ドストエフスキーの「情報・意見」交換ボード
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[660] 2024/06/19/(Wed)18:25:17
名前 Seigo
タイトル ドストエフスキーの小説の特徴(15)
本文  ※追記更新 24/06/20 17:42

登場人物が殺害に見舞われること。その殺害は日常において凶行される。


殺害が未遂に終わるのは『白痴』のムイシュキン公爵、『未成年』のヴェルシーロフとカテリーナ・アフマーコワぐらいで、『カラマーゾフの兄弟』『罪と罰』『悪霊』『白痴』をはじめ、作中では、当人は運命として受け入れていくかのような殺害とその屍(しかばね)の沈黙が進行する。

ムイシュキン公爵の場合にしても、黒澤明監督の映画『白痴』を観(み)て、嫉妬に狂うロゴージンに付きまとわれるムイシュキン公爵の怖れ戦(おのの)きが、ショーウインドウ越しにナイフが光るシーンから生々しく伝わってきて、こちらまで心震(こころふる)えてしまったのでした。


[黒澤明の映画『白痴』より。]

[659] 2024/06/16/(Sun)17:35:41
名前 Seigo
タイトル 希望を大事にしたこと
本文  ※追記更新 24/06/19 18:30

ドストエフスキーは、希望を持つことを大切にした人だった。


堪え忍べ、働け、祈れ、そしてつねに希望を持て。これがわたしが全人類に一度に吹き込もうと願っている真理なのです。
(『スチェパンチコヴォ村とその住人』より。)

希望を持たずに生きることは、死ぬことに等しい。
(書簡より。)


ドストエフスキーが劣悪・過酷だったシベリア流刑に耐えて帰還できたのは、今後も小説を書いて偉大な作家になるという志とともに、生き抜けば生還できるという希望を持ち続けたからだと思う。

そして、ドストエフスキーの希望のうち、特に大事なのは、聖書でキリストが人々や信仰者に語ったことに対する信仰上の希望だろう。ドストエフスキーはキリストを通して希望と心の安心を与えられたのだった。
     
[658] 2024/06/09/(Sun)14:26:47
名前 Seigo
タイトル ドストエフスキーの言葉(33)
本文  ※追記更新24/06/09 16:32

わたしにはいつも、最大の幸福とは、少なくともなぜ不幸なのかを知るということだと思われた。
(『作家の日記』より。)

ああ、もし私が将来幸福になり得るのであれば、今の悲しみや災難などは何でもありません。
(『白痴』より。)

私には、幸福とはどうも――人生に対する明るい見方と曇(くも)りのない心の中にあるものであって、外面的なものにあるのではないように思われます。
( 書簡より。)


上の最初の言葉は、以前から気になっていた言葉だが、ドストエフスキーの不幸や苦難などに対する態度や考えをよく示している言葉だと改めて思う。

ドストエフスキーは生涯、様々な不幸や苦難や悲しみに見舞われたが、決してくたばることなく、旧約聖書の「ヨブ記」の教えにも基づき、それらについて肯定的に深く考え、絶望したり狂ったりすることなく、意義や希望を抱いて、小説を書くという志を忘れず、耐え忍び、乗り越えていった。ドストエフスキーは、忍耐強くて、謙虚な人だったと思う。
    
[657] 2024/06/04/(Tue)20:24:08
名前 Seigo
タイトル ★Stop Putin & netanyahu Stop War (19)★、精神の罪深い熱狂ということ
本文 次のレヴィーツキイ氏の文章を、最近、あらためて注目しています。

