ドストエフスキーの「情報・意見」交換ボード
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[622] 2024/01/30/(Tue)09:01:19
名前 ほのか
タイトル 苦悩と悲哀2 ⇄ 《苦悩》に意味がある。
本文 哀しみは、第三者的。周囲が感じる事。自身が立ち入れない外部的環境を表す。
一方、苦痛は本人、自分自身が感じる事。

    ↕︎

【すべての偉大なる幸福は、ある苦痛をふくむものである】
[621] 2024/01/30/(Tue)02:24:38
名前 ほのか
タイトル なんとなく、答え⁉️
本文 2023/01/03 の、答えになってますよね⁉️

T〜Vの記述は。seigoさんへ。このアンサーを、考えてたわけではありませんが。
[620] 2024/01/29/(Mon)16:43:32
名前 ほのか
タイトル 苦悩 と 悲哀
本文 『消えることのない偉大な負債の感じを、いだかずにいるはずはないではないか。すべての偉大なる幸福は、ある苦痛をふくむものである。それは、われわれの内部により高き意識を呼びさますからである。悲哀というものは、偉大なる幸福が与えるほどの明瞭なる意識を、われわれの心内に呼びさますことがまれである。偉大なる、すなわち崇高なる幸福は、魂を義務づけるものである(くり返していうが、人間の善良さと彼ら相互の愛を信じるに、上越す幸福はない)』⇄ 米川正夫 訳


   ↕︎

『自分は死ぬまで消えることのない大きな借りができたのだという感じを、その心の中にいだかずにいられるはずはないではないか。偉大な幸福はどんなものでも、その中にある種の苦しみを含んでいる。それがわれわれの心の中に崇高な意識を呼びさますからである。それに比べれば悲哀がわれわれの心の中に、偉大な幸福が与えてくれるほどの意識の明晰さを呼びさますことはめったにない。偉大なる、つまり崇高な幸福は魂に義務を負わせる。(繰り返していうが、人間の善意と人間同士の愛を信じることにまさる幸福はないのである。)』 ⇄ 小沼丈彦 訳
[619] 2024/01/29/(Mon)09:57:32
名前 ほのか
タイトル 修正しながら途中でUP『作家の日記 U』を、読まないと、作家ドストエフスキー氏の真の《やさしさ》は、わからないよ😁
本文 いよいよ U の、部分転記です。
  BUT、Tと、被りますね。少し。
Uは、作家ドストエフスキー氏の、人間のやさしさと、悪意を持った人間もいるので、注意喚起の文章ですね。悪意に文章を理解した人にも、作家ドストエフスキー氏は。自分の書き方が悪かった‼️と、謝罪する心のやさしさがあります。

 p378
 「さて、そこできみ自身に決定を乞うが、もし二人の結婚を破壊して、彼女が疑いもなく愛してきたし、またげんに愛している夫から犯人を引きはなし、ーー彼女にとって疑いもなき家庭をなしている夫から引きはなして、二十歳そこそこの若い身空で、嬰児をかかえて、なんのたよりもない孤独な彼女を、シベリヤへ流刑にして、淫蕩と汚辱に沈めたら(シベリヤではこの堕落はしょせんまぬがれ得ないのだ〕、ーー 一個の生命の破滅と腐敗に、そもそもいかなる意味があるのか、返答が伺いたい。この生命は今や厳しい浄化と改悛を経て、更生した心をいだきながら復活し、真理に帰ったように見受けられるのだ。人間の頭からいきなり首を引きちぎってしまうよりも、これを矯正し、発見し、復活させたほうがよくはあるまいか。法の文字によって首を斬るのは容易であるが、真理によって、人間的に、父親らしい態度で是非を弁別するのは、常に困難なわざである。最後に、若い二十歳の母親とともに、いいかえれば、まぎれもなく将来貧困と淫蕩の犠牲となるべき無経験な女性とともに、その幼な児も流刑に処せられんとしていたことは、きみも知らなかったとはいえまい・・・・・・が、ここで一般に幼な児について、とくに一言をすることを許してもらいたい。


    6 わたしははたして幼き者の敵であるか?  「幸福な」という言葉は時として何を意味するかについて


 傍観者氏よ、きみの論文全部は、「幼児虐待の弁護に対する」プロテストである。きみが幼児の味方をしていることは、もちろん、きみの名誉となるに相違ないけれども、わたしにたいするきみの態度はあまりに倨倣である。



「この女の身になって、妊娠のアフェクトの否応ない力を明らかにするためには、周知のごとく、われわれ一同の中でドストエーフスキイ氏の最も得意とする、かの強烈な想像力を有していなければならない
・・・・・・(ときみはわたしのことをいっている)。しかしドストエーフスキイ氏はあまりに敏感であり、そのうえ『病的な意志の発現』に対して弱みを持っている。これは『悪霊』『白痴』等の作者としては無理ならぬである。余はこの事件をもっと簡単に見ているので、かかる小児虐待が無罪となるごとに実例が現われた後には、イギリスと同じでロシヤにもきわめて多いこの小児虐待は、もはや法の威嚇の匂いすら感じないことになる、と断定するものである」云々。




