ドストエフスキーの「情報・意見」交換ボード
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[314] 2023/05/12/(Fri)11:15:39
名前 ほのか
タイトル ビュー・コロンビエ座における連続六回講演
本文 「ジイド著『ドストエフスキー』(改造文庫。秋田滋訳。1936年初版。)所収の「ビュー‐コロンビエ座における連続六回講演」(p14〜p15)より。
※、旧仮名遣い・旧表記は、現代表記に改めました。


真の芸術家は、自分が制作する時には、常に自分自身のことについては半ば無意識である。彼は己(おの)れがいかなるものであるかということを確然(かくぜん)と(=たしかには)知ってはいない。彼はただ、自分の作品を通し、自分の作品により、自分の作品を書いてしまった後にのみ、己れというものを識(し)る(=知る)ようになるのである。ドストエフスキーは決して己れを知ろうとはしなかった。彼は夢中になってその作品の中に己れを打ち込んだ。己れの書物の各人物の中に彼は没入したのだ。それゆえ、作中人物のひとりひとりの中にドストエフスキーが再び見出されるのである。われわれは、やがて、彼が自分の名でものを言うと、甚(はなは)だ不手際であるが、逆に、彼自身の観念が自分の生かす人物の口を借りて述べられる時には、非常に雄弁になることがわかるであろう。これらの人物に生命を与えて、彼は存在するのである。彼はその人物のひとりひとりの中に生きているのだ。そして、その人物の多様性のうちに己れを委(まか)せ切ってしまうことが、第一の効果として、彼自身の矛盾を擁護(ようご)することになるのである。私はドストエフスキーほど、撞着(どうちゃく=前後に言ったことのつじつまが合わないこと)・矛盾に富む作家を知らない。ニーチェに言わせたら、「反対性」に富んだ作家である、とでも言うだろう。彼がもしも小説家でなくて哲学者であったとしたら、必ずその観念を整(ととの)えようとしたに違いない。そんなことをしたら、彼の最もすぐれたところを、われわれは見失ってしまったに違いない。 」


は、私読者も、PUTと、本に書き込んである興味深い箇所ですね。
[313] 2023/05/12/(Fri)11:04:07
名前 ほのか
タイトル ジイドの講演:ドストエフスキーを発見したことは、わたしにとって、スタンダールを発見したことよりなお一層重要であった。彼は心理研究の領域で私に何事かを教えたただひとりの人である。 by ニーチェ
本文 講演録を、〜寺田透訳です。

 もう、ドストエフスキイ氏を、勝手に解釈して、他者の解釈を受け付けずに、熱愛してきましたが。

 ジイドは、最高です。
『ビュー・コロンビエに於ける講演』ですね。

 私読者が、ずぅーーーっと、ファンになった作家ドストエフスキイ氏。

 やぁっと、信ずる人物に出会えた気が致します。ジイド氏の、作家ドストエフスキイ氏の解釈に、癒されますね。

 畏れ多いのでありますが、まさしく、ドストエフスキイ氏に対する解釈は、ピッタリと一致いたします。

『ドストエフスキー全集』 研究 筑摩書房ですね。

 これから、この掲示板のご指摘の場所を読もうと思ってます。

 この講演は、全て書き写したいくらいです。

 後ほど、ざっくばらんに、興味のあるところを、色々と、書かせて頂きますね。

 いまは、後半へ、行ってます。

『白痴』
『悪霊』
『カラ兄弟』
『地下室の手記』
『死の家の記録』
とか、ニーチェとか、バルザックとか、フランス文学🇫🇷との違いとか、ちょっとは、私読者も知識があるので、この講演が興味深くてしょうがありません。

 この講演を、今まで、人の言うことを聞かないから、読んでませんでしたね。

 今は、最高に幸福な気持ちです、読んでます。少しずつ。自分自身の注釈は、本に書き放題です。後からまた、何を書いてたのか、読めない字ですが。

 嬉しさ爆発です💥

 アンドレ・シュアレスが、この全集の研究にあるけど。

 シュアレスファンになりかけて、熱心に読んでいたら、私読者と、ちょっと違うなっと、シュアレスファンをやめた経緯がありましたね。

 ジイドの講演が、最後まで、私読者を、魅了してくれることを願います。


[312] 2023/05/09/(Tue)18:39:17
名前 Seigo
タイトル >ジイドのドストエフスキー論
本文  ※追記更新 23/05/09 22:30


ほのかさん、まいど、どうも。

アンドレ・ジイド氏がドストエフスキーのことを論じた講演録を、ほのかさんは読んでいるのですね。読んでいるのは新潮文庫の寺田透訳のぶん(1955年初版)でしょうか。

私も以前に目を通しましたが、氏が講演などで語ったドストエフスキー論は、たしかに鋭い。

ジイド氏のドストエフスキー論に関しては、当ページのコーナーで一部紹介しています(こちらこちらこちらこちら)。

ジイド氏は実際に小説を創作していた作家だけあって、最初に挙げたぶんなどは、ドストエフスキーの小説の内容(登場人物)と作者の関係を鋭く洞察していると思う。

小説の創作と作者の関係については日本の近現代作家においてもすぐれた論者によっていろいろと洞察され論じられてきましたが、作者の精神活動のありようにも影響を与えていくその相互影響性のことについては興味が尽きません。
  