ドストエフスキーの人間観によれば、人間は生まれながらに罪深いものだとはいえ、罪に圧(あっ)しつぶされてはいない。堕落し、反抗的な人間の本性を通して、人間のなかの神の姿が常に垣間見(かいまみ)えているのである。
ドストエフスキーは、世界のなかの悪の力を誰よりもよく知っていた。悪の根源は、たんに感覚的な誘惑やエゴイズムにあるのではなく、なによりも精神の罪深い熱狂にこそあるのだ、ということを彼は理解していた。宗教から切り離された道徳にたいし、彼は予言するかのようにこう警告する。
「当然うまくいくものと、ひとびとは考えている。しかし、キリストを拒否したなら、その結果、世界は血の海と変わるだろう。なぜなら、血は血を呼び、剣を抜いた者は剣のために滅びるからである。もしキリストの誓約がなかったら、地球上の人間は最後の二人になるまで、たがいに食いつくすことになるだろう。」

[『ロシア精神史』(レヴィーツキイ著・高野雅之訳、早稲田大学出版部1994年初版)の第7章「ドストエフスキー」より。]


『罪と罰』や『悪霊』の主人公たちの有り様(ありよう)を鋭く述べているとともに、
現在の Putin & netanyahu のことも、鋭く指摘していると思う。

「神」から離れた精神の罪深い熱狂が悪(あく)を引き起こしている、ということ。
    
[655] 2024/04/19/(Fri)19:13:32
名前 Seigo
タイトル 過去の投稿記事の再掲載、「事項・テーマ」一覧のこと (2)
本文 先々月の投稿で触れましたが、過去の一連の情報・意見の交換投稿記事を、過去の投稿記事(選)に、さらに、少しずつ再掲載しています。
また、当ボードの上部にリンクしてある「事項・テーマ」一覧も、さらに整理をすすめて、その投稿記事やページ内の記事へのリンクを増やしています。
今後も、再掲載や整理をさらに続けていく予定です。

古い投稿記事が中心ですが、読み返してみると、いろいろと刺激的であり、いろいろと感慨があります。
     
[654] 2024/04/07/(Sun)14:23:56
名前 Seigo
タイトル 解釈のこと
本文  ※追記更新24/04/07 21:07

ほのかさん、皆さん、来訪 & 投稿、どうも。

下でほのかさんが触れていることについて、あのニーチェが、

 事実というものは存在しない。存在す
 るのは解釈だけである。

と言っていますね。

ドストエフスキーとその文学・思想についても、各人の解釈があってよいのではないでしょうか。

自分が取り組んで捉えた解釈を通して、ドストエフスキーその文学・思想の大事な内容を示していくことは自他にとって意義がある思う。
      
 
    
[653] 2024/04/02/(Tue)11:33:05
名前 ほのか
タイトル ドストエフスキーを、自分流に解釈する😃
本文  ドストエフスキー氏を、自分流に解釈してますね。

 そして。それしか、出来ないから。

 世界に一つだけの、作家ドストエフスキー氏の自分流満足解釈ですね。
[652] 2024/03/31/(Sun)13:53:47
名前 Seigo
タイトル 『カラ兄弟』の続編のこと
本文  ※追記更新 24/03/31 17:52

ほのかさん、皆さん、来訪 & 投稿、どうも。

下で『カラ兄弟』の続編のことを挙げてくれていますが、当時の証言等で示された続編の具体的内容については、ドストエフスキーの一つの傾向からしてあり得る内容かもしれないが、やはり、違和感があって、受け入れがたい感じがありますし、後世の作家や文学者たちがその続編として創作した作品(高野史緒氏の『カラマーゾフの妹』など)は、ドストエフスキーの作風が失われているものとして、今一つだなという感じです。

自分としては、ドストエフスキーには、長生きしてもらって、アリョーシャ、ドミートリイ、イヴァンの更正・新生、活躍の物語を書き残して欲しかった!
   
