日本テーラワーダ仏教協会 質問&議論BBS

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リッサ > test01ab - tamotsu - きき - リッサ - リッサ  - リッサ  - きき - 
悟りについて。 - リッサ
最近、思うのですが、

仏道修行者が破るのは、社会の概念、主に教育で植え付けられた価値観なのかなと思います。

人は生命である以上、生きる事が本質。(生への渇愛)
社会は、人が生き易くなる為のシステム。

互助や福祉の思想があっても、基本的には、生命の弱肉強食の原則を認めている。
(その時、その時の価値観をルールとして。)

もう少し、俯瞰的に見れば、全ての生命が幸せを願いつつ、生命の本質である「生への強烈な執着」を手放せないから、様々、苦労しつつも、試行錯誤から抜け出せない。

そんな風に考えるようになりました。

ヴィパッサナー瞑想により、あらゆる概念を外して、自らの「生命」を見つめ、気付くこと。

生命は生命から離れられない。
故に、一切皆苦である。

それを知る事で、本来の苦を妄想により増幅することなく、受け入れる事が出来る。(受け入れるしかないと知る。)

生命のシステムに翻弄される事無く、そこから一歩引くこと、それが安穏のみちであると知る事が仏道かな?と思うのですが、どうなのでしょうか?



2024年05月29日 (水) 13時57分 No.6094
悟りについてはレベルが違いすぎて想像でしか語れませんが - test01ab
「流れを遡る者」とか
「世の中の人が好むものを嫌って、世の中の人が嫌う物を受け入れる」
みたいな表現があるので、確かに一般的な価値観から大きく外れてるのだと思います。

僕は阿羅漢では無いので、
完全な悟りというものがどういうものか知りませんが、
悟りというのは「キリの先の芥子の実」みたいな
固定された状態では無い物というイメージを僕は持っています。
2024年06月05日 (水) 01時16分 No.6097
それも悟りを言い表すひとつだと思います。 - tamotsu
少し離れて(退いて)観る。

確かにそれも悟りを表していると思います。

[離れて(退いて)観る]の対象が感覚であれば、
痛い(=苦)が痛いで終わり、
なんで痛いんだ!思ったとおりにならないんだ!となる怒りから離れてますから。

先日、走り始めたてくらいの男の子が、遊んでいるうちに、どんとこちらの足に当たったのですが、
少し頭を押さえて、また元気よく笑いながら走っていっきました。
あんな風に全ていければいいなあと思い眺めていました。

子どもみたいにではなく、
[一瞬痛かった]で終わりにできることですよ。

多分、その男の子もサティを入れるなんて知らないので、歳を取れば、やれ、あちらが痛い、こちらが痛い、世の何それが悪いと、苦を感じたあとに怒りを育てるようになるでしょうが。

どんな苦でも苦がその一瞬に起きた感覚(受)と観られるようになれば、
苦を受け入れるんだと思わなくても、
苦を受け入れていることになるんでしょうね。
他人からすると苦しそうな状況でよく受け入れて耐えているなあとは思うんでしょうけど。

よく言う、無常、苦、無我の無我を承知した状態であって
"完全"に退いて何もかも全てが観られるようにできるのは、
悟りだと思います。預流果は間違いないでしょう。
2024年06月12日 (水) 18時53分 No.6102
修行で破るものは - きき
目指すべき破るものは、社会的な概念ではありません。確かにその部分も妄想に過ぎないと気づきますが、最終的には無明を破ります。無明は、物の見方、認識の仕方自体が間違えているという所なので、後天的なものではありません。これは、思考妄想を止める事で、順にこれも妄想だった、あれも妄想だったと気づいていきます。それを止めていく事で最終的に、無明を破る事になるのだと思います。
2024年06月17日 (月) 20時17分 No.6104
test01abさま - リッサ
お返事、ありがとうございます。

確かに、「悟り」が何か、予想、想像する事自体が、誤った目標に進む危険を孕んでいるように思います。


長老が「瞑想で何か感得してもそれをパッと放す」と言うのも、そのひとつの意味かと。

故に、正道を歩む先達に従う事が大切なんだなぁと思います。
「修業はひとりでするもの」と言われますが、本当にそうなんだなぁと思います。
(的外れなコメントでしたら、申し訳ありません。)
2024年07月20日 (土) 00時59分 No.6129
tamotsuさま - リッサ 
最近になって、観察瞑想について、目指すところが、「ここかな?」と思うところを持ちました。

風呂に入っていて、タオルを濯いでいた時なんですが、「結局、人の1日は生きる事に終始している。」
「体の動きを止めて、心(=感情、生命の欲求)に気付く」

そうすると、自分は何に悩み、何に苦しんで生きているか、何に滞っているかに気付く。

全ての計らいを手放す、為さねばならぬと思っている事も手放し、行きたいという渇愛から離れる。

以前は、瞑想指導で「死体になる」とありましたが、一切皆苦から一時、離れる事で、安穏を感じる。

故に、曹洞宗の座禅でも、「座る姿が佛の姿」となるのかな…と、最近、思います。

思考はどこまでも、自分に染み渡る「概念」の影響を受ける。

上座仏教の知識の下に生活する内に、ハタと発見する。
それは、教えられた事そのものでも、自分でハタと気付くことが、得心であり、言葉に使われない、言葉を使う、「主人公」なのかな、と。

人は、人であり、人という生命、肉体に付随する苦しみからは逃れられない。

ただ、それを観察し、感得する脳力がある。

枝葉末節の、「理想論や〜ねばならない」論から類推するのではなく、幹からドスンと根本に辿り着く方法が瞑想なのかな、と。

ただ、僕はどうしようも無い怠け者なんです。

無上の果実を前にしても、そこに至る方法をお釈迦様か説いて下さっていても、怠ける。

その怠けにまけつづけています。
2024年07月20日 (土) 00時59分 No.6130
きき さま - リッサ 
今の僕の気付きでは、「言葉に依らない事」かなと思うんです。
あるいは、「至道無難、唯嫌揀択」かなと。
目の前にある、ありのままを受け入れること。


先天的な、人間が生命として持つ、生の渇愛に基づく価値判断。
そこからは、逃れられない。(生老病死)

人が人に過ぎないことを、認めること。
それが、苦を極小化することなのかと思います。

さきさまのコメントを拝読し、確かにお話の通りだと思いました。

2024年07月20日 (土) 00時59分 No.6131
その後発見があったので、書き留めます - きき
生への強烈な執着があるから、苦労しつつも試行錯誤から抜け出せないというのは、仰る通りだと思いました。結局自分がいるという錯覚がある限り試行錯誤し続ける必要があり、工夫しても苦しみから離れられる事はない。悟りに関しては分かりかねる所ですが、苦しみを減らす方法としては、思考や行動の主導権を握っているのが自分であるという間違いから離れるために、長老の説法にもある、沢山の細胞たちがやってくれていることだと、一歩引いたところから観察することが大切で、ご飯を食べるにしても、一連の動作は全て細胞たちが動いてくれていて、味も細胞たちの働きによってわかるもの。全ての行動をするときに、決して自分が行動しているわけではなく、全て細胞たちが動いてくれていることを知り続ける事。次にすべての出来事は原因があって結果が生まれていることを観察していると、今までの判断方法が間違えており、因縁に沿って判断するのが正解だったと気付きます。自分の判断は必要なかったのですね。ですので、自分が色々やっている、ではなく細胞たちの働きによってのみなりたっていると知ること、因縁の観察、思考妄想を厳密に止めること、これが苦しみを減らす方法だと思います。
2024年08月05日 (月) 04時17分 No.6145


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