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解脱の種類について - 匿名解脱に種類はあるのでしょうか?Wikipediaで解脱の項目を調べてみると、仏教の解脱には、有為解脱と無為解脱、性浄解脱と障尽解脱、心解脱と慧解脱と倶解脱、時解脱と不時解脱があると書かれてあるのですが、たくさん有り過ぎて、果たしてヴィパッサナーで得られる解脱というのは一体何解脱なのか見当が付きません。どなたか、詳しい方、解脱の種類について解説して頂けないでしょうか?2023年12月20日 (水) 23時05分 No.5969
おもしろい問いなので、自分なりの見解を書かせて頂きます。
いつも、基調なスペースありがとうございます。恐れ入ります。
さて、本題に入らせて頂きますが、解脱とは何か?ということを、率直に答えさせて頂きますと、「自制」と言う言葉が最も近いかと思います。
理由は、そもそも人間も動物で、貪欲な本質を誰しもがあるのではないか?と思います。
三大欲求は勿論、もっと細分化したら、承認欲求や、理想や憧れへのなりたがり欲求ですよね。はい。
しかし、それらを追い求めていたら切りがないのではないでしょうか?
または、四諦ですよね。ある程度試行錯誤した結果から、統計的結論を見出すことも必要かと。
そこで向き不向きを見極め、努力により一層励むべきか? または、生涯の課題とすべきか?ではないでしょうか?
教主釈尊は、その心の正常の可動域として、おそらくは、「戒律」を定められたのだと思うのです。
では、
しかし、人間の本質は、無限大であるからこそ、その可動域を知ると言うことなのだと思います。
匿名者様のお求めになっておられる、解脱について、触れられたらよいかな?と言うことで、書かせて頂いております。
「観察」のみあり続けて行くと言うことはどういうことか?、と申しますと、そこに善悪、快不快、好き嫌いが生じない状態、mindをkeepし続けて行くことにあるのではないでしょうか?
つまり、認識に対して、バイアスが掛からない状態を、「我」とする、ということかと思います。
例えるならば、四季による寒暖差さえ、ただ感ずるままにあるだけ?
という、精神状態を保つだけにあるかと。
とは言え、「生命維持活動」と言う、本能的思慮はあるべきかと。
正常と異常の境界を見極められる自己を形成して行くことが、まずは、仏教の初歩かと。
では、なるべく多く僅かな幸せを願っております。
ありがとうございました。
2024年01月12日 (金) 10時39分 No.5978
種類というより分類 - tamotsu解脱は、煩悩を全てなくした
で大丈夫です。
これを基本に考えます。
春秋社のパーリ語仏典の翻訳を第1期長部経典から第3期を通読したのですが、
心解脱と慧解脱
だけは散見されました。他は特に見当たりませんでした。
これは、スマナサーラ長老のQ&Aでも説明が少し出てますが
https://j-theravada.com/dhamma/q&a/gimon48a/
心解脱は、慈悲の瞑想で解脱した解脱。
慧解脱は、ヴィパッサナー瞑想で観察して智慧を生じさせ解脱した解脱。
になります。
心解脱は、他の大乗仏教でも禅定の力で解脱した解脱と説明してありますので、禅定に入れる慈悲の瞑想で解脱したと言って間違いないことだと思います。
このように、解脱は煩悩を全てなくすことなのですが、
わざわざ何で解脱したかで分類したものです。
パンはパンでも
小麦粉で作ったら小麦粉パン
米粉で作ったら米粉パン
と区別するように解脱を分類してしまったものだと
解釈してみていくと、
だんだんわかっていくのかと思います。
ちなみに倶解脱は、
神通力を使えなくても阿羅漢果を得ることができるのですが、
神通力も使える阿羅漢さんを悟りも神通力も得ているので倶解脱と言うそうです。
他のものも、ウィキダルマを読んでみると
時解脱は、解脱のための環境や条件が揃うのにに時間が必要だった解脱
不時解脱は、時間が要らなかった解脱。
無為解脱と有為解脱は、
解脱についてではなく
無為解脱が 心(煩悩のない心)について
有為解脱は、心所(勝解)について
語ったものですね。
心と心所はセットで考えるので、
わざわざこの言葉を作った宗派があるようです。
性浄解脱と障尽解脱は、
大乗仏教のなかで、論じられてますが、