 

 
   
[651] 2024/03/27/(Wed)10:55:05
名前 ほのか
タイトル スヴォーリンが来る。~『カラマーゾフの兄弟』に続く長編では、アリョーシ・カラマーゾフが革命家として登場すると言う。
本文 p458 ドストエフスキー全集 別巻 年譜 L・グロスマン

「スヴォーリンが来る。二月五日の冬宮爆破事件について話し合う。『カラマーゾフの兄弟』に続く長編では、アリョーシャ・カラマーゾフが革命家として登場すると言う。~ フョードル・ミハイロヴィチは、「この次に書く長編では、アリョーシャ・カラマーゾフが主人公だと言った。修道院を出てから革命家にしてみたい。アリョーシャは政治犯罪を犯して罰せられる。彼は正義を求める。そうこうするうちいつか革命家になってしまう。」
[650] 2024/03/26/(Tue)21:16:51
名前 ほのか
タイトル 『おかしな人間の夢』『おとなしい女』『キリストのヨルカに召された少年』
本文 [結論]おれはおかしな人間だ。やつらはおれをいま気ちがいだといっている。もしおれが依然とし旧ごとく、やつらにとっておかしな人間でなくなったとすれば、これは、位があがったというものだ。だが、もうおれは今さら怒らない、今となってみれば、おれはやつらがみんななつかしい。やつらがおれのことを嘲笑するときすらも、なぜか特別になつかしいくらいだ。おれは自分からやつらといっしょになって、笑ったかもしれない、ーーこれもおれ自身を笑うのではない、おれにとって、彼らを見ているのが、こんなに憂鬱でないなら、彼らを愛して笑うのだ。憂鬱なのは、やつらが真理を知らないのに、おれだけ真理を知っているからだ。おお、ただ一人真理を知るというのは、なんと苦しいことか! だが、やつらにはこんな事はわかりゃしない、とうていわかりっこない。


[Ⅰ]優しいエメラルド色の海に静かに岸を打って、ほとんど意識的と見えるばかり明瞭な愛情をもって、石や砂をを舐めている。高い見事な樹々は、鮮やかな緑の色を誇りかに聳え、無数の葉は静かな、愛想のよいささやきでおれを歓迎し、(おれを信じて疑わない)、あたかも、何か愛の言葉を語っているかのよう。若草は目もさめるような香ぐわしい花々に燃え立っている。小鳥どもは、群れをなして空を飛び交い、恐れげもなく、おれの肩や手にとまって、その愛らしいふるえおののく翼で、喜ばしげにおれを打つのだ。やがてそのうちに、おれはこの幸福な地球の人々を見つけ、それと気づいた。彼らはみずからおれのほうへやって来て、おれを取り囲み、おれに接吻するのであった。太陽の子、おのが太陽の子、ーーおお、なんと彼らの美しいことよ! おれはわれわれの地球上で、人間のこのような美しさを、かつて見たことがない、ただきわめて幼いわれわれの子供たちに、この美しさのおぼろな、弱々しいしい反映を見いだし得るのみである。これらの幸福な人々の目の中には、明らかな輝きが燃えていた。その顔は叡智と、すでに平穏に達するまでに満たされた意識に輝いていたけれども、しかし、それらの顔は愉しそうであった。彼らの言葉や声には、子供らしい歓びが響いていた。ああ、おれは彼らの顔を一目見るなり、たちまちなにもかもすべてを悟ってしまった! それはまだ堕罪にけがされない土地であって、そこに住んでいるのは、罪悪を知らない人々なのだ。人類の伝説によると、われわれの祖先が堕罪の前に住んでいたのと、同じような楽園に住む人人なのだ。ただ違うのは、ここでは到るところが、同じような楽園であるということだ。これらの人々は悦ばしげに笑いながら、ひしひしとおれのそばへ集まって来て、優しく愛撫するのであった。彼らはおれを自分たちのところへつれて行った。だれもが、おれの気をおちつかせたくてたまらなかったのだ。おお、彼らは、おれになに一つたずねようとしなかったが、どうやらなにもかも知っているらしい様子で、少しも早く、おれの顔から、苦痛の陰を追いのけたいふうであった。

