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仏教理解だけで預流果 - かけら MAIL
質問させてください。

瞑想で涅槃が現れていなくても、仏教理解だけで預流果に悟れるとスマナサーラ長老の本に書かれていますが、眼耳鼻舌身意に色声香味触法が触れて、瞬間、瞬間、現象が現れるということしか無い、自分という実体は無く、この6つが生じて滅している以外には何も無い、とわかれば預流果の智慧が現れたということでいいのでしょうか?

2024年01月25日 (木) 14時05分 No.5997
答えではなく、ご存知の知識を繰り返して言っているだけの回答かもしれませんが。 - tamotsu
預流果の条件として
五下分結のうち有身見と戒禁取と疑がなくなること
(残りは欲と怒り)が言われます。

有身見は、自分の肉体や感覚、概念、衝動、認識の五取蘊が自分のものであるという見解です。
観察するヴィパッサナー瞑想によって、自分のものでない、自分ではないと実際に確認、認識すれば、
自然、お釈迦様の言う無我が本当のことだ、
そして無我なので魂みたいな恒常のものがあるとは思わなくなるので、すべてが無常であることも納得しますし、
そして、永続しないので、虚しい苦であると思い至るので、
無常、苦、無我を理解します。
これによってお釈迦様が教えてくれているもの(法)に対する疑がなくなります。

お釈迦様の言っている善因善果、悪因悪果の因果法則に対する確信もうまれ、
占いや訳もわからずに続けている伝統や習慣が無意味だとわかり、
戒禁取も自然となくなっていきます。

このように、
自分なんてないなとわかると
預流果になってますよ。
その程度の話ですよ。
とスマナサーラ長老が話していた動画をみたことがあります。

あとお釈迦様が、
自分は預流果を得たのかという信者からの問い合わせが殺到したときに、
預流果は自分でわかります。
こうこうこうです。
と説法されたことがあります。

ですので、預流果心が生じたならば、
ああ、これがみんなが預流果と呼んでるものかと
自分でわかるので、
これ預流果かなあと思ううちは、
まだ有身見が残ってるのかと思います。

ものがなくなった時に、過去にあったことが相対的に際立つので、
あった過去と、なくなった現在を引き比べて

おお、なくなった。
自分には有身見があった。
(語弊を怖れずに『自分には』と使ってます。)

とはっきりとわかるんではないでしょうか。



2024年01月27日 (土) 17時52分 No.6002
仏教理解だけで預流果、つづき - かけら MAIL

こんなに長文で、丁寧にご返信して頂きまして、本当にありがとうございます。

自分では、有身見について腑に落ちるところがあったので、今回質問させて頂きました。
なので、もう少し話を聞いて頂けないでしょうか。

まず、以前ヴィパッサナー瞑想で音だけになった体験がありました。
しかし、その時は集中力が高まると、こういうことも起こるのかぐらいにしか思いませんでした。

その後、クリシュナムルティの本を読み、その中に、思考者は思考である、と書かれている箇所があり、最初は全く理解できなかったのですが、
本を読み進めていくうちにその言葉の意味がわかり、何か頭に雷が落ちたような衝撃を感じました。

自分が考えている、自分が感じている、ではなく記憶を相続した断片的な思考の働きが、感覚や感情の隙間に現れて、
さも自分という実体があるように見せているのだけれど、合せ鏡に何かを写した時のように、
どこまで行ってもそれは断片的な思考でしかない。

そうすると、自分、などという核となるものはどこにもないのだということがわかりました。その時、ほっとする気持ちが起きたのと同時に、騙されていたようながっかりする気持ち、自分も他者も本当は誰もいないのか、という恐怖心のようなものが起こりました。

これらの経験を合わせると、すべては無常、苦、無我で、有身見というものは成り立たないのだと思いました。

そして、スマナサーラ長老の本に、仏教学者の方との対話で、その方は瞑想は一切していなかったのだけれど、話し合いで預流果に悟ったと書かれていたので、瞑想を通しての本格的な体験がなくても、理解が生まれればいいのかなと思い、今回質問させて頂きました。

よろしくお願いします。


2024年02月01日 (木) 21時24分 No.6005
Re - 凡人
『ブッダの実践心理学(8)』に「小預流者」の話が出てきます。おそらく、預流果になったような気がするけど、でも、道果を得た気はしないなら、この境地が一番近いのです。

