>それこそ慈悲の瞑想のように。社会的に問題にならない、非難されない主観といったところでしょうか。
長老が「自己中のススメ」で仰っていたように、各々の生命の心はスライム(水様性の外界を写す粘土)のように主観的世界を構築しているため、誰一人として完全に分かりあえることはできない(汗)
そのため、各々の生命が上手く共生していくためには、慈悲や道徳(五戒など)が必要になってくるのだと思います。
>妄想は渇愛、慢、見によって起きるそうでいいところは一つもありません。
この辺りは、長老が解説している「根本法門経」を視聴した方が良いかもしれません↓↓
https://www.youtube.com/watch?v=Byj2Ft3KlIg
>自分は未だ知覚を止めれたことがないです。
それは無理だと思いますよ!
知覚を止めたらヴィパッサナーもできませんから。
止めるのではなく、誤知・誤認→正知・正見に変化させるのが仏道(八正道)ではないでしょうか?
ただし、お釈迦様の時代では、
サマーディ(禅定)が得意で、非想非非想処定まで習得した一部の阿羅漢だけは、名色を止めて外界と没交渉となる滅尽定(想受滅)ができたそうです。
テーラワーダでは、「感覚がある命」を生命体と定義していますが、これは、名色が常に生滅変化(ナーマとルーパが接触=相互依存)している状態だと考えられます。
見方を変えると、無始なる過去からこの感覚(知覚=苦・楽・不苦不楽)の殻の中(現象世界=有意方)しか知らないのが生命体で、感覚(知覚)の奴隷になっている状況が「一切行苦」ではないかと推察します。
涅槃がその殻を破った(無意方),、、と妄想すると,、、確かに言語化もイメージもできそうにないですね(汗)
長老が言う「思考・妄想のストップ」というのは、感受(ヴェーダナー)の部分の観察を邪魔しない(いわゆる雑念が出てこない)程度に思考・妄想を止めてください!
という意味だと思います。実際、『ブッダの実践心理学 第8巻』にもそのように書いています。
同書には、悟りも一つ一つの因縁関係の積み重ねが必要で、いきなり一瞥体験をして解脱する!みたいなことは起きないようです。
まずは、名色分離智
次に縁摂受智
というように、一つ一つ智慧の階段を昇りながら、ありのままの現象(名色の生滅変化)を明らかにしていく他ないのだと思われます(悟りに王道なし!)。
では、お互いに知識オタクにならないように気を付けながら、
実践面で精進しましょう(笑)
生きとし生けるものが幸せでありますように。
2024年10月09日 (水) 00時49分 No.6265
もう視聴されたかもしれませんが、参考になりそうな動画です↓↓
>ラベリングも一種の思考と聞いたことがあるので難しいところです。
■こころの洗濯
https://www.youtube.com/watch?v=avORR2duKB0
■実況中継はなにもしないこと? 他
https://www.youtube.com/watch?v=GWdBF2ANuQE&t=732s
参考になれば幸いです。2024年10月09日 (水) 00時49分 No.6267
チァンディマ長老の解説本 - ポンタこんにちは。
チァンディマ長老の解説本が参考になってるようなので、一部抜粋したいと思います。
「自分が感受したものに縁って、自分に知覚が生じます。(yaṃ vedeti taṃ sañjānāti) 触れると、主観的に感覚を感じます。その感じたものについて、さらに主観的に知覚が生じます。 ここで、「自分」や「私」という主観が生まれるのです。」
「妄想が流れるプロセスをまとめましょう。カッチャーナ長老は、このように説かれます。 眼と色と眼識があることに縁って、接触が現れます。 接触が現れることに縁って、自分に感受が現れます。 自分が感受したものに縁って、自分に知覚が現れます。 自分が知覚したものに縁って、自分に思考が現れます。 自分が思考したものに縁って、自分に妄想が現れます。 他の「耳」「鼻」「舌」「身」「意」についても、同じように展開されます。 このようなプロセスで、主観が現れ、妄想が活動するのです。」
「では、この妄想のプロセスにたいして、私たちはどのように対処できるでしょうか? ブッダは、その解決法も教えてくれています。 眼と色と眼識がなければ、接触は現れません。 接触が現れなければ、感受は現れません。 感受が現れなければ、知覚は現れません。 知覚が現れなければ、思考は現れません。 思考が現れなければ、妄想は現れません。 ここでブッダは何を説いているのでしょうか? 「Aがなければ、Bがない」ということ――つまり、「原因がなければ、結果がない」ということです。 眼と色と眼識がなければ、接触は生じません。 接触がなければ、感受は生じません。 感受がなければ、知覚も、思考も、妄想も生じません。 妄想しなければ、怒りや憎しみ、嫉妬など悩み苦しみは生じないのです。 そこで、私たちがすべきことは、眼で色を見るとき、耳で音を聞くとき、鼻で匂いを嗅ぐとき、舌で味を味わうとき、身体で何かに触れるとき、意で何かを考えたり感じたりするとき、よく注意して、それらに気づくことです。 苦しみをもたらす原因を作らないよう、気をつけるのです。原因がなければ、結果は現れないのですから。」
「方法――まず妄想に気づき、その原因を観察し、妄想のプロセスを理解すること――によって、私たちは妄想のループを絶ち切ったり、弱めたり、よい方向へ転換したりすることができます。 このように、ブッダは妄想から解放される方法も教えてくれているのです。」
〜生きとし生けるものが幸せでありますように〜2024年10月11日 (金) 15時37分 No.6269
ポンタさん、ご指摘(引用)ありがとうございます。
実は、無意識に、【感受=知覚】
という概念が(私の)心にイメージとして印象づけられていたようです。
これは、viriyaさんが、
>接触→感受→知覚→思考→妄想
