日本テーラワーダ仏教協会 質問&議論BBS

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自分とか自我について - 佐藤 MAIL
こんにちは。仏道を実践していますが、質問があります。

自分が怒った時に、「自分は怒っている」と思ったり、「自分の家族、自分のものです。」と思う時など、概念を言葉にするとき、自分とか私とかいう言葉を使います。
このときに、いったい何を指して自分とか私とか言ってるのでしょうか。

ヴィパッサナー観察をしていると、身体も別に固定的な自分とか自我じゃないし、五官に起きる感覚も自分じゃないし、こころに浮かぶ概念も勝手に出てくるだけで、自分とは言えないと思います。
でも、概念が現れた時、感情や、貪瞋痴や、主観によって、概念を解釈する時、その解釈を何となく自分特有のもののような気がして、それに対して、「私」とかいう主語を当てはめて概念を文章にしているような気もします。

いったい何を指して、こころは「自分」と認識するのでしょうか。
「自分は、邪魔をされて怒っている。」や「自分は彼よりも知っている。」という時、こころは何に対して「自分」と言っているのですか?「自分」よりも何か適切な主語はありますか?

自分が絶対的に正しい、自分は誰よりも優れていて人生は必ず成功するのだ。という傲慢な幻覚を破りたいとは思ってますが、なかなかうまくいかずどうしたらいいかアドバイスいただければと思います。

ありがとうございます。


2020年09月19日 (土) 12時52分 No.4907
- 小象
こんにちは。
とてもしっかりとご自身を分析されているなと思いました。

「概念が現れた時、感情や、貪瞋痴や、主観によって、概念を解釈する時、その解釈を何となく自分特有のもののような気がして、それに対して、「私」とかいう主語を当てはめて概念を文章にしているような気もします。」
と仰っていますが、これはその通りです。
どうして自分特有なのか、それは、
主観という言葉通りに、その解釈は自分が勝手に情報を捏造して作るものだからです。
概念は個人個人で違いますので、考え、解釈は自分特有になります。

ですから、ヴィッパサナー瞑想では、解釈をしてはいけない、と指導されますよね。

こころが「自分」と認識するのは、錯覚によります。
眼、耳、鼻、舌、身体、意に、感覚が生じます。
その感覚に実感がありますので、感じている誰かがここにいる、という錯覚を、脳は作ってしまうみたいなのです。

「自分」よりも適切な主語は、とのご質問ですが、
誰か自分の外に他者を設定して、その人は確固たる実体があってこれこれの価値である、と思っている時に、
相対的に「自分」「私」という言葉が生じてきてしまいます。
「自分は、邪魔をされて怒っている。」という文章は、世俗的にはまったく問題がない言葉ですが、
実際にこのときにヴィパッサナーで観てみたら、「怒り」とか「怒りが湧いている、怒っている」、
「邪魔だと感じている」などとなると思います。
このときに「感覚を観察しているもの」は、智慧、理性、などと呼ばれているものです。
そしてこの「怒り」など実況中継に使用する言葉は、自分特有ではなく、みなに共通の感覚です。

自分は誰よりも優れていて人生は必ず成功するのだ、なんて思えるのは、
なんだか羨ましいような気も致しますが、
たぶん佐藤さんは、ご自身の文章をご自身で分析してみたら、すごく理解が進むのでは、と考えています。
まず、「人生」とは、妄想概念です。
瞬間瞬間、こころがたくさん生じますよね。
ひとつの場面で、例えば怒りが湧く状況でも、生じるのは怒りだけではないはずです。
細かい、怒りではない他のこころも、たくさん生まれています。
その細かないろいろなこころが生じては消える連続が、人生という言葉になっています。
「成功」は、ある場面で、この状況下では巧みに振る舞えた、良い心で行為ができた、という限定されたものでしかありません。
ですから、誰もが、成功したり失敗したりしています。
「優れている」というのは、言い換えれば「巧みに、上手くものごとに当たれることが多い」となるでしょう。
智慧を育てていかれて、そうなっていくことは可能だと思いますよ。

スッタニパータにある偈をご紹介しますね。
「平静であって、常によく気をつけていて、世間において(他人を自分と)等しいとは思わない。
 また自分が勝れているとも思わないし、また劣っているとも思わない。
 かれには煩悩の燃え盛ることがない。」
お釈迦さまの教えの言葉を、戒めに唱えるのも、ひとつの案かと思います。