でも、「小預流者」って用語を知っている人はほとんどなく、私もこのスマナサーラ大長老のご著書を読まなかったら、未だに自分がどこら辺にいるのか、誤解していたでしょう。
IMG
2024年02月01日 (木) 21時24分 No.6007
大木の伐採 - イエモン MAIL
こんにちは

私も約10年前に「思考はエゴであり、自分ではない!」
このような内容の書籍(エックハルト・トール『ニュー・アース』)を読んで衝撃を受けたことを覚えています。

その後、テーラワーダに出会い、預流果についても、かけらさんと同様の疑問がありました。

今回の皆さんの投稿を読んで、(私にとっては)面白い例え話が閃いたのでシェアさせてください。

まず、前提知識として...
悟りの階梯を進むにあたり、凡夫の認識過程から聖者の認識過程に心が変化・変容が生じていく必要があります。

あくまで、仏教の知識王ではなく、心の変容が生じなければ仏道とはいえないということです

では、凡夫の認識過程を一言でいえば「五取蘊」です。

聖者の認識過程とは「五取蘊」から取(執着)を取り除いた「五蘊」ということになります。

ここから、しばし例え話なのですが、

一人の地主が、自身の土地に大木が生えており、この大木を切って駐車場にしたいと考えています。

その場合の手順としては、
①葉の生い茂った細い枝から切り落とす
②次に太い枝を切り落とす
③地面に近い幹を切り落とす
④土を浚ってコンクリートで固める

最初の作業(①)は、後々の作業を効率よく行うためにも必要不可欠な工程です。

地主さんが、春には綺麗な花も咲くし、青々とした新緑が素晴らしいのに。
やっぱり切るのを止めようかな~(涙)。と愛着・未練を削ぎ落とすのにも効果的です。

この青々と生い茂った新緑は、五取蘊(貪瞋痴によって捏造された認識)によって作られ、溜め込まれた生産物の比喩です。

たくさんの新緑は、それぞれに、煩悩(貪瞋痴)という栄養が入り込んだ(束縛のような)もので、自我と同一化することでアイデンティティーを形成しています。

例えば、
思想、意見、見解、主義、主張、大儀、正義、哲学、宗教、文化、教養、学問、物語
他にも、
国家、土地、お金、家族、恋人、仕事、役職、趣味、魂、自身の名前、身体、感覚、思考、妄想、感情、..など無数にあります。

こういったもろもろの新緑(執着物)は、
ヴィパッサナー瞑想でどうにかするよりも、説法(聞法)によって、真理(真実)の光を伝える方が効果的に無効化する(執着を外す)ことができると思われます。つまり、

「冬には全部枯れ落ちるよ。だから、執着しても意味ないよ。結局、すべては無常(波動)だよ。」と。

かけらさんの書かれている通り、

>眼耳鼻舌身意に色声香味触法が触れて、瞬間、瞬間、現象が現れるということしか無い、自分という実体は無く、この6つが生じて滅している以外には何も無い

という真理(真実)を聞いて「ああ、そうか、そうだったのか!」と心底納得し、見解の顛倒(パパンチャ)が生じなくなる。このような心の状態も預流果であるとスマナサーラ長老のご著書に書いてあります。

つまり、自他が作った見解にも執着しないし、自分でも見解を作らない。だから、他人の見解に執着したり(好き)、批判したり(嫌い)等の感情で判断せず、論理的・多角的な観点で分析するようになります。

説法(聞法)によって、真理(真実)に納得することで、仏教に対する「疑」が無くなり、他宗教で行われる儀礼や決まり事(戒禁守)にも執着しなくなります。

結局、様々な概念と煩悩によって作り出された新緑の一枚に過ぎないことを見抜けるようになるからです。

有見見は、tamotsuさんが書かれている通りだと思われます。
>有身見は、自分の肉体や感覚、概念、衝動、認識の五取蘊が自分のものであるという見解です。
観察するヴィパッサナー瞑想によって、自分のものでない、自分ではないと実際に確認、認識すれば、

