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仏教は「社会化」をどう捉えるのか - とっと社会化とは辞書によると、
①人間の相互作用、相互影響によって集団や社会が形成される過程。
②人間が他者との関係の中で既成の社会に適応同化してゆくこと。
とのこと。
孤独行を求める仏教は、やはり、個人が社会化されることを拒みますか?2024年05月29日 (水) 13時57分 No.6095
人によったと思います - test01ab集団から離れるのがむいてる人と
集団の中にいた方がいい人の別があったと思います。
はっきりとは覚えてませんが、
そういう記述があった気がします。2024年06月05日 (水) 01時16分 No.6096
拒みはせずに、正しい個人の社会化の方法を説いています。 - tamotsu特に拒みはしませんが、
確かにそのような世捨て人イメージを持たれるのも理解できます。
正等覚者である仏陀が現れるまで煩悩を滅尽する悟りの方法を教えていただける存在はおられませんでした。
その方法が仏法ですが、
それがない時期は、非想非非想処という瞑想の極致である禅定を得る、梵天になる方法が最高でした。
この梵天になる方法は、煩悩を"抑えて"善い心を生じ続けさせるのが目標ですが、
煩悩を抑えることが、世の中の希望や当たり前の営みを否定するように見えて、社会からの隔絶を意味し、
社会化の否定に見えると思います。
しかし、ここは仏教が1番気を付けていることです。
世俗の人々と交わると、また煩悩が生じるようでは、
煩悩の滅尽を目標とする仏教と矛盾します。
とはいえ煩悩の滅尽をするには、世俗のことをしていては、無理なので少し離れるんです。
その時に、自分より善心が少ない集団には属せず、修行します。
そこで、助け合い、悟りを開くために修行している方々の集団がサンガになります。
そのような集団がなければ、犀の角(=犀)経のように
独り歩めと推奨されます。
信者を伴ったサンガは、大勢の集団となりますから
そこで個人がというよりも聖者としての社会化がなされ、
悟った後に、サンガから離れたりして、教えを拡めるか寂涅槃されるまで普通に生活させるか個々の聖者の方々で違ってくると思います。
サンガは聖者になるためのひとときの停留所のような集団だそうです。(ミリンダ王の問いより)
個人の社会化は、生まれた瞬間から、どのような境遇でも生きていくうちにその場その場の状況でなされていくものですから
そのもの自体を仏陀は否定はされないでしょう。
個人の社会化は、個々の生命の貪瞋癡によって、これは都合がよい、これは嫌だけれど我慢しないと自分が危ういなどから思想、思考、行動までも決定されていき形成されていきます。
その際の個々の生命の思考や行動の決定要因になる貪瞋癡を仏陀は否定します。
貪瞋癡による決定は、苦しみを増すのだ。
不貪不瞋不癡による決定は、苦をなくしていくのだ。
そのための生き方の方法が戒であり、出家の生活なのだ、と。
仏教は、正しい個人の社会化とはなにかを示しているといえます。2024年06月12日 (水) 18時53分 No.6100