 第一に、わたしの「病的な意志の発現に対する弱み」については、ただ次のようにいっておこう。わたしはなるほど、時として自分の長編や中編の中で、みずから健全と信じている人々を 抉して、彼らが病人であることを証明することに成功したことはもある。きみは知っていられるかどうか、ーーきわめて多くの人々は、ほかならぬ自分の健康のゆえに病気なのである。すなわち、おのれのノーマルなことを法外に確信しきって、そのため恐ろしいうぬぼれと、良心をを失うほどの自己耽溺に感染し、どうかすると、自分を絶対神聖と思い込むまでに立ちいたるものである。まあ、つまり、こういったような人物を、わたしはしばしば読者にさし示したのみならず、進んでこれらの頑丈物が、決して自分の思っいるほど健康でないどころか、むしろ大いに病気であるから、治療を受けなければならぬということを、証明して見せたのである。そこで、わたしはこの点になに一つ悪いことはないつもりなのだが、傍観者氏はわたしに対してあまりに残酷である。というのは、「小児虐待の弁護」という彼の句は、直接わたしに向けられているからである。ただ彼はほんの「ちょっぴり」「彼としては無理からぬ次第である」という言葉でそれを和らげている。彼の論文ぜんたいは、わたしの健全なる判断力は「病的な意志の発現」に対する偏好によって歪曲されているため、虐げられている犠牲よりも、ーー打たれ、辱しめられ、ついには殺されんとしたか弱いみじめな少女よりも、むしろその子の迫害者である野獣のような人殺しの継母を憐れまんとするきらいがある、ということを証明するために、書かれたものである。これはわたしにとって侮辱である。わたしの病的傾向に対立させるために、傍観者氏はいきなり性急に、しかも露骨に、自分を押し出して、自分の健康さをひけらかしている。いわく、「余は事件をもっと単純に(つまりドストエーフスキイ氏よりも)見ているので、かかる小児虐待を弁護するごとき実例が現われたうえは、断言する、云々、云々』こうして、わたしは幼児虐待を弁護するということになった、ーー恐ろしい非難ではある! こうなったら、わたしにも自己弁明をさせてもらいたい。この問題を解決するために、わたしは三十年にわたる以前の文学活動を指示することはしまい。わたしが子供の大敵であり、幼児虐待の愛好者であるかどうかについては、わたしは最近二年間の労作、すなわち『作家の日記』の刊行のみを想起していただくことにする。クロネベルグの事件がおこったとき、わたしは「病的な意志の発現」に対する偏好にもかかわらず、虐待者ではなく、不幸な犠牲である子供のために、弁護するまわり合わせになった。してみると、傍観者氏よ、わたしも時おり、健康なる判断力に味方するわけである。傍観者氏よ、なぜきみも同様にあの時、子供の味方として登場されなかったかと、いまわたしは残念に思うものである。たしかにきみは、熱烈このうえない論文を書かれたことだろう。しかし、わたしはどうしたものか、子供の味方となった熱烈な論文を、一つも記憶していないのである。してみると、あのとききみは、弁護の労をとろうとは、考えなかったわけになる。それから、つい近頃、今年の夏のことであるが、同じく両親の家で虐待の憂き目にあった、ジェンコーフスキイの幼い子供の弁護をするはめになった。このジェンコーフスキイ事件についても、きみは何も書かなかった。もっとも、だれも書いたものはない。無理からぬ話で、みんな重大な政治問題に忙殺されていたのである。最後に、わたしはこの二年間に『日記』の中で、子供のこと、その教育のこと、わが国の家庭における彼らのみじめな運命、感化院に入れられた少年囚人、などについて語ったことも、一度や二度でなく、数回あったのを指示してもよいのである。一度などは、キリストの降誕祭遊びに招かれた一人少年について物語ったことすらある。もちろん、架空の出来事ではあるが、それでもわたしが子供に対して無感覚でも、無関心でもないことを、端的に証明するものである。

 傍観者氏よ、わたしはきみに次のことをいおう。初めてコルニーロヴァの犯罪と、彼女に対する仮借なき判決を新聞で読んだとき、わたしは思わず、もしかしたら犯人は、一見して感じられるほどの罪ではないのではないか、という想像の心を打たれたのである。(傍観者氏に留意を乞うが、「継母の折檻」については、当時も新聞の裁判記事に少しも書かれていなかったし、その点に関する求刑論は、当時でさえもすでに支持者を有していなかったのである)。その時、わたしはコルニーロヴァのために何か書こうと決心したが、そのおり自分の決心したことがなんであるかは、あまりにもよく諒解していた。わたしはいまこのことをきみにまっすぐに告白する。わたしは自分の書く文章が、世の同情を買うものでないことを、はっきり承知していたのである。なにしろ、わたしは虐待者を弁護しようとしているばかりか、向こうへまわすのはだれであろう、幼い子供ではないか。わたしは、ある人々が無感覚、うぬぼれ、いやそれどころか、「病的」ということでわたしを非難するのを予測していた。子供を殺そうとした継母を弁護する! というわけである。わたしはある種の審判者、ーーたとえば、傍観者氏よ、きみのごとき人々から、「直線的な」非難を受けるだろうということを、あまりにもはっきり予感していたのだ。それゆえ、しばらくのあいだは躊躇したのであるが、結局は、思いきって断行することになった。「もし自分がこれは真実であると信じたら、人気ほしさのために虚偽に奉仕すべきであろうか?」これがわたしの最後の結論であった。その他、自分の読者に対する信頼の念もわたしを励ましてくれた。「読者は結局は、ちゃんとわかってくれるだろう」とわたしは考えた。「わたしが幼児虐待を弁護士しようとしている、などといってわたしを責める訳にはゆかない。よしんばわたしが殺人犯の味方をして、犯罪遂行のとき病的なモノ狂わしい状態になっていたのではないか、という疑念を提出したからといって、なにもわたしが犯罪そのものを弁護することにもならないし、また幼い子供が打たれ、殺されようとしたのを、喜んでいるということになりはしない。それどころか、わたしはほかのだれにも負けないほど、その子供を心底から憐れんでいたのかもしれない、それを読者はわかってくれるだろう・・・・・・」
 傍観者氏よ、きみは被告ブルニーロヴァーの放免について、わたしが書いた文章の中にある一節をつかまえて、毒々しい嘲笑をわたしに投げかけた。

