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[414] 2023/06/15/(Thu)15:55:51
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ほのか
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タイトル |
ジイドの講演&寺田透 |
| 本文 |
p179 N4 「ポリフィーリイは、少なくともこのように論文を要約しうると信じています。
すっかりその通りじゃありません。ラスコーリニコフは淡白な、穏やかな口調で始めた。でも、あなたが大体正確に私の思想を再現なさったということは、私も認めます。もし、お望みなら、非常に正確に・・・・・・とさえ申しあげましょう。・・・・・・(彼はこういう言葉を、一種喜ばしそうに発音した。)ただ私は、あなたが私に言わせようと なさっているように、非凡な人間は、絶対に、かならず、あらゆる種類の犯罪行為を遂行する義務があるとは言っていません。そういう意味合いで書かれた論文なら、検閲がありますから、公表させてもらえなかったろうとさえ、信じます。私が提唱したのは全くこれきりのことです。つまり、非凡な人間は、時として全人類にとって有益なものでありうる自分の観念を実現するために必要な場合に限って、自分の良心に、ある種の障害を飛びこえることを許可する権利を持っている。」」
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[413] 2023/06/15/(Thu)15:54:32
| 名前 |
ほのか
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タイトル |
ジイドの講演&寺田透 |
| 本文 |
p178 N3 N2 continue 「われわれは、ドストエフスキーの著書のなかで、彼の扱う主要人物のひとりが、この疑問を自分に呈するのを見るごとに、ややしばらく後に、われわれはその破産に立ちあうだろうという確信を抱くことができます。われわれはまず第一にラスコリーニコフを見ます。つまり、ニーチェにおいて超人の観念となる観念が、はじめて象どられるのは、この人物のうちにおいてなのです。ラスコリーニコフは、いささか破壊的な論文の筆者でありますが、そのなかで彼はこう述べていめす。
人間は平凡者と非平凡者に区別される。第一のものは服従のうちに生きねばならぬもので、彼らが平凡な人間である以上、法を犯す権利はない。第二のものは、これは非凡な人間であるという理由によって、いかなる罪悪をも遂行し、いかなる法律にも違背する権利がある。」
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[412] 2023/06/15/(Thu)15:52:58
| 名前 |
ほのか
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タイトル |
ジイドの講演&寺田透 |
| 本文 |
🎵CAFFE TIME🎶
ドストエフスキー氏から、触発される事は、 【『女の一生』の、モーパッサンではなくて、ドストエフスキー作家の著作総まとめによる『人間の一生』という辞典ですね‼️ ドストエフスキーの文学は‼️。人間、生まれてから死ぬまで、迷惑をかけずに、己を道を行くしかない人生航路】ですねー‼️。 山あり谷ありの人生でも、谷にこそ、三つの層の深部の地帯はけして魂の地獄ではなく、全然逆で、(甘い蜜があり⇔読者私の言い回しですね、読者私のキャッチフレーズですね。)《魂の天国》なのです。《魂の天国がある。⇔読者私の言い回しですね。読者私のキャッチフレーズですね。》
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[411] 2023/06/15/(Thu)15:47:33
| 名前 |
ほのか
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タイトル |
ジイドの講演&寺田透 |
| 本文 |
p178 N2 N1continue 「「ひとりの人間には何ができるか。」この疑問は本来、無神論者の疑問です。そしてドストエフスキーはこのことを見事に理解しました。神の否定ということが、宿命的に人間の肯定を誘発するのだ、と。 「神はないというのか。だとすればその時は、・・・・・・その時はすべてが許される。」こういう言葉をわれわれは『悪霊』のなかに読みます。同じ言葉をわれわれは『カラマーゾフ』のなかにも見出すでしょう。
もし神が実在するなら、何もかも神次第だ。そして僕は神の意志をよそにしてはなんにもすることができない。もし神が実在しないなら、なんだって僕次第だ。そして僕は自分の独立を確認する義務がある。
