ドストエフスキーの「情報・意見」交換ボード
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[705] 2024/12/14/(Sat)10:11:30
名前 Seigo
タイトル ドストエフスキーの小説の題名をパロる! (10)
本文     
  『ポールでズッこける夫人』
     ←『ポルズンコフ
    (シベリア流刑になる前年の48年2月
     に「祖国雑誌」に発表された短編。
     社交界で道化を演じているポルズン
     コフが上司との間の過去の失敗談を
     語る話。)

日常生活や家庭で失敗やミスばかりしていて、そのたびに後退(あとずさ)りして、工事現場に立ててあったポールや転がっていたゴルフボールに触(ふ)れてはズッこけてばかりいるヘマでドジな夫人の物語。なお、彼女は曲「So Bad」を歌うポール・マッカトニーや曲「ズンドコ節」を歌う氷川きよしの大ファンでもあった。
    
[704] 2024/12/11/(Wed)18:44:55
名前 Seigo
タイトル ドストエフスキーの小説の特徴 (16) ― 寄り添う人物を配していること
本文   ※追記更新 24/12/15 18:00

ドスト氏の小説の特徴として、主人公や登場人物に、友人や看護婦のように寄り添う女性・男性がしばしば配(はい)されているということが言えると思う。

『罪と罰』では、
・ラスコーリニコフに好人物のラズミーヒン
・ラスコーリニコフにソーニャ
『白痴』では、
・ムイシュキン公爵とラゴージン
・ナスターシャ‐フィリポヴナにムイシュキン公爵
『悪霊』では、
・キリーロフとシャートフ
・スタヴローギンにダーシャ
・リーザにいつも付き添っている婚約者マヴリーキー
・ステパン氏にワルワーラ夫人
・ステパン氏にソフィア・マトヴェーエヴナ(侍女)
・シャートフとマリー(元妻)
『未成年』では、
・アルカージーと妹のリーザ
・アルカージーにワーシン
・ヴェルシーロフにソーフィア
『カラマーゾフの兄弟』では、
・アリョーシャにラキーチン
・アリョーシャにリーズ
・ドミートリイにグルーシェンカ
・イヴァンにカチェリーナ
・スメルジャコフにマリヤ
『貧しき人びと』では、
・マカール・ジェーヴシキンと少女ワーレンカ
『虐げられた人びと』では、
・ナターシャにイワン(語り手の私)
『百姓マレイ』では、
・9歳の私に農夫マレイ
『白夜』では、
・ナースチェンカに私
『死の家の記録』では、
監獄の敷地内の野良犬に私(ゴリャンチコフ)

といった具合だ。

ドスト氏は、登場人物に寄り添う友人や男性・女性を設けることで、小説に感興を添えるに終わらず、その登場人物の救い・信頼・慰労の道の可能性を示そうとしたのだと思う。
人には寄り添って看護し慰めてくれる人がいることが大切だというドスト氏の人間観や優しさも現れていると言えるだろう。
 
  
   [リーザにいつも付き従っているマヴリーキー。
    ロシアのテレビドラマ「悪霊」より。]


ドストエフスキーの小説の特徴(1~15)
           
[703] 2024/12/09/(Mon)17:32:19
名前 Seigo
タイトル ドストエフスキーの小説の題名をパロる! (9)
本文      
  『掃除機で遊ぼうとするな』
     ←『正直な泥棒
    (シベリア流刑になる前年の48年4月に
    「祖国雑誌」に発表された短編小説。
     恩人に対して盗みをしたことを亡く
     なる時に正直に述べたという話。)

長くで広い廊下を掃除するに掃除機とフローリングモップで遊び過ぎてツルツルにしてしまい、浮かれて調子に乗って途中でうっかり思いっきり滑(すべ)って半回転してしまって、頭の打ちどころが悪くて、過去の記憶も喪失してしまい、以前細君のへそくりの一部をこっそり盗んだことがあったことを最期に細君に謝罪できずにその日に亡くなってしまった男の話。
   
[702] 2024/12/07/(Sat)08:55:44
名前 Seigo
タイトル ドストエフスキーの小説の題名をパロる! (8)
本文      
  『まごついた白菜の老婆』
     ←『百歳の老婆
    (76年3月の「作家の日記」に掲載され
     た短編小説。たどりついた孫の家で
     104歳の老婆が突然死してしまう話。)

白菜が大好物の白髪の一人住まいの老婆が、噂の白菜を求めて遠出を敢行するが、帰り道で、買い占めた白菜を抱えて、もてあまし、迷子になって、まごついてしまい、哀れにも客死(かくし)してしまうという話。