 


  「『放免された婦人の夫は』とドストエーフスキイ氏は先日出た『日記』の中で書いている(ときみはいう)。『その晩、もう十時を過ぎた頃、彼女を自宅につれて帰った。彼女はさも幸福げに、ふたたびわが家に入ったのである』なんという感動的なことだ(ときみはつけ加える)・・・・・・しかし、その子こそ不幸である云云、云云」




 わたしは、こんなばかげたことを書くはずがないと思う。いかにも、きみは正確にわたしの文章を引用してはいるが、しかしまあ、なんということをしたものだ。きみはわたしの文章をまっ二つに切って、なんにもなかった所に句点を打ったのだ。そこで、きみの望みどおりの意味が出て来たのである。わたしはその場所に句点など打たず、文章をつづけたのだ。その後にはまだ後半があるのだ。きみに切り棄てられたこの文章の後半を繋ぎあわすと、全体の文章はそんなに無意味な、「感動的」なものではなくなると思う。次にかかげるのが、省略しない完全なわたしの文章である。




 「身の明りを立てられた被告の夫は、もう十時を過ぎていたにもかかわらず、その夜すぐさま彼女をわが家へ伴って帰った。幸福な彼女は、生涯消えやらぬ偉大な教訓を得て、この事件ぜんたいにありありと神のみこころの含まれていることをーーかの奇跡的な子供の命拾いからしてすでにそうであるーー身に沁みて感じながら、ほとんど一年ぶりにわが家の閾をまたいだのである」




  さて、傍観者氏よ、わたしは今、きみがわたしの文章を両断したといって非難をもらしたが、それについてわたしは一言釈明し、きみに謝罪さえすることをいとわないつもりである。事実、わたしはいま気がついたが、わたしの文章は、自分で庶幾したほど明瞭ではなく、その意味を誤られやすかったかもしれない。これは若干、説明の要があるので、わたしは今それを試みようと思う。この場合、問題はあげて、わたしが「幸福な」という言葉をいかに解釈するか、にかかっているのである。わたしは、放免された女の幸福を、ただ自由な境遇に出してもらったということばかりでなく、「生涯消えやらぬ偉大な教訓を得て、この事件ぜんたいにありありと神のみこころの含まれていることを、身に沁みて感じながら、わが家の閾をまたいだ」という点に認めたのである。実際、人間の仁慈と彼ら相互の愛を確信するに、上越す幸福はないのだ。まったくこれは信仰である。全生涯を貫く信仰である! また、信仰にまさる幸福はどこにあろうか? はたしてこのかつて犯人であった女が、これからのちいつか、人間と、その完全偉大な、合目的な、かつ神聖な使命に対し、堕落せんとした人間が、新しい偉大な信仰を獲たという力強い印象をもって、わが家の閾をまたぐこと、これこそおよそこの世にあり得る、最も偉大なる幸福である。世の中には、高邁潔癖な頭脳を有する人でさえも、人間の偉大なる使命の合目的性と、その善良さと、その理想と、その神的発生を信ずることができないで、一生涯くるしみ通し、わびしい幻滅の中に死んでいく、そういう例がいかに頻繁であるかを、わたしたちは知っている。きみはもちろん、わたしの言葉に微笑をもらして、お前はここでもまた妄想をおこしているのだ、賎民から出た、教育もない、無恥で、粗野なコルニーロヴァの魂に、こんな幻滅も歓喜もやどり得るはずはない、というかもしれない。おお、それは誤りである! 彼ら文盲の人々は、これらのことを、われわれと同じような名で呼んだり、われわれと同じことばで説明することこそできないけれども、彼らのほとんどすべてのものが、われわれ「教養ある人々」と同じくらい深刻に感じて、その感じをわれわれも同様の幸福、あるいは同様の悲哀と苦痛を伴いながら、受け入れるのである。
 人間に対する幻滅と不信は、われわれと同様、彼らにも現われるのだ。もしコルニーロヴァがシベリヤに流され、そこで堕落し、破滅するとしたら、彼女はいつか生涯の悲痛な瞬間に、自分の堕落の恐ろしさを痛感して、憤懣の念を心にいだいたまま、墓場まで運び去るかもしれないのだ。きみははたしてそれに思いをいたさないのか? 彼女の憤懣は対象がないだけに、なおさら苦しいものとなるに相違ない。というのは、彼女としては、自分以外の何人をも責めることができないからである。彼女は、くり返していうが、今でも自分をまぎれもない犯人と確信しているので、ただあの時どうしてああいうことがおこったのか、自分でもわからないだけである。ところが、今や彼女は、自分が罪人であると感じ、かつ認められているにもかかわらず、思いがけなく人々からゆるされ、慈悲と恩恵を施されたのであるから、更新の感情と、前の生活よりも崇高な新しき生涯に復活したという思いを、いだかないはずはないではないか? 彼女をゆるしたのは、だれか一人の人間ではなく、すべての人、すなわち裁判官、陪審員、ひいては全社会が、彼女に慈悲を垂れたのである。そうであってみれば、彼女は自分の心の中に、自分を憐れんでくれたすべての人々、すなわちこの世のいっさいの人々に対して、生涯消えることのない偉大な負債の感じを、いだかずにいるはずはないではないか。すべての偉大なる幸福は、ある苦痛をふくむものである。それは、われわれの内部により高き意識を呼びさますからである。悲哀というものは、偉大なる幸福が与えるほどの明瞭なる意識を、われわれの心内に呼びさますことがまれである。偉大なる、すなわち崇高なる幸福は、魂を義務づけるものである(くり返していうが、人間の善良さと彼ら相互の愛を信じるに、上越す幸福はない)。石もて打たれんとした偉大なる罪の女に、「わが家に帰りてふたたび罪をなすなかれ」といわれた時、はたして彼女は罪を重ねるために、わが家へ帰ったであろうか? したがって、コルニーロヴァ事件に関してもいっさいの問題は、いかなる土地の上に種子が落ちたか、という点にのみ存するのである。これが今回、この文章を書く必要があると思われたゆえんである。