という風に自分の独立を肯定すべきか。ここに苦悶が始まります。すべては許されている。けれども何が、すべてとは何か。ひとりの人間には何ができるか。」
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[410] 2023/06/15/(Thu)15:46:10
| 名前 |
ほのか
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タイトル |
ジイドの講演&寺田透 |
| 本文 |
p177 N1 N continue
『けれどもニーチェ以来、ニーチェとともに、一つの新しい疑問が持ち上りました。これは全く他の疑問とは違った疑問で ・・・・・・他の疑問の上に接ぎ木されたというよりも、他の疑問をひっくりかえし、それに取って代っています。しかもこの疑問には、それ自身の苦悶が、ニーチェを狂気に導いた苦悶が含まれております。その疑問とは、「人間は何をなしうるか。ひとりの人間には何ができるか。」ということです。この疑問は、人間は他のものでありえたであろう、より異のことをなしえたであろう、またなおそれ以上のことをなしうるであろう、人間は、おのが全うき完成に意を用いずに、不相応に、最初の道程に腰を落ちつけているという恐るべき懸念と表裏しております。 ニーチェはたしかにこの疑問を言い現わした最初の人であったでしょうか。私は強いてそう断言は致しません。それにたしかに、彼の知的形成の研究そのものが、われわれに、すでに彼はギリシャ人たちのあいだ、およびルネサンスのイタリヤ人たちのあいだでこの疑問に出会ったのだということを示すでありましょう。けれどもこの後者のあいだでは、この疑問はたちまちその答えを見出し、人間を実践の領域に狩り立てました。この答えを、彼らは行動と芸術制作のうちに求め、又ただちにそこに見出しました。私の念頭にあるのは、ポルジャ家のアレッサンンドロ、チェザーレであり、フレデリク二世(ナポリ・シチリヤ王国のフレデリク二世)であり、レオナルド・ダ・ヴィンチであり、ゲーテです。これらの人々は創造者であり、卓抜な存在でした。芸術家と行動の人にとっては、超人の問題は課せられません。そうでないまでも少なくもそれはたちどころに解決されます。彼らの生活そのもの、彼らの制作が直接の答えになります。苦悶は、疑問が答えを欠いたままでいるとき、あるいはさらに、疑問が答えよりはるか先に立っているときに、始まります。行動することなく省察し想像する人間は毒せられるものです。そこで私はここで又、ウィリアム・ブレイクを引用しようと思うのですが、それは、「望みはするが、しかし全く行動しない人間は悪疫を生む」というのです。ニーチェはたしかにこの悪疫の毒に犯されて死ぬのです。」
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[409] 2023/06/15/(Thu)15:44:25
| 名前 |
ほのか
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タイトル |
ジイドの講演&寺田透 |
| 本文 |
p177 N 「わたしの着目するところでは(そしてこれによってわれわれは、ドストエフスキーの著書の悪魔的な部分に手をつけることができるようになるのですが)、聖書の翻訳の大部分はこのキリストの言葉をこういう風に訳しています。「彼らに悪の災いを避けしめんとてなり。」となっているのですが、しかしながらこれは同じことではありません。私の申している翻訳は、新教の翻訳です。それは本当です。新教には天使をも悪魔をも考慮に入れない傾向があります。私はかなり度々新教徒に対して実験みたいな具合に、「あなたは堕天使の存在を信じますか。」とたずねてみたことがあります。ところがその都度この問いは、一種茫然自失のていで聞きとられました。大ていの場合私は、新教徒は一度もこんな疑問を自分に出したことがないのだと分りました。新教の信者はしまいにはとうとう、こう私に答えました。「しかしもちろん、私は悪の存在を信じています」、そこで私が問い詰めていきますと、その人はついに、自分が悪のなかに見るのは善の欠如だけだ、それは陰のなかに光の欠如しか見ないのとまったく同様だと白状しました。そこでこうなると、われわれは、現実の、現存する、個別的な堕天使の方を、繰りかえし繰りかえし、仄めかす福音書の原文から遠く離れてしまうことになります。「彼らに『悪魔』の災いを避けしめん。」なのです。堕天使の問題は、あえてこういう言い方をしようとすれば、ドストエフスキーの制作のなかに著大な席を占めています。ある人たちは、彼のうちに、疑いもなく、マーニー教信者を見るでしょう。