      
[311] 2023/05/08/(Mon)22:47:45
名前 ほのか
タイトル ジイドのドストエフスキイの真実は、最高です😄
本文  ジイドの講演を読んでます。ドストエフスキイ氏の観察は、最高ですね。

 心が癒されます。

内容は後ほど😄
[310] 2023/04/21/(Fri)08:11:27
名前 ほのか
タイトル 『死の家の記録』と、『虐げられた人々』しか、読まずに、でも、トルストイは、ドストエフスキイ氏を、絶賛した
本文  ネットで、誰かが、書いてあったのですけど。

 『死の家の記録』は、作家ドストエフスキイ氏に、人間を見る多角的な、優しさがあってよかった‼️と、私読者が安堵するところの、怖さのない小説でしたが。

 『虐げられた人々』も、題名とは異なって、平和的だったのかな?!

 題名のために、読むのを、読者の私は躊躇ってたんですけど。内容は、どうだったっけ? っと、直ぐに忘れてしまうのでしたが。

 もう一度、自分の感想文を、後で、振り返ってみます。

 何故、ネットで、見つけた読者が、トルストイが二個の小説だけ読んだだけでと、不満だったのかしら? との、私読者のこだわりの疑問ですね。

 私読者の場合は、それぞれのドストエフスキイ氏の小説に、この作家の全てが、著てると、思ってしまってますから。


[309] 2023/04/18/(Tue)13:59:52
名前 ほのか
タイトル 『動物』だったかな?
本文 空の上の雲を真似て、進化して来たものは? 何だっけ。凄く、その時、納得したものだったのに。
[308] 2023/04/18/(Tue)13:53:48
名前 ほのか
タイトル
本文 『イヴァン「ぼくが考えてみるに、もし悪魔が存在しないとすれば、つまり人間が作り出したものということになるね。そうすれば人間は自分の姿や心に似せて、悪魔を作ったんだろうじゃないか。」
アリョーシャ「そんなことを言えば、神さまだって同じことです。」



●時々、自分が、喋っていて、あ‼️自分のこと喋ったんじゃないかな⁉️っと、気恥ずかしくなる一瞬がありますね。自分自身の心が、バレちゃうじゃない。つまり、神様とは反対の心が、丸出しじゃないとかの、経験ですね。

 ですから、 ほんとに、そうなんですよね。人間に存在してる、その人に存在してることしか、《想像》《創造》は、出来ないんですよね。

 喋ることも。語ることも、出来ないんですよね。喋るには、自己を曝け出してしまってるので、勇気がいるんですよね。

 もともと、正直な綺麗な心の人は、《心配することはない》けど。

 木の枝や、花とか、色んな命のある生物を見て、思うのですけど。

 雲を真似て、木は、形作るなとか。

 虫が、食べられないように、木の葉っぱに似せたり。木の葉っぱが、太陽の方を向きたくなるように。

 自然は、生きるために、工夫して生きてますよね。

 雲の形に似せるなぁと、昔、考えて、思いついたのは、何だっけ?

 木の形じゃ、ちょっとおかしいな!?


 
[307] 2023/04/10/(Mon)17:43:00
名前 Seigo
タイトル アリョーシャの博愛の特徴のこと
本文   追記更新:23/04/11 07:20

ほのかさん、どうも。

うなぎ犬さん、どうも。音楽ボードへの曲の投稿も、ありがとう。


仏教で言う「菩薩」と比較しての、アリョーシャ論や菩薩行論(利他行論)については、興味が尽きません。

アリョーシャは、『白痴』のムイシュキン公爵に似て、相手に信用され愛される人物として、相手に安心と希望を与えて、あくまで相手に寄り添う。彼は、父フョードル、兄のイヴァン、ドミートリイのところへ行って、寄り添う。

そういった彼の利他行は、仏教で言う「菩薩」の利他行とは異なる部分があるが、彼のその博愛の精神自体は、作中の章「ガリラヤのカナ」で得た信仰によってその意志が続くかぎり、やはり、尊くて、すばらしいと思う。

ドストエフスキーについて、思うところがあったら、また、いつでも、投稿してみて下さい。
      
       
[306] 2023/04/09/(Sun)12:38:22
名前 うなぎ犬
タイトル アンチ菩薩
本文 『カラマーゾフの兄弟』を魂の救済の物語として読むなら、ゾシマ長老の死から、不思議な体験を経て、現実社会へコミットして行こうとするアリョーシャの生き方は、菩薩の精神そのものなのかもしれない。

人は他人を救えるだろうか。
人が他人を救えると思う傲慢こそ、人間社会の悲劇の根源ではなかったか。
他人を救おうとすればするほど、救いとは真逆の方向に進む。その無力感。
それこそが、アリョーシャの不思議な体験を補う相補性。
アリョーシャの菩薩の側面とアンチ菩薩の側面が融合してこそ、全人格的な自己実現の完成があるのかもしれない。

アリョーシャは決して凡庸な青年ではない、菩薩としての限界ぎりぎりを生きている非凡な青年である。
[305] 2023/04/06/(Thu)12:35:47
名前 ほのか
タイトル 《一方の立場だけを述べて主張していくのではなくて、》
本文 だから、読者の私は、ドストエフスキイ氏を好きなんでしょうね。

 すぐに気が変わる自分としては。でも、正直。




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