     ⇄ 米川正夫 訳


p258 筑摩書房 14巻 作家の日記 V
「さてそこで、あなた自身に今度はひとつ
決定をくだしていただきたい。かりに婚姻を破棄し、疑いもなく愛していた、そして現在も愛しつづけている、彼女にとっては家庭のすべてである人間から彼女を奪い取り、二十歳になったばかりの、乳飲み児をかかえた、身寄り頼りのない天涯孤独な女をシベリヤに流したとしてーー淫蕩と汚辱の世界に(シベリヤに行ったら最後このような堕落が待ち受けていることは間違いないのである)追いやったとしてーーいまでは、どうやら、新しく生まれ変わった、峻厳な浄化ときびしい悔悟の結果すっかり心を入れかえて真理に立ち戻ったと思われるひとつの生命が滅び、腐りはててしまうことに、いったいどんな意味があるか、ぜひ教えていただきたいものである。いきなり頭を斬りはなしてしまうよりも、その人間を立ち直らせ、新しい人間を発見して生まれ変わらせるほうがいいのではないだろうか。法文の字句にしたがって首をはねることは簡単であるが、真理によって、人間的に、父親の愛の心で慎重に事を解明するのはつねにそれよりも困難である。そして最後に、二十歳になるかならないかの若い母親とともに、いいかえれば、いずれは貧困と淫蕩の犠牲になることは間違いのない世間知らずの女とともにーーその赤ん坊までが流刑に処せられることを、あなたはよく知っていたはずではないか・・・・・・。ところで失礼ながら幼児なるものについて特にあなたに一言させていただきたい。


六、わたしは子供の敵であるか? 「幸福な」という言葉が場合によってはなにを意味するかということについて


 
 あなたの論文は、「見まもる人」よ、一から十まで「小児虐待の弁解に対する」抗議にほかならない。あなたが幼児の味方をしていることは、もちろん、あなたの名誉を高めることには相違ないが、しかしわたしに対するあなたの態度はあまりにも居丈高である。



 完全にこの女の立場に身をおいて、妊娠時の情緒不安定が不可抗力であることに自分からに納得させるためには、周知のように、われわれの中でもそれを駆使することで特にドストエフスキー氏が際立っている、例の想像力を十分に身につけていることが必要である(とあなたは私について言っておられる)・・・・・・。しかしながらドストエフスキー氏はあまりにも涙もろく、おまけに『悪霊』『白痴』等々の作者としてはある程度は無理もないことではあるにしても、「病的な意志の発現」なるものがその泣きどころになっている。わたしはこの事件をもっと単純なものと見ているので、このような血も涙もない小児虐待を無罪とする判例が示されたとなると、イギリスと同様に、ロシヤにおいても非常に多く見られる小児虐待には、もはや今後はいかなる抑制措置も講じられなくなると主張してはばからならない。云々、云々。