4

ところでもう一度お断りしておくが、なにぶんこれはただの夢に過ぎないのである! しかし、これらの無垢な美しい人たちの愛の感触は、永久におれの内部に残って、おれは今でも、彼らの愛があちらから、おれにそそぎかけられているような気がする。おれは自分で彼らを見、彼らを認識し、確信したのだ、おれは彼らを愛し、後には彼らのために苦しんだのだ。おお、おれはすぐにその時でさえ悟ったのだが、多くの点について、おれは全然彼らを理解できそうもないと思った。現代のロシア人であり、ペテルブルグの進歩主義者であるおれにとっては、たとえば、彼らがあれだけ多くのことを知りながら、われわれの科学を有していないということが、不可解千番に思われた。けれど、おれは間もなく合点がいった。彼らの知識は、われわれの地球で行われてるのとは違った、直感によって補われ養われるし、また彼らの希求も同じく、ぜんぜん別なものであった。彼らはなにものも望まず、おちつきすましている。彼らはわれわれのように人生認識を追求しない。なぜなら、彼らの生活は飽満していたからである。しかし、彼らの知識はわれわれの科学よりも深く、かつ高遠であった。われわれの科学は、人生はなんぞやという疑問の説明を求めて、他人に生活を教えるために、みずから生を意識せんと努力しているが、彼らは科学の助けなくして、いかに生くべきかを知っていたのだ。おれはそれを合点したが、しかし彼らの知識を理解することはできなかった。彼らはおれに自分たちの樹をさし示したが、おれは彼らがそれを眺める愛情の程度を、理解することができなかった。彼らはあたかも、自分と同じ生きものと話すようなあんばいであった。それどころか、彼らは樹木と話をしたといっても、おれの考え違いではあるまい! そうだ、彼らは樹木の言葉を発見して、相手も自分の言葉を解してくれるものと信じきっていたのだ。自然全体に対しても、彼らはそれと同じ見方をしていた。ーー動物どもも彼らとともにむつまじく暮らして、決して彼らに襲いかかることなどなく、彼らの愛に征服されて、彼らを愛していた。彼らはおれに星をさしてみせ、それについてなにやら話したけれども、おれにはなんのことやらわからなかった。しかし、彼らは何かで空の星と接触を保っているのは、信じて疑わなかった。それは思想の仲立ちによるのではなく、何かもっと生きた方法なのだ。おお、これらの人々は、しいておれに理解してもらおうともせず、そんなことなど無視して、おれを愛してくれたが、おれは彼らが決してこちらを理解することがないのを知っていたので、われわれの地球の事はほとんど少しも話さなかった。ただ彼らの住んでいる土地を接吻して、無言のうちに彼ら自身を尊崇した。彼らはそれを見て、なすがままに恥ずるふうもなかった。おれが折ふし、涙ながらに、彼らの足を接吻するようなときでも、彼らはおれのために心を苦しめなどはしなかった。それはやがて力強い愛でおれに報いる時が来るのを、心に歓びを秘めながら承知していたからである。時として、俺は驚愕の念をいだきながら、自問したものだ、ーーどうして彼らはおれみたいな人間を、しじゅう侮辱せずにいられるのだろうか、どうしておれみたいな人間に、嫉妬や羨望の念を一度も起こせずにすむのだろうか? おれは幾度となく自問したものだ、ーー