大異端マーニーの教義はこの世界に二つの原理、善の原理と悪の原理をみとめておりまして、これらは等しく活動的な、独立した、等しく必要欠くべからざる原理であるとされ、ーーこれによってマーニーの教義は直接ゾロアスターの教義に結びついた、ということをわれわれは知っています。われわれの見得たところでは、そして私はこの点を、これこそもっとも重要な点の一つなので、強調すらいたすのですが、ドストエフスキーは、堕天使を人間のうちの下層地帯に住まわせるよりもむしろ、ーー人間全体がその住みかにも餌食にもなりあるのではありますけれど、ーーもっとも高位のの地帯、知的地帯、頭脳の地帯に住まわせております。『悪魔』がわれわれの眼の前に現わす大なる誘惑は、ドストエフスキーの考えによりますと、知的誘惑、疑問、なのであります。そこで私は、まず第一に、人類の恒常不変の苦悩がここに表現されて、又長いあいだ停頓してい疑問、すなわち「人間とは何か。人間はどこからきたのかか。人間はどこへ行くのか。人間は誕生前には何であったか。死後人間は何になるのか。いかなる真理を人間は仰望しうるのか」、いなさらに正確には「真理とは何か」という疑問を考察しても、私は自分の主題から大して遠ざかることになるとは考えません。」
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[408] 2023/06/15/(Thu)15:42:32
| 名前 |
ほのか
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タイトル |
ジイドの講演&寺田透 |
| 本文 |
p176 M10 M9 continue 「彼はこの場合、われわれに何を提案するでしょう。静観の生活でしょうか。人間がすべての知性とすべての意志を断念し、時の外にあって、もはや愛しか知らずにすごすというような生活でしょうか。 彼が幸福を見出すのは多分そこに見出すのでしょう。けれどもドストエフスキーが人間の終末を見るのはそこに見るのではありません。ムイシュキン公爵が、その祖国を離れて、この一段と高い状態に達するやいなや、彼は自分の国に帰りたいという差しせまった要求を感じます。又若いアリョーシャがゾシマ長老に、修道院で自分の生涯を終りたいというひそかな望みを告白すると、ゾシマは彼にこう言います。「この僧院をお棄てになさるがいい。そうすればあんたは向うででもっとお役に立つだろう。あんたの兄さん方はあんたが入り用じゃ。」ーー「彼らを世より奪いとらんとにはあらず、彼らに『悪魔』の災いを避けしめんとてなり。」とキリストも言いました。」
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[407] 2023/06/15/(Thu)15:40:36
| 名前 |
ほのか
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タイトル |
ジイドの講演&寺田透 |
| 本文 |
p176 M9
「ムイシュキンというのは、彼の扱った主要人物全体のうちでもっともよく彼の思想を、むしろ倫理を、ーー少なくもかれが『カラマーゾフ』を書かず、われわれの眼の前にアリョーシャや長老ゾシマなどのセラフィム天使のような姿を示さなかったうちは、ーー具現化した人物です。」
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[406] 2023/06/15/(Thu)15:39:24
| 名前 |
ほのか
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タイトル |
ジイドの講演&寺田透 |
| 本文 |
p176 M8 M7 continue 「そういうわけでして、ドストエフスキーがわれわれを連れて行く先は、無政府状態でないとしましても、一種の仏教、少なくとも一種の寂静の教えなのです。」
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[405] 2023/06/15/(Thu)15:35:03
| 名前 |
ほのか
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タイトル |
ジイドの講演&寺田透 |
| 本文 |
p176 M7 M6 continue 「究極の決定は、私はこれを彼らに委ねます。」
⇔ 【読者感想文】《彼らに委ねます》の《彼ら》は、《カトリック教徒たち》に、委ねるのですね。無政府状態にならないと、断言する人、つまり、ジイド氏自身やドストエフスキーに対して、無政府状態になると叫ぶカトリック教徒の人たち。と‼️ 相容れない考えのことですね。考え至らない人や人達を、同考えに、導くのは、難しい、難解であるとの事でしょうね。
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