この五取蘊の中の受取蘊・想取蘊・行蘊は、無始なる過去から染みついた心の機能(癖)なので、ヴィパッサナーで矯正・遮断していかなければいけません。

感覚や思考・妄想、衝動は、自分ではないと理解していても勝手に生じる(わかっちゃいるけど、止められない!)ので、瞑想修行が必要になるわけです。

まとめると、
①葉の生い茂った細い枝から切り落とす
・識取蘊(認識)への介入
・説法による心のパラダイム・シフト→見解に対する無執着
・疑・戒禁守・有身見の遮断

②次に太い枝を切り落とす
・行取蘊への介入(瞑想)
・ストップモーション、スローモーション、なにがあっても放っておく→衝動の遮断(貪瞋痴の大幅な削減によって)

③地面に近い幹を切り落とす
・想取蘊への介入(瞑想)
・ラベリングによる実況中継→思考・妄想の遮断(残りの貪瞋痴の削減によって)

④土を浚ってコンクリートで固める
・受取蘊への介入(瞑想)
・無常、苦、無我の悟りの体験→受(現象)の遮断の体験

参考
真理があらわになるということ――無常・苦・無我が無常・苦・無我を発見する悟りの世界|スマナサーラ長老の初期仏教法話(説法)

最後に余談というか、私の仮説なのですが、
①見解への無執着→預流果
②衝動の遮断(欲と怒りの大幅な削減)→一来果
③思考・妄想の遮断(残りの貪瞋痴の削減)→不還果
④受(現象)の遮断(世界の終わり)→阿羅漢果

このように五取蘊の観察から、悟りの階梯の指標が明らかになるのでは?!

との余計な邪見が現われてしまいました(汗)。まだまだですね。。

お互いに精進いたしましょう。


生きとし生けるものが幸せでありますように。
2024年02月05日 (月) 01時04分 No.6013
凡人さん、イエモンさん - かけら MAIL
ご返信ありがとうございます。

疑問に思っていたことが色々と晴れました。
ありがとうございます。

イエモンさんの五取蘊の解説は、これからの自分の瞑想の探究にとって、大変参考になると思います。

今後、またわからないことが出てきた際には、よろしくお願いします。
2024年02月09日 (金) 15時35分 No.6015
Re: - 凡人
かけらさん、多分、私は預流果でなく、そういう体験がないので、『ブッダの実践心理学(8)』に記されていたことくらいしか答えようがなかったのです。私も、もう来世でもいいので、輪廻からの解脱を確定させられればと思いました。
2024年02月22日 (木) 13時14分 No.6024
少しだけ観察 - tamotsu
なるほど。

普段、『理解する』『わかった』と言葉を使いますが、
詳しくみると『わかった』『理解した』の使われ方にはには2つほどあるように思われます。

1つは、かけらさんが
クリムシュナティ氏の本を読んで、雷が落ちたような衝撃を受けた理解の仕方で、
言葉を咀嚼し、自分に起きている現象、つまり思考について観察しみてその通りだと理解した理解の仕方と

もう1つは、これらの経験を合わせて、全てが無常・苦・無我と導き出し、有身見が成り立たないと結論付けたときの理解の仕方です。

2つ目の理解の仕方は、
ある法則があって、数式を解いて答えが出せた時のわかった・理解したになります。
ある前提があるならば、あれがこうなってそうなって、こうなるのか、という理解の仕方ですね。

『説法を聞いていたら悟った』は、
お釈迦様の話を我が身にひきくらべながら聞いていたら
『おお、本当だ。そうなっている!』のわかった
なので、1つ目の理解の仕方ですね。

しっかりよく聞いてほんの少し自分にひきくらべてみる

それがなければ、どこまでいっても
数式を解いたわかったで、
あとから新しいデーターが入ってくると、
あれ違うかなと疑いが湧いてきます。

有身見がなくなると疑も戒禁取もなくなってしまいますから
同じ法話を聞いて理解したでも
前者のひきくらべて理解したの方でないと、
預流果でなくなる三結というところで
理屈的にも整合性が保たれなくなるのです。

慈悲の瞑想で解脱まで到達する心解脱も、
禅定の状態で少し観察(気づき:サティ)の心が生じたからこそ悟るのでしょうし、
禅定に入るところまでできても観察(気づき:サティ)がなければ悟りません。
やはり観察(気づき:気づき)が大切です。

スマナサーラ長老が、仏教学者の方と話をしていたときは、仏教学者の方の誤ったものの捉え方を修正して
仏教学者の方は、豊富な仏教知識と、正された見解で
事象を眺めて、つまり観察してみたら悟ってしまったという話かと思います。