 まず第一に、「病的な意志の発現なるものがわたしの泣きどころである」という点に関しては、ただあなたにこう言っておくだけにとどめておく。なるほどわたしは、自分の長篇や中篇の中で、自分は健全であると考えているある種の人間の仮面を剥いで、彼らが病人であることを証明してみせることに、どうやら、ときとして成功したことがあるように思われる。あなたはご存じであるかどうかは知らないが、自分が健康であるがゆえに病人であるという人間が世の中にはすこぶる多いのである。言い換えれば、自分が正常であることを過度に確信して、そのために恐ろしいうぬぼれと、恥知らずの自己陶酔に感染して、どうかすると自分は完全無欠であると信じ込んで疑わなくなるような人間がはなはだ多い。またこういったような人間をわたしはたびたび自分の読者に指摘してみせたし、あるいは、さらに進んで、こうした頑健な人間が実は決して自分が思っているほどには健康な人間ではなく、むしろ反対に、ひどい病気にかかっているので、したがって治療を受ける必要があることを、証明してみせたのであった。どうもわたしには、この点に関してはなにも悪いことはないように思われるのだが、しかし「見まもる人」はわたしに対してあまりにも苛酷すぎる。なぜならば、「小児虐待の弁解」という一句は、直接このわたしに向けられたものだからである。彼はただ「彼としては無理もないことではあるにしても」という言葉で、「ほんのちょっぴり」それをやわらげているだけなのだ。彼の論文は一から十まで、わたしの場合、「病的意志の発現」に対する愛着のために、常識がすっかり歪曲されてしまっているので、わたしはどちらかと言えば、いじめられている犠牲者ではなくて、絶えずなぐられ、侮辱され、あげくのはてに、殺されようとした、かよわい、可哀そうな女の子ではなくて、むしろその子を虐待した、野獣のような継母、あの人殺し女に憐れみをかけようとしていることを証明するために書かれたのである。これはわたしにとっては腹立たしいことだ。わたしの異常性とは反対に、「見まもる人」は性急に、はっきりと、あからさまに自分を売り込み、自分が健全であることをひけらかしているーー「わたしはこの事件をもっと(つまりドストエフスキー氏よりも)単純なものと見ているので、このような血も涙もない小児虐待を無罪とする判例が示されたとなると・・・・・・主張してはばからない」云々、云々。そんなわけで、わたしは小児虐待を正当化しようとしていると言うのだーーこれは恐ろしい言いがかりである! こうなったら仕方がない、わたしも自分を弁護することを許してもらいたい。わたしが子供の大敵で小児虐待の愛好者であるかどうかという疑問を解決するために、これまでの三十年にわたるわたしの文学活動を指摘することはやめにして、ここではただ最近二年間のわたしの著作、つまり『作家の日記』の刊行について注意をうながすだけにとどめておく。クローネベルクの裁判事件が起こったとき、「病的な意志の発現」に対して非常な愛情をいだいているにもかかわらず、わたしはたまたま、虐待者ではなくて、子供に、犠牲者に味方するめぐり合わせになった。してみると、わたしも場合によっては、「見まもる人」よ、常識の肩を持つことがあるわけである。どうしてあなたもやはりあのとき子供の弁護を買って出なかったのかと、「見まもる人」よ、いまではむしろ残念に思っているくらいなのだ。そうすればあなたはおそらくこの上なく熱烈な論文を書かれたにちがいあるまい。ところがどうしたものかわたしには、子供の味方をした熱烈な論文がそのとき書かれたという記憶がぜんぜんないのである。してみるとあなたはあのとき、弁護しようとは思わなかったということになる。その後、これはつい最近、つまりこの夏のことであるが、これもやはり両親の家でさんざんひどい目にあわされた、ジュンコーフスキー家の幼い子供たちの弁護を私は買って出ることになった。このジュンコーフスキーの子供たちについてもあなたはやはり何も書かなかった。もっとも、ほかにも書いた人はひとりもいなかった。きわめてか重大な政治問題でみんな頭がいっぱいだったので、それも無理もないことだったのである。そして最後に、わたしはこの二年のあいだに、この『日記』の中で、児童問題、その教育のこと、わが国の家庭における子どもたちのいたましい運命のこと、わが国の国正のための施設に収容されている年少の犯罪者のことなどに言及したことも一再にとどまらず、何回かあったことをいちいち指摘することもできる。さらにまたキリストのヨールカに召されたある少年の話をしたことさえもあった。ーーこの出来事は、もちろん、作り話にはちがいないけれど、だが、それにしてもとにかく、わたしが子供たちに対して冷淡でも無関心でもないことを明らかに証明するものであろう。わたしはあなたに、「見まもる人」よ、つぎのように言っておく。わたしが新聞でコルニーロヴァの犯罪と彼女にくだされた仮借のない判決についての記事をはじめて読み、そして、もしかすると、犯人は決して人が思うほどの罪をおかしているのではないのかもしれないという想像に、思わず激しいショックを受けたとき(「見まもる人」よ、「継母の折檻」のことはその当時も新聞の裁判についての記事でも全然触れていなかったし、その点に関する告発は当時ですらももはや指示されていなかったことに、どうか注意していただきたい)ーーわたしはコルニーロヴァのためになにか書こうとしたのであったが、わたしが決心したのがどんなに大それたことであるかは、そのときわたしには分かりすぎるくらいよく分かっていたのである。わたしはいまここではっきりとあなたに白状しておく。自分が読む人に好感を与えない文章を書き、加害者の肩を持とうとしていること、しかも敵にまわすのは人もあろうに、幼い子供であることを、十分に承知していたのである。ある種の人たちが冷淡、うぬぼれ、いやそれどころか「異常」ときめつけてわたしを非難するにちがいないことが、わたしには前から分かっていたのだ。つまり、「選りに選って子供を殺そうとした継母の肩を持つなんて!」というわけである。ある種の審判者、ーー早い話が、「見まもる人」よ、あなたのような審判者から寄せられる非難攻撃の「融通のきかなさ」を痛いくらいに予感していたのだった。そこでしばらくのあいだ躊躇したほどであったが、結局、ともかくも思い切って書いてみることにしたのである。ーー「これが真実であると信じているとしたら、人気ほしさのために虚偽に奉仕していいものであろうか?」ーーこれがわたしの最後に到達した結論なのであった。そればかりではなく、自分の読者に対する信頼の念もわたしを元気づけてくれた。「読者だって、結局は、小児の虐待を弁護するつもりなのだなどとわたしを非難するわけにはいかないことを、きっと分かってくれるに相違ない」とわたしは考えたのであった。「よしんばわたしが殺人犯の肩を持って、兇行を行なった際、彼女は病的な錯乱状態にあったのではあるまいかという自分の疑念を開陳したにしても、だからと言ってなにも兇行そのものを弁護することにはならないし、また子供が折檻されたり殺されたりするのを喜んでいるということになるわけではない。むしろ、反対に、ことによると、ほかの誰にも負けないほど、その子供を心から哀れに思ったのかもしれないではないか・・・・・・。
 あなたは「見まもる人」よ、被告コルニーロヴァの無罪放免についてのわたしの文章あの一節を取りあげて、悪意をこめてわたしを嘲笑されたーー