 白菜の/かがやく量を/もてあます
  〔文挟 夫佐恵(ふばさみふさえ。百歳で
    病没の女性俳人)の句〕


    
[701] 2024/12/04/(Wed)18:04:24
名前 Seigo
タイトル ドストエフスキーの言葉(34) ― 意識し考え過ぎることの弊害とその克服の道のこと
本文   ※追記更新 24/12/04 18:50

賢い人間が本気で何者かになることなどできはしない。何かになれるのは馬鹿だけだ。
(『地下室の手記』より。)

あまりに意識しすぎるのは、病気である。正真正銘の完全な病気である。人間、日常の生活のためには、世人一般のありふれた意識だけでも、充分すぎるくらいなのだ。
(『地下室の手記』より。)


上の言葉は、『地下室の手記』で述べようとした人間の有りようについてのドスト氏の思いや考えの基調をよく示している言葉だと思う。

つまり、自分のことについてあまりにあれやこれやと意識し考え過ぎることは、既存の自己のことの否定排除や分裂や行動の停滞をもたらし、その調子でそのあとに新たな自己を作り上げていくことや行動ができずにいると、自分の有りようや性格や行動の傾向・一貫性を減じてしまうことになる。

一方、意識し考えることをしなければ、人は、既成のその堅固な習慣と行動基準にしたがって、日々、考えや行動が馬鹿なものであったり誤っていたりしていても、迷うこと疑うことなくストレートに生きていく。

ドスト氏は人のこの二方向性について生涯思いを巡らした。前者が大切だとしながらも前者がうまくいかないこと(何かになっていけないこと)にずっとこだわり、後者の人を馬鹿だと言いながらも、後者の有りように一種の憧れを持ち続けた。

『カラ兄弟』において直情径行の行動の青年・ドミートリイを登場させたのは、後者の人の有りようについての良い意味での積極的な思いがもとになっているように思う。
また、自己の分裂化・霧散化といった前者の問題は、小林秀雄氏やアンドレ・ジイド氏などが洞察し指摘したように、神・キリストへの信仰、そして、文学の創作に打ちこむという次元を導入することで、解決・解消に向かっていったと言えるのかもしれない。[ ]
   
[700] 2024/12/02/(Mon)17:41:04
名前 Seigo
タイトル ドストエフスキーの小説の題名をパロる! (7)
本文   ※追記更新 24/12/03 07:32


  『千こく』
    ←『宣告』
    ( 76年10月の「作家の日記」に掲載さ
     れた小品。ある男が自殺の前に意識
     することによる苦痛と虚無感を人間
     に与えた「自然」を糺弾した独白体
     の作品。)

キリの無い独白の作品は勘弁願いたい、全体で1000文字の作品にしてくれと雑誌編集部に頼まれて、きっちり千文字にして、ある男が意識というものを人間に与えた「自然」に対する感謝をこいた小品。せんでもいい毒を吐(は)くことや自殺の念のない独白の佳品になっている。
(語注:・こく=述べる。)



ドストエフスキーの小説の題名をパロる!(1~6)

   
 
   
小品『宣告』を今回、米川正夫訳の上の『ドストエフスキイ後期短篇集』であらためて読んでみた。文庫本でほんの6ページの小品。『白痴』での青年イポリートの告白の二番煎じのような文章だが、ドスト氏が、人間に意識が与えられていることをめぐる問題、意識することは病気であるというテーマ、私たちのこの世界の意味のことにずっとこだわっていたことが窺(うかが)われる。
   
     
[699] 2024/11/30/(Sat)11:59:59
名前 Seigo
タイトル 円熟していった謙虚で前向きな人 ― ドストエフスキーのこと(7)
本文 ドストエフスキーは矛盾の中にじっと坐(すわ)って円熟していった人であり、トルストイは合理的と信ずる道を果てまで歩かねば気が済まなかった人だ。
[小林秀雄(文芸評論家)

本当に重要な人間で、多くの苦難を受けずに生きた人はかつてなかった。
[カール・ヒルティ(スイスの法学者・思想家)]

わたしにはいつも、最大の幸福とは、少なくともなぜ不幸なのかを知るということだと思われた。
(ドストエフスキー「作家の日記」より。)

しかし、なんといっても、この分裂は大きな苦しみです。尊敬してやまぬ愛すべきカチェリーナ‐フョードロヴナ、貴女はキリストとその聖約をお信じになりますか? もし信じておいでになれば(それとも、信じようと熱望しておられれば)、心からキリストに帰依しなさい。そうすれば、この分裂の苦しみもずっと柔(やわ)らいで、精神的に救いが得られます。しかも、これが肝要なことなのです。
[ドストエフスキーの書簡(カチェリーナ‐フョードロヴナへの書簡)より。]