心についての話になるので、
自然と我が身に生じる心を見つめながらの会話となって
ヴィパッサナー瞑想をしてることになり、
道心果心が生じたと思われます。

この理解の仕方については、
実は、マハーシ・セヤドーの『ミャンマーの瞑想 ヴィパッサナー瞑想』に説明が出てきます。

別枠で挙げておきますね。
2024年02月22日 (木) 13時14分 No.6028
国際語学社 マハーシ長老著 ウ・ウィジャナンダー大僧正訳『ミャンマーの瞑想 ヴィパッサナー』より - tamotsu
理解の仕方として話しましたが、
マハーシ長老の『ミャンマーの瞑想 ヴィパッサナー瞑想』では3つの知慧として紹介されています。
訳者のウ・ウィジャナンダー大僧正の書かれたまえがきの中に出てきます。
引用しておきますので、全文は著書を探してみてください。

『つまり、人間は、自分の心身が変滅するごとに追いかけ念じている(=気づく:サティ)うちに、身体の本質を明確に知ることによって、自分自身が抱えている悩みや苦しみから解脱することができるのである。ただし、経典を読書して理解するだけでは、解脱どころか修行にもならないことを忘れてはいけない。

 ここに、三種類の知慧のことについても知っておいていただきたい。
(1)聞所成知慧(スタマヤニャーナ)
 これは、子供の時から人を通じて教えてもらった知慧。
 例えば、親、先生、友人、他の人々、あるいは、新   聞、ラジオ、テレビなどである。
(2)思惟所成知慧(チンターマヤニャーナ)
 (1)の聞所成知慧に基づいて、自分で考えたり、
 考察したり、考慮したりすることなど自己の努力によって得た知慧。
(3)修習所成知慧(ヴァッーワナーマヤニャーナ)
 修行を実践し、自ら体験したことによって得た知慧。

 もし”お経の意味が分かりますか"と聞いたら、ほとんどの読者は”はい、わかります”と即座に答えるだろう。もちろん、学者、知識人、宗教家などは、言葉も意味も解脱も専門的に理解するかもしれない。だが、”わかる、理解する”というのは、”悟り”ではない。前述した(1)と(2)の知慧においての知識人に過ぎないのである。社会的な知識人と認められても、修行、特に、瞑想に関しては知識人とは認めがたい。
これについては、この瞑想法を修行したポッテイラ長老の例のように、現世でもまじめに努力し実践すれば、必ずその結果が得られることが証明されている。他の方法で瞑想しても納得を得られない方は、この方法で瞑想すれば、必ず満足が得られるであろう。』(ウ・ウィジャナンダー大僧正まえがきより)

社会的な知識人のレベルでとどまっていたポッテイラ長老が、お釈迦様に空っぽなポッテイラと呼ばれて阿羅漢になっていった逸話も載っていますので、
是非一読してみてください。
2024年02月22日 (木) 13時14分 No.6029
ご返信ありがとうございます。 - かけら MAIL

凡人様

今回、掲示板に書き込みをすること自体が
人生で初めてで、ルールやマナーなどがまだよくわかっていないので、何か失礼なことをしてしまっていたら申し訳ありません。

色々と調べて頂き、ありがとうございました。


tamotsu様

理解にも色々とあるのですね。
衝撃を感じた当時の事を思い出してみると、確かに本を読んで、自分の心の状態を観察して、ということを行ったり来たりとしていました。やはり、観察が大事なのですね。

イエモン様、tamotsu様にこのように仰って頂けたので、自分の勘違い、早合点ではなかったということがわかり安心出来ました。(違っていたらすみません。)

「ミャンマーの瞑想」は以前購入して家にあったので、前書きとポッテイラ長老のエピソードの所だけ読み返しました。
自分自身では卑下慢の方がひどいと思っていたのですが、高慢も強いのか、とため息が出ました。

スマナサーラ長老の書籍に出会って20年位経つのですが、15年位前に初心者講習を受けたきりご指導を受けていないので、これからはポッテイラ長老を見習って長老方のご指導をしっかり受けさせて頂こうと思いました。

ありがとうございました。


2024年03月04日 (月) 13時22分 No.6044
現実的な目標 - イエモン MAIL
とはいえ、
「説法や話し合いで預流果に悟った」と言われても、アビダンマに記されている預流果に至る難易度と比べ、差があり過ぎるように感じられます。

なにか、いまいち腑に落ちないというのが本音ではないでしょうか?