  「無罪となった婦人の夫は」とドストエフスキー氏は、つい二、三日前に出た『日記』にかいている(とあなたは言っておられる)。「その晩のうちに、すでに十時を過ぎていたが、彼女を自分の家へ連れて帰った。そして彼女は、幸福感につつまれて、ふたたび自分の家に足を踏み入れたのである」なんと感動的なことではないか(とあなたは付け加えている)、だがその子供こそわざわいなるかなである。云云、云云。




 わたしがこんなばかばかしいことを書くはずはないと、わたしには思われる。なるほど、あなたは正確にわたしの文章を引用しているのだが、それにしてもなんということをしたものだ。あなたはそれを真っ二つに切って、区切りでもなんでもないところに、ピリオドを打っている。これであなたが思ったとおりの意味がでてきたことになる。わたしの文章にはそんなところにピリオドはなく、文章はつづいていて、それにはちゃんと後半がある。あなたに切り捨てられた後半をつなぎ合わすと、全体の文章は決してそれほど支離滅裂で、ここに見られるほど「感動的」なものではなくなるものと考える。つぎに掲げるのがわたしの文章であるが、ただし削除なしの全文である。




 「無罪となった被告の夫は、その晩のうちに、すでに十時を過ぎていたが、彼女を自分の家へ連れて帰り、そして彼女は、幸福感につつまれて、自分の経験した死ぬまで消えることのない偉大な教訓をしみじみと噛みしめ、子供が奇跡的に命拾いをしたことをはじめとしてーーこの事件全体に神の摂理が明らかに働いていることを感じながら、ほとんど一年ぶりに、ふたたび自分の家に足を踏み入れたのである。