不幸なのは心のよこしまな人間ばかりです。私には、幸福とはどうも――人生に対する明るい見方と曇(くも)りのない心の中にあるものであって、外面的なものにあるのではないように思われます。
[ストエフスキーの書簡より。) 


上の言葉に窺(うかが)われる通り、ドストエフスキーは、いろいろと欠点や短所やよくない点はありながらも、いくたの苦難や試煉や苦痛や悲しみを受け、信仰を得ていくなかで、謙虚になり、賢明になり、物の見方や人格や心の平安を磨き深めていった人だったと思う。

さらにもっと、ドストエフスキーのことを知りたいし、ドストエフスキーの色々な教えに接していきたい。
   

    
[698] 2024/11/27/(Wed)17:39:07
名前 Seigo
タイトル ドストエフスキーの評伝のおすすめのぶん
本文 ドストエフスキーの評伝のうち、

・K・モチューリスキー『評伝ドストエフスキー』
(1947年刊・1980年再版。松下裕・松下恭子訳、筑摩書房2000年初版。)

は、各時期の作品論も含めた浩瀚(こうかん)の詳細な評伝。


・レオニード・グロスマン『ドストエフスキー』
(1963年刊・1965年改訂版刊。北垣信行訳、筑摩書房1978年初版。)

は、本国の定評ある評伝。


・アンリ・トロワイヤ『ドストエフスキー伝』
(村上香住子訳。中央公論文庫1988年初版。)

は、生涯のことを活写した名評伝。


ほかに、よくまとめている良書の評伝として、

・小沼文彦『ドストエフスキー』
(日本基督教出版1977年初版。)

・ヴィリジル・タナズ『ドストエフスキー』
(神田順子・ベリャコワ-エレーナ訳。祥伝社新書2014年初版。)

も、おすすめ。


他の評伝では載っていない、取り上げていない事跡を記した評伝もほかにいろいろとあり、今後、目を通してみたい。


     
[697] 2024/11/25/(Mon)17:33:41
名前 Seigo
タイトル 習慣のこと ― ドストエフスキーから得た考えや教え(8)
本文 「大尉、僕の見たところでは、君はこの四年間少しも変わらないね。」
前よりいくぶん優しい調子で、ニコライはこう言い出した。
「ふつう人間の後半生は、ただ前半生に蓄積した習慣のみで成り立つと言うが、どうやら本当のことらしいね。」
「なんという高遠な言葉でしょう!あなたは人生の謎をお解きになりましたよ!」
なかば悪くふざけながら、なかばわざとならぬ感激に打たれて(彼はこうした警句が大好物だったので)大尉は叫んだ。

(『悪霊』より。)
まったく、習慣てやつは、人間をどんなふうにもしてしまうものなのだ。
(『地下室の手記』より。)
習慣というものは実に根強いものです。
(「作家の日記」より。)
人はとかく慣れやすいものだ。国家的、政治的関係でもそうだ。習慣がおもなる原動力なんだ。
(『カラマーゾフの兄弟』のコーリャの言葉より。)


人間観察の大家(たいか)だったドスト氏は、上で言っている通り、国家や社会も含めて、人間の生活や人生においては、「習慣」が少なからぬ大事なポイントになることを見抜き、「習慣」の影響や力のことをしばしば指摘した。

ドスト氏の指摘にならい、自分の習慣をチェックして、よくない習慣はあらため、良き習慣を形成していきたいものだ。


     
    
[696] 2024/11/23/(Sat)11:46:15
名前 Seigo
タイトル ドストエフスキーと読書
本文   ※追記更新24/11/23 19:05

ドスト氏は、

 本を読むことを止(や)めることは、思索
 することを止(や)めることである。

と言っていて、思索を絶やさずに続けるために読書をしていた。

盟友のストラーホフは一つの言葉やちょっとした暗示だけであらゆる思想を把握してしまうドスト氏の頭の回転の速さや理解力に大層驚いたそうだが、ドスト氏は読書を通しても思索や思想を鍛え上げ深めていったと言える。

学生時代から、ドスト氏は読書を好み、バルザックの小説をはじめ、内外の小説を中心に読破している。

シベリア流刑時代は本を広く読むことは禁じられたが(聖書は読み続けた)、流刑を終えてからは、カントやヘーゲルをはじめ、思想書や科学書も取り寄せて、貪り読んだ。

ドスト氏の娘エーメの回想記によれば、晩年は、お茶の時間の晩の9時から深夜の仕事に取り掛かるまで読書を行う習慣があった。

読書は、ドスト氏にいろいろな成果をもたらしたに違いない。


   
   
   




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