という引用までしてもらっているのに、気づいて、確認・修正することができていませんでした。
皆様を混乱させてしまい申し訳ありませんでした。仏法僧に懴悔します。
今回の反省点としては、
地球の断面図のイメージ図を見て、地球の構造をすべて解ったつもりでいるようなものだと痛感しています(汗)
やはり、知識・概念は、ただのイメージに過ぎず、曖昧で大雑把なもの(煩悩)でしかないことを再認識しました。
「接触→感受→知覚」
この部分は、ヴィパッサナーで100%の事実(現象)の観察が必須ですね。
肝心の「感受」と「知覚」の違いに関しては、私の観察能力では(まだ)分かりません。
ただ、こちらの書籍には、実践面における「感受」に関する観察の内容がけっこう詳しく書かれていました。よかったら一読してみてください↓↓
地橋秀雄(著)『ブッダの瞑想法 ヴィパッサナー瞑想の理論と技術』
今回のviriyaさんのスレッドでは、多くの発見があり、とても有意義でした。
皆様に感謝致します。
生きとし生けるものが幸せでありますように。
2024年10月12日 (土) 15時15分 No.6271
自分の投稿にも間違いがあるかも知れません - viriyaイエモン様、ポンタ様。投稿ありがとうございます。
前の投稿で知覚の段階で強い気付きを起こせば、思考にはいかないそうだと書きましたが、実際は間違っているかも知れません。これは自分の経験でおそらくそうであろうと書いたので。本当は感受の段階で止めなきゃまずいかも知れない。僕の書き込みが混乱の元になったかも知れずすみませんでした。ポンタ様の引用を読んでみるとそう思います。仏法僧と投稿を目にした方々に懺悔します。
ラベリングについて、良い動画と本の引用の紹介ありがとうございます。感受の観察が邪魔されない程度に思考を止めれば良いのですね。瞑想が成功するまで思考というよりかは確認というような心の働きがあるのですね。これは経験上でも、十六観智の説明に照らし合わせても理解できます。ブッダの実践心理学はサブタイトルを見た時に4巻から難易度が跳ね上がってそうに思えていたので、まだ読んでいなかったです。これを機に読もうと思います。
根本法門経のスマナサーラ長老の解説は時間のある時に見ます。
それではみなさまありがとうございました。
生きとし生けるものが幸せでありますように。2024年10月16日 (水) 03時05分 No.6272
追記 - viriyaもう一度蜜丸経の解説を読んだら、難しいこともありこの投稿以上言及しない方がいいかも知れないと思いました。
知覚の段階で主観に入るから正思惟も主観かも知れないと書きましたが、これも事実に反するかも知れないです。正思惟は主観ではないかも。すみません。仏法僧に懺悔します。
清らかな知覚と思考自体はあると、チャンディマ長老の本から読みとれます。また、僕の読解能力によるとどうやら客観的な知覚についても書かれています。
グナラタナ長老のエイト・マインドフルネスp76によると、「事実に基づくよい認識」もあると書いてあります。引用します。
——他方、「事実に基づくよい認識」もあります。この認識は、対象に執着することがありませんし、対象を押しのけることもしません。「無常」をあるがままに認識し、「苦」をあるがままに認識し、「無我」をあるがままに認識するのです。
——このように、よい方法で世の中を認識すると、善い思考が育ちます。事実を理解することには、強い効果があるのです。人やものごとを見るとき、これは「無常であり、苦であり、無我である」とあるがままに見るなら、もう苦しみは生まれません。
差別主義者の想起と差別しない人の想起は違うと思います。差別しない人は、被差別者を見ても色付けの想起をしないので差別をしないんじゃないかなと思いました。
皆様とお話しして、自分の知識量が大幅に足りないと感じたので、仏教本の再読もしたいと思います。
蜜丸経は自分が経験したレベルでは語れないお経なのでこれまでにしときます。これ以上下手に言及すると三宝に対する侮辱になりそうなので。
生きとし生けるものが幸せでありますように2024年10月24日 (木) 13時29分 No.6274
慈悲の瞑想について - viriya下手に言及しないほうがいいと言いましたが、色々と感じることが変わったので書いておきます。
最初に、チャンディマ長老の解説を間違った形で引用し、解釈したことを懺悔します。
>>感覚器官で地火風を認識する→概念を用いて受け取った情報を当てはめる→慈悲心やムディターで思考する→楽の感覚を味わう
と書きましたが間違っているんじゃないかと思うようになりました。今の自分の感覚で見ると
感覚で受け取る→概念を用いて当てはめるのではなく、概念の風呂敷を大きく広げていく→善の思考→心の力で身体にオキシトシンが生まれる(多分)→楽受
瞑想していると身体の感覚の次に心的イメージがパッと生まれることがあるのですが、これが受なのか想なのか分かりづらい。自分の力ではよくわからないです。
概念は感覚を瞬時に自分の知識や経験に当てはめることで生じると思います。受け取った物質を主観的な枠組みに押し込めると、不善心の袋小路に心が迷い込んでしまう。
>>「生きとし生けるものが幸せでありますように」なら、概念上の存在と実在が常にイコールになるので(餓鬼道にも通用する)問題ない(この問題ない、ってとこがブッダの智慧の世界の凄さじゃないか?って思いました)と理解してます。
ポンタ様の投稿を見て最初はよくわからなかったのですが、今になってなるほどと思いました。知覚が対象を自分勝手に当てはめて、主観的な判断に巻き込まれることを抑える働きが慈悲の瞑想にはありそうですね。相手を勝手に決めつけないで放って置くような感じでしょうか。生きとし生けるものと言葉を念じるとよほどおかしな人でない限り不善心を起こせないと思います。
2024年10月24日 (木) 13時29分 No.6277