 ところで「見まもる人」よ、わたしがたったいま自分の文章を両断したと言ってあなたに非難をあびせたことに対して釈明し、あなたに謝罪してもいいとさえ思っている。実際、わたしもいま気がついたのであるが、この文章は、ことによると、わたしが当てにしたほど決して明瞭なものではなく、その意味を誤解される恐れがあるのかもしれない。この文章には多少説明を加える必要があるので、これからそれをやってみることにする、一にも二にも問題はこの場合、わたしが「幸福な」という言葉をどう解釈しているかにある。無罪放免になった被告の幸福は、単に彼女が自由の身にしてもらったことだけではなく、彼女が「自分が経験した死ぬまで消えることのない偉大な教訓をしみじみと噛みしめ、自分の上に神の摂理が明らかに働いていることを予感しながら、自分の家に足を踏み入れた」ことにあるとわたしは認めたのである。実際、人間の憐れみの心と人間同士の愛を確信するようになることほど、大きな幸福はないではないか。これは信仰である、もはや死ぬまで消えることのない、完全な信仰である! それに信仰にまさる幸福がいったいどこにあるだろう? このかつては犯罪人であった女が、今後多少でも人間というものに、人類としての人間というものに、またその完全で偉大な、目的にかなった神聖な使命に、なにかの拍子に疑いをいだくようなことがはたしてありうるであろうか? 破滅しかかった、滅び去ろうとしかけた人間が、新しい偉大な信仰を身につけたという強力な印象を心に刻みつけて、自分の家に足を踏み入れること、これこそまさにこの世にありうる限り最も大きな幸福である。世の中にはこの上なく気高い高遠な頭脳の持ち主が、人間の偉大な使命の妥当性、その善性、その理想、それがすべて神から出ていることに対する不信のために一生のあいだ苦しみつづけ、幻滅の悲哀を感じて死んで行く例がむしろきわめて多いことを、わたしたちは知っている。あなたは、もちろん、わたしのこの言葉を聞いてにやりと笑い、おまえはここでもまた妄想をたくましくしている、下層階級出身の教育もなにもない、無知で粗野なコルニーロヴァのような女の魂に、このような幻滅も、このような感動もありうるはずはないと、あるいは、言われるかもしれない。おお、それはとんでもない誤りだ! 彼らは、こうした無知な人たちは、これらのことをわれわれと同じように理解できず、われわれの言葉で説明することこそできないには相違ないないが、しかし彼らは、ほとんどつねに、われわれ、つまり「教育のある人間」と同じように、しみじみとそれを感じ、そうした感情を、われわれとまったく同じような幸福感、あるいはまったく同じ悲哀と苦痛にさいなまれながら、受け入れているのである。
 人間に対する幻滅と、人間に対する不信は、われわれと同様に、彼らにだってあるのである。かりにコルニーロヴァがシベリヤへ流され、そこで堕落し破滅するようなことになっても、ーーどうかした拍子にその生涯のいたましい瞬間に、自分の堕落の恐ろしさを痛感し、その激しい怒りを自分の胸におさめたまま墓場に持ち去るようなことは、どう間違っても、ありえないとあなたは本当に考えておいでなのだろうか。その怒りが彼女にとっては対象がはっきりしたものでないだけに、なおさらやりきれないものになる。自分以外に彼女はいかなるひとも責めるわけにはいかないからである。それと言うのも、もう一度繰り返して言っておくが、彼女はいまでもなお、自分は紛れもない犯罪者であると確信しているのであって、ただあのときどうしてあんなことが起こったのかが分からないだけであるからだ。ところがいまでは自分は犯罪者であると感じ、自分はそんな女であると考えているのに、思いがけなく世間の人たちから罪を赦され、親切にされ憐れみをかけられたのであるから、自分はよみがえり、新しい、前よりもはるかに崇高な生命を与えられて生まれ変わったのだとどうして感じないでいられようか? 彼女を赦したのは誰かひとりの人間ではなくて、すべての人、つまり裁判官、陪審員、したがって、全社会が憐れみをかけてくれたのである。となると、自分を憐れんだくれたすべての人たち、言い換えれば、この世のありとあらゆる人たちに、自分は死ぬまで消えることのない大きな借りができたのだという感じを、その心の中にいだかずにいられるはずはないではないか。偉大な幸福はどんなものでも、その中にある種の苦しみを含んでいる。それがわれわれの心の中に崇高な意識を呼びさますからである。それに比べれば悲哀がわれわれの心の中に、偉大な幸福が与えてくれるほどの意識の明晰さを呼びさますことはめったにない。偉大な、つまり崇高な幸福は魂に義務をおわせる。(繰り返して言うが、人間の善意と人間同士の愛を信じることにまさる幸福はないのである。石を投げられて殺されようとしていた偉大な罪びとに、「わが家へ戻りふたたび罪をおかすことなかれ」という言葉がかけられたとき、ーーはたしてその女は罪をおかすために家に戻ったのであろうか? それゆえにコルニーロヴァの事件な場合でも、問題はすべて、どのような土地に種子たねは、落ちたかという一点にしぼられる。今回この文章を書く必要があると思われたのは、実にそのためなのである。

⇄ 小沼丈彦 訳


   E N D



長文でしたね。


 
[618] 2024/01/28/(Sun)18:46:19
名前 Seigo
タイトル ドストエフスキーの重要な事跡(6)
本文    
流刑・服役を終えてペテルブルクに帰還してから三年後の40歳の時の62年6月〜9月に初めて欧州旅行を行い、その体験により欧州社会に幻滅することになったこと。

単身でパリ・ロンドン・ジュネーブ・フィレンチェなどに3ヶ月足らず旅行・滞在したが、カトリック教会が支配し科学技術文明が進展していた欧州社会に対しては、それまでの憧れから、幻滅・批判へと変わってしまったと言える。

特にロンドンでは万国博を見て回り、科学技術の文明の進展ぶりを目(ま)のあたりにして文明社会の将来に危惧を抱いたようだ。

その翌年の2月にこの欧州滞在の見聞記である『冬に記す夏の印象』を発表していて、ドストエフスキーが欧州滞在において感じたこと・思ったことをいろいろと読み取ることができる。さらに、二度目の欧州旅行(63年8月〜10月)の翌年に発表した小説『地下室の手記』には文明社会への痛烈な批判や警鐘が述べられている。
      
[617] 2024/01/28/(Sun)11:39:51
名前 Seigo
タイトル このたびも働きかけあり
本文 ほのかさん、書き込み、どうも。
   

今朝東京湾で発生した地震(最大震度4)は、また、ハーモニーズ・ハーモニー宇宙艦隊の働きかけで、震源が80kmまで下げられて小規模で済んだようです。

ありがたいことです。今後も、全国津々浦々、よろしくお願いしたい。
    
HARMONIES ハーモニーズ
    
  
[616] 2024/01/26/(Fri)11:20:26
名前 ほのか
タイトル 修正しながら
本文 U ですが。

 確か、《信仰が〜》どうのこうの〜。良い方向に持って行ったのですね‼️

 ドストエフスキー氏は、【信仰】を、大事であると、述べてますね。

 ドストエフスキー氏が、『キリスト教』とか、『イスラム教』とか、『ロシアの宗教』とか、それぞれ個人が、自分より、高きものに、考えをこう時の高みのエリアを持っていれば、良いと思ってるのだと、考えます。

