[678] 2024/09/22/(Sun)21:18:43
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名前 |
Seigo
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タイトル |
★梅原氏のドストエフスキー論 ― 神無しとなった社会や国家の行く末のこと★、★Stop Putin&netanyahu Stop War (20)★ |
本文 |
※追記更新 24/09/25 07:25
・神無しの人の生活のこと ・神無しとなった人間や社会や国家の営為への危惧
といったドストエフスキーが打ち出した特異なテーマについて、哲学者・評論家の梅原猛(1925~2019)の次の文章は、上のことを梅原氏がよく理解していたことを示すものとして、大いに共鳴・感心してしまう。
神とは何であるか、人間は神なしに生きられるかどうか。そのような問いが、ドストエーフスキイの中心的な問いであり、すべての人物は、そういう問いを問うための、舞台道具にすぎないのである。もっとも(=とは言っても)、すぐれた小説家ドストエーフスキイは登場人物を、けっして思想のあやつり人物にせず、強い個性と、その内面に矛盾をもった実に生き生きとした人物にせしめてはいるが。私は、彼の小説を読むと、彼の問いは、まだ、答えが出されていないと思う。ドストエーフスキイは、神がないという命題と、神があるという命題の谷間に立っていると思う。彼は、おそらく、存在として、神はないという立場にあるのである。イヴァンは存在としての彼の分身にちがいない。彼自身神を失った文明の中にあった。その文明の恐ろしい帰結を考えつめた人であった。しかし、彼はこの文明の恐ろしい帰結を、知っていればいるほど、彼は、もう一つの命題「神はある」という命題に賭(か)けねばならなかった。私は、アリョーシャは、彼の当為(=あるべき姿)、あるいは、願望であると思う。アリョーシャの立場に立たねば人類は救われないと彼は、思ったにちがいない。小児(しょうに)の如き天使の心が必要なのだと彼は思うが、現実の彼は、天使より、はるかに悪魔であったにちがいない。彼自身の内面にひそむ、天使と悪魔の深い葛藤(かっとう)を通じて、ドストエーフスキイは「神ありや否(いな)や」という問いを問う。一見、この「神ありや否や」という問いは無用な問いのように見える。日本人は、特に戦後の日本人は、合理的な啓蒙主義を信じて、このような宗教的な問いを無用な問いとしてきた。しかし、この問いこそは、おそらく、今後の人間にとってもっとも根源的な問いなのである。なぜなら、神を否定して、人間自身を神の立場にたたすことによって始まった人間の世界計画は、今はっきり、破綻(はたん)の相(そう)を見せはじめたからである。人間は神を殺して、それ自身、神になることはできない。神を殺した人間の罪障のために、人間は、いかなる罰をこうむるや否(いな)や? こういう歴史的状況の前に、ドストエーフスキイは、もっとも現代的な作家としてわれわれの前にあるのである。 (梅原猛・1971年筆「神の問題」より。) [『文芸読本ドストエーフスキー(Ⅱ)』(河出書房新社1978年初版)に所収。]
ロシアのプーチン政権及びイスラエルのネタニヤフ政権の軍事行動がいまだ継続している。上のドストエフスキーの思想から言えば、彼らは、神へのおそれや自己抑制がなく、モラルや平和への意志を失っているのであり、自己の都合や考えをその強権で絶対化・正当化して、始末に負えない暴挙を続けている。 「神」が現れることのほかには、解決の道はないのだろうか?
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