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tamotsu様、トトロ様、ありがとうございます - ポンタtamotsu様、ありがとうございます。
「自我は存在しないが魂は存在する」みたいな主張に対する執着ですかね。
言葉の表現からは、我語取のほうが質が悪いことはわかります。
トトロ様、ありがとうございます。
五蘊は私ではないが、感覚への執着が残っていれば無執着ではないですね。
あるいは、五蘊は私ではないが五蘊以外に私という存在がありそれに執着する場合も無執着ではないですね。
我語取、わかったような、わかんないようなです。。
エラー表示になったので、新たにスレッドを立たせて頂きました。2024年03月28日 (木) 18時08分 No.6067
名色=私 が 有身見 魂=私 が 我語取 - tamotsu自分もはっきりと理解しきっていなかったので、
[PDF]取(upādāna)をめぐるヴァスバンドゥの解釈
などを読み込んで、はっきりさせてみました。
まず前提に、何はともあれ自我は存在する。
そして、それをベースに
「私はとはなにか?どこにあるのか?」
という問いが世の中にあります。
仏教の無我は考えないで議論しています。
その答えの1つが、
肉体や心が『わたし』である。
で、
もう1つが、
肉体や心は『私』ではない。肉体を転々とする魂が『私』である。
です。
前者は
実際に確認のできる肉体や心・感情などを『私』とする見解で、有身見。
後者は、
実際に存在していない想像上の概念である『魂』を『私』とし、その『私』を大切にする我語取です。
世の賢者は
五取蘊を『私』とする(有身見)か、
概念(魂)を『私』とする(我語取)か。
で議論をしていましたが、
お釈迦様は、どちらも間違い、私と呼べるものはどこにもない実際は無我です
と言ったわけです。
なぜ見解と執着(取)なのかは、
存在するものに対する見解と、
理想的なあり得ない概念に対する執着
(ないものに見解は持たない)
ですか。
そんな違いでした。2024年04月03日 (水) 00時26分 No.6069
魂論争 - ポンタtamotsu様、ご丁寧にありがとうございます。
なるほど、当時のインドで魂論争が盛んだったのを忘れてました。
そんな背景をもとに、有身見と我語取の違いを捉えるとわかりやすいですね!
今回の説明で自分なりにスッキリした感じがあります。。2024年04月09日 (火) 02時20分 No.6070
ありがとうございました。 - tamotsuこちらこそありがとうございました。
今回のやり取りで、かなり我語取について理解を進めることができました。
正確には我語取ついては阿羅漢果心が生じないと掴みきれない執着ですよね。
スマナサーラ長老の
我論への執着「自由への突破口③-6」
https://sukhi-hotu.blogspot.com/2024/02/upadana3-6.html?m=1
我語取「自由への突破口③-7」
https://sukhi-hotu.blogspot.com/2024/02/upadana3-7.html?m=1
は、ポンタさんとのやり取りを経ないと理解できませんでした。
有身見は、これは私でない、あれは私でない、これも私でないとヴィパッサナー瞑想をしていくうちに
認識できるもの全てに自我と呼べるものはないなと無我を理解でき見解をなくせますが、
本当に無我を体験したときは、無明がなくなり、サンカーラがなくなり、識がなくなるので、認識自体が生じませんものね。
最後の最強の執着とは、確かにその通りです。
ヴィパッサナー瞑想をしているときに、
マハーシ長老が言うサンカーラの止まるところ
なんてまでいけるのだろうか?とたまに思うのですが、
確かにそのような状態が生じたら言葉で説明はできないですね。
ちょっとマンネリになっていた瞑想の糸口にもなって
またやる気が湧いてきました。
ありがとうございました。
2024年04月20日 (土) 20時15分 No.6083