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ある解脱したと自称する人が不滅の意識なるものを説いていたので気になってその人に前に質問したのですが、皆さんの意見をお聞かせください。
<質問>
永遠の意識とは何を縁として生じているものでしょうか?
仏陀は六根六鏡を一切であると言いました。
〈眼〉と諸々の〈色〉、〈耳〉と諸々の〈声〉、〈鼻〉と諸々の〈香〉、〈舌〉と諸々の〈味〉、〈身〉と諸々の〈触〉、〈意〉と諸々の〈法〉
比丘たちよ、これが〈一切〉といわれます。
比丘たちよ、このように言う者がいるとしましょう。
『私はこの〈一切〉を否定し、他の〈一切〉を説こう』と。その者の言葉は、まったく根拠なきものとなりましょう。
かれは、問われても解答できず、さらに混乱に陥ることでしょう。
それはなぜか
比丘たちよ、対境なきものに関して〔論じている〕からです」(一切経)
<回答>
何の縁もないのじゃ。
縁によって生じるものは観念であるからなのじゃ。
観念ではない意識はなにものにも縁を持って起こされることはないのじゃ。
それはありつづけるものなのじゃ。
そもそも縁によって起こるものとは修行のために設けられた法なのじゃ。
それもまた観念なのじゃ。
法を捨てた後に現れるのが意識なのじゃ。
(終)
この人によると、この意識は肉体が死んだ後もあり続けるもので、解脱することで自覚することができると主張しているのですが、これは初期経典と照らし合わせると外道の見解でしょうか?
よろしくお願いします。
2024年03月04日 (月) 13時22分 No.6048
他にもこんなことを言っています
「死によっても消えない永遠の意識があるじゃろう。
それは生きている時でも感じられるものじゃ。
手とか足とかの体は死んでなくなるじゃろう。
思考とか感情とかもなくなるじゃろう。
今の認識もなくなるじゃろう。
しかしそれでも残っている意識があるじゃろう。」
永遠の意識は大乗仏教で説かれる阿摩羅識あるいは真如のことであると主張しているようです。
wikipediaによると真如は、心にも思い浮かべることができず、言葉にもできないと書かれています。
心にも思い浮かべることができず、言葉にもできないものの常住を述べたり、それが死後もあると主張することができるとは到底思えません。
似たような外道の見解がパーリ経典に述べられていた記憶があったので調べたらパーリ梵網経にありました。一部常住・一部無常論者です。
五識の無常は説くが意識の常住を説く外道の論者の話です。2024年03月06日 (水) 14時28分 No.6050
宝性論 - tamotsuただの報告である回答になりますが、
以前、別の方の質問に答える際に出くわした知識で
法身などの考え方が出てくる大乗仏教の宝性論で、
無明で汚れた垢(煩悩)を落として真に清浄なこころを顕現にするという考え方、これが解脱であるとの論理がありました。
真の清浄な心を不滅の識読み換えていただくと、
なんとなく似ている考え方だと分かると思います。
大乗仏教ではこれがメインですが、
東南アジアの仏教でも、大乗仏教の影響があるところはもちろん、
法話の翻訳を読んでいるとタイ仏教でも1度だけ見たことがありました。
パーリ語仏典でも
識は、精子と卵子が合わさったとき母胎に識が入る
と書かれている箇所を見たことがあります。
早とちりをすると、ここで識が輪廻転生すると読めますが、
生滅を繰り返す識でも、この文章は破綻しませんから
まだヴィパッサナー瞑想をしていないような人が読まれると、識を魂みたいに思うのが普通なんだろうなと思いました。
眼識なりでも生住滅、生住滅となっているのが
多少なりとも分かりますから、
どの部分での識も生住滅、生住滅としていると思うのが
自然だと自分は思います。
ここは自分で確認しきらないといけないのだと思っています。
行サンカーラによって識ウィンニャーナが生ずる
のだから無明がなくなれば土台がなくなるのだから
行も生じず、識も生じずでないとおかしいのにな
と常々思っています。
宝性論が、正しいのかどうか、自分にとってはしこりのように残っている課題ですね。
大乗仏教圏では、特に根強い概念だと思います。
2024年03月08日 (金) 20時01分 No.6052
パーリ増支部にも自性清浄心という概念として一応説かれていますね。
「比丘たちよ、この心は光り輝いている。ただ、外来のもろもろの煩悩(客塵煩悩)によって汚れている」
大乗だとこの自性清浄心のことを真如というそうですが
おそらく大乗でも真如が永遠であるだとか、常住の識であるだとか、死後も在り続けるは言わないと思います。
>真の清浄な心を不滅の識読み換えていただくと、
なんとなく似ている考え方だと分かると思います。
阿羅漢の認識もそれは煩悩がないだけで、無常であると思います。
何をもって永遠という概念が出てくるのかという話な気がします。ヒンドゥー教徒にも永遠を認識したと言い張る人がいますね。
2024年03月12日 (火) 10時37分 No.6053
識無辺処 - ゴン浅学の私が答えるのも大変恐縮なのですが、読んでいて感じたのは識無辺処を永遠のものだと執着しているのではないかと思いました。ただ、私自身、識無辺処の禅定に達していないので偉そうに言えないのですが、詳しい方がおられましたら私も知りたいですね。2024年03月24日 (日) 01時31分 No.6057