ネットでは簡潔に書かれてませんね。
論文を読み込んだらあとで再投稿しておこうかと思います。
ともかくも解脱は1個。煩悩をなくすことで、
心解脱と慧解脱の
分類を知っておけば大丈夫です。
ちなみに分類からすれば、ヴィパッサナー瞑想で解脱すれば、智慧を使って解脱したので慧解脱ですね。
でも解脱は解脱です。
ヴィパッサナー瞑想である程度智慧を開発して、考えるのが好きな方ならば、整理がつくときが来ると思います。
では。
2024年01月12日 (金) 10時39分 No.5980
Wikipediaと参考文献と経典 - Tony質問者様の記載された解脱の種類を初めて拝見したのですが、理解を深める良いチャンスだと思い回答させていただきます。
仏典の解脱について『パハーラーダ経』という経典の解説がホームページの施本文庫に掲載されていました。
スマナサーラ長老によると、
「お釈迦様の教えの目的は、唯ただひと一つ、「解脱」です。それだけなのです。仏教経典は、この目的に沿そって、しっかりと解脱のほうへ進んでいきます。途中で脱線することはありません。短い経典でも長い経典でも、最後には「解脱」で終わるのです。」とのことです。
ページ下部では「預流道・預流果、一来道・一来果、不還道・不還果、阿羅漢道・阿羅漢果」という八種についても解説されていました。
「それぞれの語尾に「道」または「果」が付いていますが、「道」というのは原因のこと、「果」というのは結果のことで、たとえば預流道は預流果になるための原因である、という意味です。」こちらは上記の補足です。
法話と解説/施本文
仏道の八不思議
pahārāda suttaṃ お釈迦様の教えの特色
https://j-theravada.com/dhamma/sehonbunko/hatihusigi/3/
質問者様のご覧になったWikipediaの解脱の項目には、「仏教における解脱は、本来は涅槃と共に仏教の実践道の究極の境地を表す言葉であったが、後に様々に分類して用いられるようになった」との記載がありました。
そこで分類された其々の解脱について調べてみたところ少し言葉に違いがありましたが、倶分解脱(ubhatobhāgavimutto)と慧解脱(paññāvimutto)、信解脱(saddhāvimutto)という3つは『キーターギリ経』という経典に出てくるようです。
解説を読んでみると、阿羅漢果に至って解脱した状態や、解脱する過程の状態を指す言葉なのかなと思いました。
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Wikipedia「果位」より
https://ja.m.wikipedia.org/wiki/果位
[七聖者]
パーリ仏典中部キーターギリ経では、釈迦は比丘たちを7種類の人(七聖者, 七識住)に分類した[3]。
1.倶分解脱(ubhatobhāgavimutto) - 阿羅漢の智慧(paññā)、および無色界禅定の両方に達した解脱者[3]。
2.慧解脱(paññāvimutto) - 禅定は得ていないが、智慧により阿羅漢に達した聖者[3]。
5.信解(saddhāvimutto; 信解脱)- 一部の煩悩が滅されており、如来に対しての信頼(saddhā)を確立している(預流果以上の悟り)[3]。
参考文献
[3]藤本晃著『悟りの4つのステージ : 預流果、一来果、不還果、阿羅漢果』サンガ、2015年11月、Chapt.2,7。ISBN 9784865640267。
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質問者様のご覧になった、それ以外の解脱の種類については能力不足で出典を追えなかったのですが、「分類された」ということなので解脱に至るどこかの段階にあたる状態を表しているのではないかと推測しています。
以上の情報等から、解脱はひとつでそこに至る八種類の段階がある。(阿羅漢果でゴール)ということなのではないかなと思います。2024年01月12日 (金) 10時39分 No.5981
参考資料と、私なりの要約 - 修行者仏道に関する有益な情報を提供することで、功徳をつみたいので、書き込みさせてください。
ご質問のテーマに関連する資料をまず紹介します。