 つまり、どのなになに教も、信仰という偉大さで、リスペクトし合う必要がありますね。

 そうしたら、地球上が、幸せになりますね。

 私も、キリスト教とか、なになに教は、苦手ですが、高みのものは、意見を聞いたりする高みの自分自身のエリアはもっていますね。

 これだけキリスト教が多いなら、キリストも、否定しては。世界平和は、得られませんね。イスラム教然り。その他宗教然り。その他いろいろ然り。

 つまり、どのなになに教も、信仰という偉大さで、リスペクトし合う必要がありますね。

[615] 2024/01/26/(Fri)10:25:07
名前 ほのか
タイトル 修正しながら
本文 U は、後ほど
[614] 2024/01/26/(Fri)10:24:27
名前 ほのか
タイトル 修正しながら
本文 p383
V「種子は良き土地の上に落ちたこと、一人の人間が復活したこと。」

Vの内容
「この事実が何人にも害をおよぼさなかったこと、犯人の魂が憮悟の念を、人々のかぎりなき慈悲を思う永久の感激に圧倒されていること、今となってはあれほどの善と愛とを体験した以上、彼女の心は邪悪なものとなり得ないこと、それらのことをわたしはもはや間違いなく、断言できるように思われる。傍観者氏よ、きみがあれほど憤慨している、「妊娠のアフェクト」は疑いのないものでありはしながら、くり返しいうが、彼女はそれによって、自己弁護をしようとはさらさら思ってはいない。要するに、わたしはこのことをきみ以外のわたしの読者一同、ならびにあのとき彼女を無罪とした慈悲深いすべての人々に報告するのも、決して無駄ではないと感じた次第である。ところで、女の子についても、傍観者氏よ、同様心配を無用にして、「子供こそ不幸である!」などと叫ばないでもらいたい。彼女の運命も現在かなりうまくおちついて、やがては「あれも忘れてくれるでしょう」それにも確かな望みがあるのだ。」
  
   ⇄ 米川正夫 訳


「種子は肥沃な土地に落ちた、ひとりの人間が生まれ変わった、それは誰にも害を与えなかった、犯罪者の魂は悔悟の念と人々からはかりしれぬ憐れみをかけられたという、いつまでも消えることのないありがたい印象によってまさに圧倒されている、そしてまたあれほどの善意と愛情を身をもって体験したいまとなっては、彼女の心はもはや邪悪なものにはなりにくいと、わたしは誤りなく断言することができるように思われる。「妊娠時の情緒不安」はもはや疑う余地のないものであるのに、繰り返して言っておくが、彼女は決してそれで身のあかしを立てようとは考えていないのだ。ひとことで言えばわたしには、このことを、あなたを除く、「見まもる人」よ、わたしのすべての読者と、あのとき彼女を無罪にした、憐れみ深いすべての人たちに報告するのは、あながち無駄ではないと思われたのである。またあの女の子のことも、「見まもる人」よ、やはり心配することはやめにして、「子供こそわざわいなるかな!」などと叫ばないようにしていただきたい。彼女の運命もいまではかなりうまく落ち着くところに落ち着いてーー「あの子はきっと忘れてくれますわ」という事になるにちがいないのだ。そのことにも多大な希望がいだけるのである。」

    ⇄ 小沼丈彦 訳


        E N D

[613] 2024/01/26/(Fri)10:08:44
名前 ほのか
タイトル 途中 修正しながら。
本文 p328
T「さて、そこできみ自身に決定を乞うが、もし二人の結婚を破棄して、彼女が疑いもなく愛してきたし、またげんに愛している夫から犯人を引きはなし、ーー彼女にとって疑いもなき家庭をなしている夫から引きはなして、二十歳そこそこの若い身空で、嬰児をかかえて、なんのたよりもない孤独な彼女を、シベリヤへ流刑にして、犬童淫蕩と汚辱に沈めたら(シベリヤではこの堕落はしょせんまぬがれないのだ)、ーー一個の生命の破滅と腐敗に、そもそもいかなる意味があるのか、返答が伺いたい。」

Iの内容
「この生命は今や厳しい浄化と改悛を経て、更生した心をいだきながら復活し、真理に帰ったように見受けられるのだ。人間の頭からいきなり首を引きちぎってしまうよりも、これを矯正し、はっけんし、復活させたほうがよくはあるまいか。法の文字によって首を斬るのは容易であるが、真理によって、人間的に、父親らしい態度で是非を弁別するのは、常に困難なわざである。最後に、若い二十歳の母親とともに、いいかえれば、まぎれもなく将来貧困と淫蕩の犠牲となるべき無経験な女性とともに、その幼な児も流刑に処せられんとしていたことは、きみも知らなかったとはいえまい・・・・・・が、ここで一般に幼な児について、とくに一言することを許してもらいたい。」




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