[Ⅱ]どうしておれみたいな威張り屋のうそつきが、彼らの夢にも知らないような、自分の知識を自慢せずにいられたのか、たとい彼らに対する愛情のためだけにでも、彼らをびっくりさせずにいられたのか?
 彼らは子供のように快活で元気がよかった。彼らは自分たちの美しい森や林をさまよいながら、素晴らしい歌をうたっていた。彼らは自分たちの樹に生る木の実とか、自分たちの森で採れる蜂蜜とか、彼らを愛する動物の乳とか、すべて軽い食物を糧としていた。衣食のために働くのは、ほんのちょっと、わずかな間であった。彼らにも恋はあって、子供も生まれた。しかし、われわれの地球に住むいっさいの人間に巣くっていて、わが人類のほとんどすべての罪の源となっている残忍な情欲の発作などは、ついぞ見受けた事はなかった。彼らは新しく出生した子供たちを、自分たちの幸福に参加する新しい仲間として、歓びむかえた。彼らのあいだに争いもなければ、嫉妬騒ぎもなく、それがいったいどんなものであるかさえも知らなかった。彼らの子供はみんなのものであった。というのは、すべての人が一家族を形成していたからである。彼らの間には、ほとんど病気らしいものがなかった。もっとも死というものはあったが、老人たちは別れを惜しむ人々に取り囲まれて、彼らを祝福し、彼らに微笑を送り、また自らも彼らの微笑に送られながら、静かに死んでいくのだ。その際、おれは悲嘆や涙などを見受けたことがない。そこにはあたかも、法悦にまで増大した愛情があるのみ、しかもそれは、おちついた、充実した、瞑想的な法悦なのである。彼らは死後もなお死者と接触を保って、彼らの地上における結合は、死によって中絶されないのではあるまいか、とそう思われるほどであった。おれが永遠の生命ということを質問すると、彼はほとんどが合点のゆかない様子であったが、見たところ、彼は永遠の生命を無意識にかたく信じていて、そんなことは問題にならないようなふうだった。彼らには神殿というものはなかったけれど、宇宙の統率者との絶え間なき生きた連繋があって、それが何か日常欠くべからざるものとなっているのであった。彼らには信仰はなかったけれども、そのかわり確固たる知識があった。つまり、地上の喜びが自然の限界まで充満した時には、彼らのために生者死者を問わず、宇宙の統率者との連繁がさらに拡大されるということを、彼らは承知しているのであった。彼らはこの瞬間を喜びをもって待ち受けていたが、急いだり苦しんだりすることなく、いわばそれに対する予感を、心の中にいだいているようなふうで、それをお互い同士語り合うのだった。毎晩眠りにつくとき、彼らは声を揃えて、整然たる合唱を試みるのを好んだ。これらの歌の中に、彼らは暮れゆく一日が与えた感慨を残りなく伝えて、その一日を讃え、それに別れを告げるのであった。彼らは大地、海、森、すべて自然を讃えた。彼らはお互い同士について歌を作り合い、子供のように褒め合った。それは極めて単純な歌ではあったが、おのずと心の中から流れ出るので、よく人の心に染み入るのだ。また歌の中ばかりでなく、彼らはお互い同士に見とれることを一生の仕事にしているらしかった。それはなにか一般共通の相互恋愛、とでもいったようなものであった。彼らの歓喜に充ちたものものしい歌の中には、俺に全く理解のできないものがあった。言葉では通じているくせに、どうしても全体の意味をつかむことができないのだ。それは結局おれの頭脳におよびがたいものとして残ったが、おれの心はだんだん無意識にその意味を滲み通していった。おれはしばしば彼らに向かっていった、自分はがもうとうからこれを残らず予感していた、この喜悦と光栄はすでにわれわれの地球にいる時分から、時としてたえがたい憂悶に達するほどの、呼び招くような憧れとなって自分の心に響いていた、自分は、心の夢と叡智の空想の中で彼らすべてと、彼らの光栄を予感していた。自分は以前の地上にいる頃、涙なしに落日を眺められないことがしばしばあった・・・・・・あの地上に住む人々に対する自分の憎悪には、なぜつねに憂愁がこもっていたのか、どうして彼らを愛さずには憎むことができないのか、なぜ彼らを許さずにいられないのか、なぜ彼らにたいする愛には憂愁がこもっているのか? どうして彼らを憎まずには愛することができないのか? こんなことをいうおれの言葉に、彼らは耳を傾けていたが、おれのいうことを想像することもできないのは、ちゃんとおれの目に見えていた。しかし、おれは彼らにそういう話をしたのを悔みもしなかった。自分の見捨ててきた人々に対するおれの悩みの烈しさを、彼らがあますところなく理解してくれたのは、ちゃんとわかっていた。それに、彼らが愛情に貫かれたやさしい目つきでおれを眺め、おれもまた、彼らのまえでは、自分の心までが彼らの心と同じように穢れのない、正直なものになってゆくのを感じた時、おれは彼らを理解しないことを残念に思わなかった。生の充実感のために、おれは息がつまりそうになり、彼らのために無言の祈りを捧げたものである。