高慢や卑下慢など、誰にでもありますし、私にもあります。
きっと誰もが苦労する煩悩だと思います。
ますます精進され、この煩悩を手放すことができると良いですね。


2020年09月20日 (日) 13時49分 No.4908
「私」という錯覚を破る - まさみん
・ご参考までに、長老のご法話などを紹介させていただきます。
 「●」印は、一部の引用です。

(資料1)
 「わたし」の寿命が、瞬間で尽きるとしたら? 
  スマナサーラ長老の初期仏教法話
  https://www.youtube.com/watch?v=uHmQQlSzHlQ&feature=youtu.be

  ●「わたし」とは、生命の認識過程で起こる錯覚に過ぎないのだ
   から、これを発見しなさい…


(資料2)
 スッタニパータ 第五章「彼岸道品」第一巻 221ページ
 厄介な「私」という自覚

  ●感覚が物体を認識する過程で、「私がいる」という感じが生ま
   れるのです。

  https://www.amazon.co.jp/%E3%82%B9%E3%83%83%E3%82%BF%E3%83%8B%E3%83%91%E3%83%BC%E3%82%BF-%E7%AC%AC%E4%BA%94%E7%AB%A0%E3%80%8C%E5%BD%BC%E5%B2%B8%E9%81%93%E5%93%81%E3%80%8D-%E3%82%A2%E3%83%AB%E3%83%9C%E3%83%A0%E3%83%83%E3%83%AC%E3%83%BB%E3%82%B9%E3%83%9E%E3%83%8A%E3%82%B5%E3%83%BC%E3%83%A9/dp/4865641238


(資料3)
 自我の錯覚を破る「六処の世界」の観察

  ●生命には皆、「自分がいる」という自覚があります。それに思
   考・妄想を加えて処理すると、自我という錯覚が起こるのです。

  https://www.facebook.com/notes/japan-theravada-buddhist-association/jtba%E8%87%AA%E6%88%91%E3%81%AE%E9%8C%AF%E8%A6%9A%E3%82%92%E7%A0%B4%E3%82%8B%E5%85%AD%E5%87%A6%E3%81%AE%E4%B8%96%E7%95%8C%E3%81%AE%E8%A6%B3%E5%AF%9F/1185495248179009/


(資料4)
 すべての執着を打ち砕く ブッダのファイナル・アンサー 相応部
 蘊篇「辺経(SN 22-103)」を読む
 スマナサーラ長老のパーリ経典解説(06 Sep 2020 ゴータミー精舎
 からライブ配信)  
 https://www.youtube.com/watch?v=n2xezQ3kLsw

  ●五蘊に執着すると、自分・自我・実態という錯覚が現れて、悩
   み・苦しみの原因になります。


                             以上

三宝のご加護がありますように

生きとし生けるものが幸せで安穏でありますように
2020年09月20日 (日) 13時49分 No.4909
ご返信ありがとうございます - 佐藤 MAIL
小象様

とても懇切丁寧なご返信いただきありがとうございます。
なるほどそういう風に見ればいいのかと、とても参考になりました。

確かに、他者を認識するとき実体化しているように思えます。
他者に対して、自己を観察するように彼らの五蘊を観察したことはありませんでした。でも、彼らも私と同じような物質と感覚の塊と思えば、彼も私も錯覚なのだから、錯覚に怒ったり執着しても仕方がないと思えそうです。

主語とか誰がそれを感じてるかにあまりとらわれず、「感覚がある。」や「感情がある。」という気づきを絶やさないようにしていきたいです。
今日は、現れた感情などに対して、貪りがある。や、怒り、窮屈で小さな心。大きな心など、心所を当てはめるようにしてみたら、あまり感情に流されずに過ごせた気がしました。
それでも感情は強力ですね、本当に気を付けてないとすぐに飲み込まれてしまいます。
欲や怒りが現れるとき、とことん自己正当化しようと言い訳を山ほど作る感情って何なんだろうと思います。
呼吸するように当たり前に気づきが生まれるくらい念を習慣化させたいです。

確かにおっしゃる通り、人生とか成功とか、よく考えれば主観的な妄想概念ですね。
そもそも自我という錯覚を破ってしまえば、私にとっての人生という概念は消えてしまいますよね。成功というのも、人によって定義がマチマチだし、あまり意味のない言葉ですね。

今回、初めて仏教についての話し合いができて、とてもうれしく思っています。
なかなか仏教について理解があり、一緒に議論できる知り合いがおらず、分からないことはなんとなく自分で処理してきましたが、やはり皆様のご意見は新鮮で、新しい発見になり感謝しております。

修行にますます励みたいと思います。また慈悲の気持ちをしっかり育てて自分とか他人とかではなく生きとし生けるものがみな幸せになれますようにと思えるように精進していきます。