日本テーラワーダ仏教協会において開催された勉強会で使用されたテキストを、ウェブ上で閲覧できます(http://liberi.jp/abhidharma/ad-text_1.pdf ←p51等)。音声解説もきけます (http://liberi.jp/abhidharma/120211_03.mp3 ←37:50以降ぐらい)。
これらの資料から、私なりに要点をまとめると、次のようになります。
―――――――――――――――――――――――――――――――――――――――
◆解脱は、煩悩の尽滅という性質に着目すれば、一種類しかない。
◆煩悩が尽滅した聖者が、ご存命かいなかに着目して、分類する場合がある。
◆どのような過程を経て解脱に到達したかに着目して、分類する場合がある。
◆ヴィパッサナー瞑想において、無我に着目して悟れば空解脱、無常に着目して悟れば無相解脱、苦に着目して悟れば無願解脱とよばれる。
―――――――――――――――――――――――――――――――――――――――
補足すると、スマナサーラ長老によれば、「そこで無常を理解するか、苦を理解するか、無我を理解するかは、各人の性格で決まります。一般的に誰でも理解しやすいのは「無常」です」とのことです。(https://j-theravada.com/dhamma/kougi/kougi-123/)
当然ながら、きちんと厳密に理解したいならば、上で紹介したような、専門家の先生による解説をご自身で学習なさるのがよろしいかと存じます。
この書き込みが、皆様が涅槃に到達する助けとなりますように。この書き込みによって得た功徳を、全ての生命に回向します。2024年01月12日 (金) 10時39分 No.5982
性浄解脱と障尽解脱について - tamotsuこれは、大乗仏教の宝性論について出てくる考え方でした。
日本の禅宗では白隠禅師という方が有名で、
白隠禅師坐禅和讃という御経を唱和します。
坐禅和讃の書き出しは、
「衆生本来仏なり 水と氷のうんぬん」
となります。
この衆生つまりすべての生命は、本来仏である。
もう少し正確に述べると
生命な心は本来清らかなもので仏である。
ということです。
そしてこの本来清らかな心を『自性清浄心』と言い、
これが煩悩で汚れているのが生命なのだ。
と論じて展開させているのが宝性論です。
難しく書いてあるのですが、
心を清らかにする『清浄』の方法で、
自性清浄心についている煩悩を遠離して清浄するのを自性清浄といい、
清浄ができれば解脱するので、これを性浄解脱。
すべての現象は無であるとわかって、つるんと垢(あか)が取れるように清らかな心の本性があらわれる清浄を離垢清浄といい、この清浄の解脱を、障(さわ)りが尽きて解脱する、障尽解脱というそうです。
宝性論曰く、清浄にはこの二種類あるとのことです。
『禅源諸詮集都序』の訳注研究(六)(石井・小川) PDFファイルで10枚目
より
大乗仏教で展開された論なので、少々、言葉や概念遊びが多くて難解でしかも理屈のみにも感じられますが、
日本や他の大乗仏教においては、
どんな生命体でももともとの心は清らかで、仏であるんだという考え方が、根幹をなしています。
すべてが渇愛をなくせば滅尽すると言っているお釈迦様の言葉からすると少し疑問が残りますが、
これもどうやって煩悩をなくしたかで解脱を分類しているものですね。
2024年01月12日 (金) 10時39分 No.5984
皆様ありがとうございます。 - 匿名皆様、解脱について大変詳しく解説して頂きありがとうございました。解脱の種類について大まかな理解が出来ました。ヴィパッサナーで得られる解脱というのは慧解脱ですね。禅定を作って得られるのは心解脱で、大乗仏教なんかで得られる解脱というのは心解脱ですね。阿羅漢レベルまで達して、尚且つ無色界禅定に達しているのが倶解脱という事になるのですね。後は慧解脱の中にも、預流果から阿羅漢までの段階があり、それによって呼び方が違ったり、空、無常、苦のどれに着目するかで、三相に分類されるという事が分かりました。仏教の掲示板やウェブ情報で、皆が悟ったと言っている割には言っていることが結構違ったりするので混乱してましたが、理由がなんとなく理解出来ました。大変詳しく調べてご回答頂きありがとうございました。重ねてお礼申し上げます。2024年01月21日 (日) 17時47分 No.5993