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[746] 2025/03/26/(Wed)21:15:16
| 名前 |
Seigo
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タイトル |
ドストエフスキーから得た考えや教え(10) |
| 本文 |
人に尊敬されたいのなら自分自身を敬うがいい。自分自身に敬意を払うことによってのみ他人はあなたを敬うようになるだろう。 (ドストエフスキーの言葉。※、所在、未確認。)
尊敬のない愛っていったいなんだろう! (書簡より。)
肝要なのは自分自身にうそをつかぬことですじゃ。みずから欺(あざむ)き、みずからの偽りに耳を傾けるものは、ついには自分の中にも他人の中にも、まことを見分けることができぬようになる、すると、当然の結果として、自分にたいしても、他人にたいしても尊敬を失うことになる。何者をも尊敬せぬとなると、愛することを忘れてしまう、ところが、愛がないから、自然と気をまぎらすためにみだらな情欲におぼれて、畜生(ちくしょう)にもひとしい悪行を犯すようになりますじゃ。それもこれも、みな他人や自分にたいするたえまない偽りからおこることですぞ。 (『カラマーゾフの兄弟』より。)
上の言葉に見られる通り、ドストエフスキーは、人に対しても自己に対しても、相手を敬うということを大事なことと考えた。愛の行動にしても相手への尊敬がなくてはならないとした。
作中の登場人物に対しても、作者として、愛情を注ぎ、どな人間にも、人間の尊厳を表そうとした。
こういった、どんな人であっても、人は尊いものであり、人を敬ってくというドストエフスキーの姿勢は、自分は結構影響を受けたと思う。 |
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[745] 2025/03/24/(Mon)19:55:12
| 名前 |
Seigo
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タイトル |
ドストエフスキーから得た考えや教え(9) |
| 本文 |
人生を恐れてはいけません! なんでも正直ないいことをしたときには、人生はなんと美しいものに思われることでしょう。
『カラマーゾフの兄弟』の末部での子供達を前にしてアリョーシャが語る話の中の言葉だ。
この中の、
・正直である
ということとともに、
・よいことをする
ということに、あらためて注目したい。
人生は、よいことを見つけ、よいことを行うことによって、すばらしくて美しいものになる。そのことを教えてくれている。
なお、 宮沢賢治の小説『銀河鉄道の夜』の中の、
誰だって、ほんとにいいことをしたら、 いちばん幸せなんだねえ。
という言葉は、このアリョーシャの言葉を踏まえていると感じられる。 |
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[744] 2025/03/22/(Sat)10:24:23
| 名前 |
Seigo
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タイトル |
ドストエフスキーから得た考えや教え(8) |
| 本文 |
人間というものは、不幸のほうだけを並べたてて、幸福のほうは数えようとしないものなんだ。ちゃんと数えてみさえすれば、だれにだって幸福が授かっていることが、すぐわかるはずなのにね。 (『地下室の手記』より。)
人間が不幸なのは、ただ自分の幸福なことを知らないからです。 (『悪霊』より。)
上の言葉からは、自分の不幸不運なことや自分に欠けているものばかり目を向けて苦しんだり落ち込んだりするのでなく、今の自分にある幸福や持っているものの方にもっと目を向けて、ありがたく思い、感謝していこうということを学んだと思う。
古今の賢者も、以下のように、同様のことを述べている。
・苦悩を数えてはいけない。幸せなことを数えて、それに感謝する時、人は幸せになることができる。 [デール・カーネギー(米の産業企業家・慈善事業家)]
・幸せを数えたら、あなたはすぐに幸せになれる。 [ショーペンハウエル(哲学者)]
・足りないものを嘆くのではなく、今あるものを大いに喜ぶ。それが真に賢い者である。 [エピクテトス(哲学者)]
・一つの不幸にとらわれて、すべてのものを、不幸な眼(め)で見ようとするのはいけない。 [黒岩重吾(作家)]
※ ドストエフスキーから得た考えや教え(1〜7) [過去の投稿ぶん] |
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[743] 2025/03/19/(Wed)18:25:02
| 名前 |
Seigo
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タイトル |
ドストエフスキーの小説の特徴(21) |
| 本文 |
初期から後期にまで渡って見られるものであるが、恋愛が入っている作品では、主人公の男性が一人の幸せでなさそうな女性(多くは伴侶や愛人あり)を知って、彼女に心ひかれたり、彼女を助けたいと思ったりして、片思いやストーカーのままの場合も含めて、交渉していくが、しまいには、出来事が生じて彼女はその相手と共に去っていってしまうというパターンが数多く見られる。
『罪と罰』のラスコーリニコフ・ソーニャ、『カラ兄弟』のドミートリイ・グルーシェンカの場合は例外だが、ドストエフスキーの恋愛小説は基本的には悲恋小説と言えるだろう。  [角川文庫(旧版)『白夜』、 ロベール・ブレッソン監督の映画「白夜」より。] |
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[742] 2025/03/15/(Sat)20:45:48
| 名前 |
Seigo
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タイトル |
ドストエフスキーの信仰と心の平安のこと |
| 本文 |
※追記更新 25/03/16 12:23
トルストイやニーチェのそれと相違するものとして、ドストエフスキー本人は聖書などを通してのイエスや神とその教えへの信仰によってどの程度心の平安を得ていたのかを、今後もっと明確にしていければと思う。
