日本テーラワーダ仏教協会の質問&議論用の掲示板です。
投稿は個人情報を削除した上で編集しHPや協会機関誌等に転載する場合があります。
YouTube「日本テーラワーダ仏教協会事務局」チャンネルのQ&A動画で取り上げる場合もあります。
画面左上の検索フォームで過去の書き込みをキーワード検索できます。
投稿は管理人が内容を確認後に掲載します。不掲載の理由問合せにはお答えできません。
質問や相談にコメントする場合は"真理を守る"謙虚な姿勢を心がけましょう。
お問合せは、info@j-theravada.net まで。
生きとし生けるものが幸せでありますように。
こちらの関連記事へ返信する場合は下のフォームに書いてください。
はじめまして。
苦の見方:「生命の法則」を理解し「苦しみ」を乗り越える を読みました。
>執着を捨てるということは乱暴な人間になることではなく、ものすごくやさしい人間になることです。それぞれの生命の尊厳を認める人になることです。
とありました。一方で、
>生きることが幸せだ、命はとても尊い、などなどの錯覚をします。
ともあります。
生命や命は、尊いのでしょうか?それとも尊いというのは錯覚なのでしょうか?2024年02月25日 (日) 13時39分 No.6040
優劣などの価値判断をしない - tamotsuこれは、嫌いな生命、嫌っている生命まで慈悲の瞑想ができるようになり、
ヴィパッサナー瞑想を続けていかないと理解することができない難しいところですね。
生命や命に対して価値判断をして
尊いもの、優れたもの、価値のあるものと見て執着するのでもなく、
尊くないもの、劣ったもの、つまらない価値のないものと見て、乱暴にしたり、粗末にしたり、いじめたり、無関心にしないことですね。
通常、生命は自分に楽を与えるか、苦を与えるかで
他の生命の価値を決めて生きているので、
慈悲とヴィパッサナー瞑想をよくして法話を聞いていかないと、『価値を入れずに他の生命を見る』はできないはずです。
相手に価値を入れていれば、慈悲の瞑想で嫌った人や嫌われた人を含めた全ての生命に対して慈しみを送るなんてことはできませんし、
命に価値を入れていれば、自らを攻撃する人や生命に対してこれも慈しみを持つなんてできません。
質問された文章の中で、
『一方で』
で区切ったところは
上部を価値あり
下部を価値なし
で相対するものとして区切っているはずです。
ですが、価値判断がなくなった無執着の見方でみると
同類のものとして見えてきます。
他人から聞いても
尊くもないのになぜ慈しみをいれたりして大切にしなければならないのか
に対する満足する答えはなかなか得られないと思います。
慈悲の瞑想とヴィパッサナー瞑想をし続けて
たまにこの問題に対する答えを
自分の言葉で書いてみると、
どれだけ無明が少なくなったかの指標になると思いますよ。
2024年02月27日 (火) 17時19分 No.6041
自分自身が生きることについての心構えと他者に対する接し方の心構えの違いです - ゆべる堂はじめまして。
「生きることは苦であり、生きることに価値は無い。だからさっさと解脱しましょう」というのが仏教の教え、真理です。これが仏教の立場であるということを、まず理解してください。
しかしながら無明に覆われた悟っていない生命はそれがわからず、「生きることは素晴らしい」などと生を高く評価しています。「死にたくない、生きていきたい」と、死を厭(いと)い生を望んでいるわけですね。
仏教徒は、当然仏教が説く「生きることは苦で無価値だからさっさと解脱しましょう」という教えを信じ、そのために励むべきです。しかし生命というのは前述の通り「生きたい」と思っているのですから、その権利を侵害してはいけないのです。
「生きることに価値なんか無いんだからお前なんか死んでしまえ」と言って他の生命を殺すようなことでは権利侵害であり、これも重要なものとして仏教が説く「慈悲」が無いわけです。
「生きていきたい、死にたくない」という希望を持っている他者の権利を侵害せず、その一方で自分としては生きることを高く評価せず、むしろ価値の無いものとして解脱を目指す、というのが仏教を信じる者が取るべきスタンスというわけです。2024年02月27日 (火) 17時19分 No.6042
ご回答ありがとうございます - とっとよくよく思案(瞑想?)してみます2024年05月11日 (土) 06時46分 No.6090