この辺りの疑問は、ヴィパッサナー実践による「智慧」が現われたという確信があるか否かに由来しているように感じます。

そこで、凡人さんに示していただいた「小預流者」を、現実的な小目標に据えるのも一つなのかな~と個人的に思い至りました。

小預流者であっても
「預流果に達するのは、もう少しあとの話ですが、今も逆戻り不可能な状態になっています」

との記述があるように、預流果を目指すための中間目標に成り得るように思います。

小預流者は、度疑清浄に至った修行者を指し、
(アビダンマッタサンガハの)心が完全な清浄(解脱)に至る7段階(観業処)のうちの、四番目のステージです↓↓

①戒清浄
②心清浄
③見清浄
④度疑清浄
⑤道非道智見清浄
⑥行道智見清浄
⑦智見清浄

参考:下記の記事にわかりやすい解説がありました。
【清浄の7つについて】アビダンマッタサンガハ |観業処の仕方|NP & Company (np-sys.com)

この七清浄で、十六観智の最初の智慧である「名色分離智」が現われるのが、3番目の見清浄のステージです。

小預流者の段階とされる度疑清浄のステージでは、十六観智の2番目の智慧である「縁摂受智」が現われるようです。

従って、長老の『ブッダの実践心理学 第8巻』などを参照しながら、
・(自分は)七清浄のどのステージにいるのか? 
・ヴィパッサナーでは、どの智慧が現われているのか?

などを自己チェックしながら修行されるのが、それなりに確実な方法のように思います。

十六観智は、文字を眺めるだけで途方に暮れそうな気分になりますが、

「名色分離智」と「縁摂受智」の二つだけであれば、何とかなりそうな気になりませんか?!
(私の感想です。。)

参考:ウィキペディアより
・名色分離智(nāmarūpa-pariccheda-ñāṇa) : 現象認知における意識(nāma ナーマ, 名)と対象(rūpa ルーパ, 色)の分離。
・縁摂受智(paccaya-pariggaha-ñāṇa) : 意識(nāma ナーマ, 名)と対象(rūpa ルーパ, 色)の相互条件付け・因果関係の理解。

お互いに精進しましょう。

生きとし生けるものが幸せでありますように。
2024年03月04日 (月) 13時22分 No.6046
イエモン様へ - かけら MAIL
アビダンマは、全然読んだことが無いのでわからないのですが、そうなんですね。
ちょっと曖昧なポイント、ということみたいですね。

預流果までは理性で到達出来ますよ、とスマナサーラ長老のご著書に所々出てくるので、自分はどうなのかなと気になってしまいました。

今回、質問した後に自分なりに色々考えてみたのですが、預流果心が現れれば解脱が確定する、という言葉に囚われすぎていたような気がします。
安心したいという気持ちと怠けだと思います。

しかし、解脱が確定するというのはあくまでもお釈迦様の側からの言葉であって、自分の側からは確認もできないし、どこまで行っても憶測の域を出ることはできないなと思いました。
(お釈迦様が、適当な事を言っているとはとても思えませんが。)

そうしますと、こちら側から実際に確認できることは苦しみがどれだけ減ったのかということだと思いますので、たとえ預流果心が現れず解脱が確定しなくても苦しみが減ったのならそれはそれでいいのではないかと思いました。

苦しみが減った分は他の生命の役に立ったということにもなると思うので、精一杯やったのなら確定できなくても仕方ないかなと。

それと、思考妄想が苦しみの元凶なんだなとつくづく思いました。だから気づきの成長、確立が大切なのですね。

お釈迦様とクリシュナムルティが、お二方とも自分の教えの一番大切なポイントは二十四時間の気づきだ、と同じことを言われていて感動したことを思い出しました。真理というのは宗教とか非宗教とか関係ないということなのかな、などと思いました。

気づきを完成させて、自分という実感なしに生きるというのはどれだけの安らぎの世界なのだろうと興味が尽きないので、これからも自分にできる範囲で地道にヴィパッサナー瞑想に取り組んでいこうと思います。

色々と調べて頂き、ありがとうございました。


生きとし生けるものが幸せでありますように。


2024年03月12日 (火) 10時37分 No.6054


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