このことに向けて、作中の無神論的な登場人物の考えや思いはあてにならない。氏の残した著作やメモ・ノート(こちらの書簡中の言(げん)はやはり重要)、氏をめぐって身内や知人が述べて残したことを、もっと、あたって、確認していく必要があるだろう。
なお、 妻アンアの寄り添いと協力も、氏に心の安心・安らぎを与えていたと言えると思う。 |
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[741] 2025/03/12/(Wed)20:27:00
| 名前 |
Seigo
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タイトル |
斎藤孝『ドストエフスキーの人間力』 |
| 本文 |
大学教授として、専門の語句・文芸に関する著作だけでなく、古今東西の教養書を広く上梓している斎藤孝さんのまとまったドストエフスキー論として、作者ドストエフスキーのことも含めて、主な登場人物の言動を、
・過剰に「不意」なラスコーリニコフ ・過剰に「期待を持たせる男」スタヴローギン ・過剰に「情熱の燃え上がるごった煮男」ドス トエフスキー
といったふうに、「過剰な(過剰に)」というキーワードから論じた『ドストエフスキーの人間力』が面白くて鋭くて、おすすめです。 |
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[740] 2025/03/10/(Mon)21:19:31
| 名前 |
Seigo
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タイトル |
中村健之介『ドストエフスキーのおもしろさ』 |
| 本文 |
ドストエフスキーのことをまとめた入門書として、
『ドストエフスキーのおもしろさ ― 言葉・作品・生涯』 (中村健之介著。岩波ジュニア新書。1988年刊。)
が、おすすめ。
見開きごとに最初にドストエフスキーの言葉や作中の言葉を挙げつつ、ドストエフスキーのこと全般を多面的に紹介している。
ただし、この本は現在品切れになっていて、古書店でも入手しにくい。今後、再刊を期待したい。
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[739] 2025/03/08/(Sat)10:54:04
| 名前 |
Seigo
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タイトル |
社会科学系の学者・ジャーナリストのドストエフスキー論 |
| 本文 |
※追記更新 25/03/08 16:40
社会科学系の学者・ジャーナリストのドストエフスキー論としては、次のぶんが面白い。
〇勝田吉太郎氏の論 [『ドストエフスキー』] 社会における個人の自由と権力者の統制の観点から『罪と罰』や『カラマーゾフの兄弟』を中心に論じている。特に大審問官という人物に関する論には感銘を受けました。( 1 )
〇井上茂信氏の論 [『ドストエフスキーと共産主義』] 共産主義の行く末をすでに鋭く洞察・批判していたドストエフスキーの立場やゾシマ長老の教えを詳しく論じている。
〇河原宏氏の論 [『ドストエフスキーとマルクス』] マルクスに欠けていた神と宗教の問題をドストエフスキーの思想を通して論じている。
〇作田啓一氏の論 [『ドストエフスキーの世界』 『個人主義の運命 ― 近代小説と社会学』] 後者の書では、個体我(独立我)の自己-自己、社会我の自己-社会のほかに、超個体我の自己-神という関係をドストエフスキーは導入したとする指摘には注目しました。( 1 ) 『白痴』を読んで世界が逆さまに見えたなどのドストエフスキー体験に関しては、自分はいまだよくわかりません。
〇森和朗氏の論 [『ドストエフスキー 闇からの啓示』] 上書では、現代科学技術文明・現代社会の状況に関する予言的洞察を示したドストエフスキーの言説を引用しつつ、現代社会に鋭い批判のメスを入れている。( 1 )


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[738] 2025/03/05/(Wed)20:10:18
| 名前 |
Seigo
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タイトル |
ドストエフスキーの小説の特徴(20) |
| 本文 |
※追記更新 25/03/08 16:46
ドストエフスキーの小説の特徴というか、ドストエフスキーの小説の良さは、登場人物がよく描かれている点にある。
初期の作品から、そうであり、最後の『カラマーゾフの兄弟』では、各々の登場人物が円熟した造型になっている。
そして、どんな悪玉の登場人物であっても、どんなダメ人間の登場人物であっても、その人物の良さを垣間見(かいまみ)せていくことを作者は忘れていない。
以上のような点は、登場人物のどのような描き方からくるのか、ぜひ知りたく思う。
たとえば、各登場人物が自分の思いの丈(たけ)を述べていくところなどにそれが感じられるように思うが、そこには、作者のその登場人物への愛着愛情があり、大なり小なり作者の何らかの分身が入(はい)っているということかもしれない。
ドストエーフスキーが、フョードルを扱う筆には常に愛がみなぎっている。われわれはフョードルの行動や言葉の中にいいしれぬほほえみを感ずる。この人物こそまさにたぐいまれなる芸術品と言いうるであろう。 [本間三郎著『「カラマーゾフの兄弟」について』より。]
 [ロシア映画「カラマーゾフの兄弟」のフョードルとアリョーシャ] |
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[737] 2025/03/03/(Mon)21:00:30
| 名前 |
Seigo
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タイトル |
ドストエフスキーの小説の特徴(19) |
| 本文 |
人間や社会の暗部を描きながらも、作中には、明の部分や光(救い)の方向を大なり小なり設けることを作者は忘れていない。
ほとんどの作品がそうであり、最も救いがたいほどの暗部が多い『悪霊』や『死の家の記録』においても、それは見られる。
ドストエフスキーの文学の良さはこのあたりのことにあると言えるだろう。
各作品に、そういった部分をもっと読み取っていきたい。
 [旧表紙の新潮文庫『悪霊』] |
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