タイ仏教で読んだと思っていたのはこちらの読み間違えでした。 - tamotsu分かりました。
思い込みによる聞き手の捉え間違いです。
うまく説明できるか自信が無いのですが、
言葉を並べてみます。
『本来の心は光り輝いている』
は、パオ・セヤドーが有分心は光り輝いているとおっしゃってる法話を読んだことがあります。
(何も感じない有分心は心路ででてくるもので、ご存じなければアビダンマの注釈書アビダンマッタサンガハを読んでみてください。)
パーリ語の増支部の箇所は、のちの有分心のことを述べてるようですよね。
宝性論の自性清浄心は有分心の言い換え、説明し直しのようです。
真如というのは、辞書で調べていただくと
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しん‐にょ【真如】 の解説
《(梵)tathatāの訳》仏語。ありのままの姿。万物の本体としての、永久不変の真理。宇宙万有にあまねく存在する根元的な実体。法性 (ほっしょう) 。実相。
出典:デジタル大辞泉(小学館)
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となります。
日本の大乗仏教では、真如は、万物の本体、根源的な実体などと昔から説明され、
自分は、
『常見で、邪見だな』
と思い、真如とはそのようなものだと覚えていました。
日本では、そのように解釈している方がほとんどだとも思います。
いま、人さんが、
>おそらく大乗でも真如が永遠であるだとか、常住の識であるだとか、死後も在り続けるは言わないと思います。
と書かれたのを読んで、気づかされました。
真如を常見の産物と思わずに読んでみることをやってみたのです。
そうすると自分が読んだ尊者の方の法話のなかに出てきた『本来の心』を、尊者は、常住のものだとは一切言われていなかったこにと気づかされました。
1度だけ見かけたタイの方の法話では、
『本来の心は光り輝き』と出てきて、
なにやら真我、真如みたいなことを言っていておかしいと思ったものです。
ですが、ここで、真我・真如に似たものと言っていると思ったことが自分の間違った思い込みで、
そしてそのまま『本来の心』が真如で、辞書でいう本体・実体と言っているんだと誤った解釈をし、勘違いしてしまったのです。
タイのお坊様も、決してそうは言っておらず、
(生住滅を繰り返す)心は、本来清らかで光り輝く云々と読んでもよいことだと思い直しました。
しっかり無常の見解で説法されていたようです。
なまじ専門知識があることによって、
相手の話していることを、己の知識内で都合良く理解、解釈し、間違った意図で捉えていた事に気が付かされました。
言葉を聞いたり、読んだりすることで、未知の物、真理を把握、理解しようとする弊害でした。
さて『死によっても消えない永遠の意識』
の話しに移りますが、
生は、認識が生住滅と続くことであり、死んでもまだ一刹那、死心が生じて滅し、すぐ生起心があらわれて認識がつづき、来世の認識が続いていきます。
『死によっても消えない永遠の意識』
は
『死によっても(解脱しなけらば)終わらない永続していく認識機能(識)』
を、その方は見ていると思えます。
輪廻なので、識の生住滅は死んでもなくなりません。
もしくは、何も触れていないときの心、有分心を捉えているようにも思えます。
前後全ての文章がわからないのですが、
永遠の意識がなにかの説明のなかから出てきたと思われます。
輪廻を観察する者にとって、
『死で終わらない』
も良いですし、
始まりもないし終わりもない輪廻において『永遠』
も、
まあ間違った言い方ではないので、
この方が常見を持っているのか、判断ができなくなりました。
自分の知識による解釈での思い込みのおそれがあるからです。
回答と追記内の発言の文章からは
『あ、この言い方は常見つまり邪見だ』とも読んでも良いし、読めなくても良い感じです。
無色界の禅から、対象がどんどん物質的な物がとらえられず、発生する心を瞑想対象にしていきますが、(空(間)無辺、識無辺、無所有処、非想非非想処)
非想非非想処での心とは違うのですか?
とか、
その観念を超えた法を捨てたあとの現れる意識
(つまり心ですね)も、よく観察すると生住滅してるのですか?
と聞いて、少し踏み込んで質問してみるといいのではないでしょうか?
『この人、有分心を説明しているだけではないかなあ。』
と思えましたので、どうもはっきりしなくなってきました。
確認が取れるようでしたら、取ってみると良いかもしれません。
期待します。
それと、増支部のお釈迦様の言ったところは、
何経かお教え願えますでしょうか?
日本語訳の増支部を持っているので、読み返してみたいと思いまして。
それでは失礼いたします。
2024年03月24日 (日) 01時31分 No.6058
死と解脱 - ポンタこんにちは。
解脱によって認識される永遠の意識(解脱によって永遠の意識などないのてまはなく)がそのまま死後続くなら、そしてそれが究極であるならば、四の五の言わずにとっとと死ねばよく、修行なと無用。ってなると思います。
以上、ご参考までに。。2024年03月25日 (月) 19時35分 No.6063