[Ⅲ]おお、いまこそ生きるのだ、あくまで生きるのだ! おれは、双手を挙げて、永遠の真理に呼びかけた。呼びかけたのではない、泣き出したのだ。狂喜の念、はかり知れぬ狂喜の念が、おれの全存在を搖りあげた。そうだ、生活だ、そして伝道だ! 伝道ということに、おれは即座に決心した。そしてもう、もちろん、生涯の仕事なのだ! おれは伝道に出かけるおれは伝道したいのだ、!ーー何をだって? 真理だ、なぜなら、おれはそれを見たのだもの、この目でちゃんと見たのだもの、真理の光栄を残りなく見たのだもの!


[FINAL]こうして、おれは現に、今日まで伝達している! のみならず、誰よりも一番、おれのことを冷笑した連中を、ことごとく愛している。なぜそうなのか知らない、説明ができない。がそれでいいのだ。彼らにいわせれば、おれは今でもしどろもどろのことをいってるそうだ。つまり、今からもうあんなにしどろもどろでは、さきざきどんなことになるのやら、というわけだ。正真正銘、そのとおりである。おれはしどろもどろのことをいっていて、さきざきもっとひどくなるかもしれない。もちろん、伝道のこつを、つまりいかなる言葉、いかなる行為で伝道するかを発見するまでには、幾度もしどろもどろをきわめるだろう、なにぶん、これはとても実行の困難なことなのだから。おれにとっては、それは今でも火を見るより明らかなのだが、しかし、聴いてもらいたい。まったくだれだって、少しもまごつかない者なんかありゃしない! けれど、すべての人間は、同じものを目ざして進んでいるのではないか。少なくとも、すべての人間が、賢者から、しがない盗人風情にいたるまで、道こそ違え、同じものを目指して行こうとしているのだ。これは月並みな真理ではあるが、この中に新しいところがある。というのはほかでもない、おれはあまりひどくはしどろもどろになり得ない。なぜなら、おれは真理を見たからだ。おれは見た。だから、知っているが、人間は地上に住む能力を失うことなしに、美しく幸福なものとなり得るのだ。悪が人間の状態であるなんて、おれはそんなことはいやだ、そんなことはほんとうにしない。ところで、彼らはみんな、ただおれのこうした信仰を笑うのだ。しかし、どうしてこれが信ぜずにいられよう、おれは真理を見たのだもの、ーー頭で考え出したものやなんかと違って、おれは見たのだ、しかと見たのだ。そして、その生ける形象(かたち)が永遠におれの魂を充たしたのだ。おれはそれをあまりにも充実した完全さで見たものだから、そういうことが人間にあり得ないとは、信じられないのである。さあ、としてみれば、どうしておれのいうことがしどろもどろなのだ? もちろん、横道にそれることはあるだろう、しかも幾度もあるかもしれない、ひょっとしたら、借り物の言葉でしゃべるかもわからない。が、それも長いことではない。おれの見た生ける形象かたちは常におれとともにあって、たえずおれを匡ただし、指向してくれるだろう。なに、おれは元気だ、おれは生き生きしている。だからあくまで進む、よしんば千年だって進む。実のところ、おれは初め、彼らを堕落させたことを隠そうかとさえ思ったけれど、それはおれの誤りだった、ーーこれがそもそも第一の誤りだったのだ! しかし、真理が、お前はうそをついているぞとささやいて、おれを守護し、正道に立ち帰らせてくれた。

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『おかしな人間の夢』を、何度でも読んで。
『キリストのヨルカに召された少年』を、時々読み、
『おとなしい女』を、たまに読む

   そういう風にしましょうか😃

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