まさみん様

スマナサーラ長老の法話のご紹介いただきありがとうございます。
もう一度、きちんと拝見・拝聴させていただきます。

偶然、長老の著書に出会ってから、テーラワーダ仏教を知り、私の世界が変わりました。
日本でもっとテーラワーダ仏教が浸透するといいなと願っています。
いまの世界には、ブッダの説かれた真理を必要としている人々がたくさんいます。
みんな訳も分からず苦しんで、刹那的な快楽を求めて更に苦しむという悪循環に嵌められている人がたくさんいると思います。

サンガがますますこれからも日本にもっと根付くように応援していきたいと思っています。

2020年09月24日 (木) 18時01分 No.4910
「私」という錯覚を破る(2) - まさみん
・参考資料の追加です。
 「●」印は、一部の引用です。

(資料5)
 「わたし」とは何ですか?
  https://www.youtube.com/watch?v=w4B66zUzpTE&t

  ●「私がいる」という実感がある。この実感に「私」という主語
   を入れているだけなのです…

                             以上

三宝のご加護がありますように

生きとし生けるものが幸せで安穏でありますように
2020年09月24日 (木) 18時01分 No.4911
「私」という錯覚を破る(3) - まさみん
・参考資料の追加です。
 「●」印は、一部の引用です。

(資料6)
 無我の見方(サンガ新書): 「私」から自由になる生き方 Kindle版
 アルボムッレ・スマナサーラ (著) 形式: Kindle版

  ●「私がいる」ということを仏教的に説明すれば、様々な因縁に
   よって変化していく、自分、自己と表現できる流れがあるとい
   うことです。

https://www.amazon.co.jp/%E7%84%A1%E6%88%91%E3%81%AE%E8%A6%8B%E6%96%B9-%E3%82%B5%E3%83%B3%E3%82%AC%E6%96%B0%E6%9B%B8-%E3%80%8C%E7%A7%81%E3%80%8D%E3%81%8B%E3%82%89%E8%87%AA%E7%94%B1%E3%81%AB%E3%81%AA%E3%82%8B%E7%94%9F%E3%81%8D%E6%96%B9-%E3%82%A2%E3%83%AB%E3%83%9C%E3%83%A0%E3%83%83%E3%83%AC%E3%83%BB%E3%82%B9%E3%83%9E%E3%83%8A%E3%82%B5%E3%83%BC%E3%83%A9-ebook/dp/B017MHU1S4/ref=sr_1_1?__mk_ja_JP=%E3%82%AB%E3%82%BF%E3%82%AB%E3%83%8A&dchild=1&keywords=%E7%84%A1%E6%88%91%E3%81%AE%E8%A6%8B%E6%96%B9%28%E3%82%B5%E3%83%B3%E3%82%AC%E6%96%B0%E6%9B%B8%29&qid=1600770174&s=digital-text&sr=1-1


(資料7)
 ブッダとの対話ーサンユッタ・ニカーヤ(相応部)六処相応を読む
 アルボムッレ・スマナサーラ (著) 、2019年10月22日発行
 日本テーラワーダ仏教協会の施本です。
 自我の錯覚を破る「六処の世界」の観察が掲載されています。


(資料8)
 自灯明・法灯明と五蘊の教えー苦しみの正体を観察する
 アルボムッレ・スマナサーラ (著) 、2020年5月20日発行
 日本テーラワーダ仏教協会の施本です。
 「五蘊の観察」が紹介されています。


(資料9)
 佛紀2553年ウェーサーカ祭記念ビデオ
 『五蘊の観察――慧の修習』
 2019年5月12日に開催された日本テーラワーダ仏教協会の佛紀2553年
 「釈尊祝祭日ウェーサーカ祭」(なかのZERO小ホール)で上映され
 た記念ビデオです
 https://j-theravada.net/2553wesak-video/


(資料10)
 仏紀二五六〇年「ウェーサーカ祭」
 ~スマナサーラ長老の法話と冥想指導~
 頒布方法 直販 4,400円 [品番:V-259] DVDです
 2016年5月15日(日)に開催されたウェーサーカ祭(釈尊祝祭日)で
 のスマナサーラ長老のご法話と冥想指導を二枚組で全収録したもの
 です。
 「六処の世界」の観察をご指導されています。
 このときの文章を改訂したものが(資料3)(資料7)のようです
 のでご注意ください。
 https://j-theravada.net/disc/v-259/


                             以上

三宝のご加護がありますように

生きとし生けるものが幸せで安穏でありますように
2020年09月24日 (木) 18時01分 No.4914


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