ドストエフスキーの「情報・意見」交換ボード
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[434] 2023/06/20/(Tue)09:19:57
名前 ほのか
タイトル ジイドの講演&寺田透
本文 p185
N18
「ドストエフスキーは、個人が自分自身を抛棄するということにしか救いを見ていませんし、想像もしていません。」
[433] 2023/06/20/(Tue)09:18:03
名前 ほのか
タイトル ジイドの講演&寺田透
本文 p185
N17
「超人の問題が彼の手で明確に提出されたとしましても、その問題が陰にかくれて彼の著書の一つびとつのうちに繰りかえし姿を現わすとしましても、われわれは、福音書の真理のみが深く勝利を遂げるのを見るのであります。」
[432] 2023/06/20/(Tue)09:11:54
名前 ほのか
タイトル ジイドの講演&寺田透
本文 p185
N16
「そしてこれが、長老ゾシマがドミトリイの前にひれふし、ラスコーリニコフがソーニャの前にひれふすのを見るとき、彼らはただ単に人間の苦悩の前に身をかがめるのではな
く、罪の前に身をかがめるのでもあると、私に言わせたゆえんなのです。」
[431] 2023/06/20/(Tue)09:10:06
名前 ほのか
タイトル ジイドの講演&寺田透
本文 p185
N15
「しかし私のいうことを信じて下さい、と彼は言いました、
どこの国の民衆も苦悩と、罪の淵に沈まないうち自分自身というものを自覚するに至らないものですし、同様にひとりの個人もそうならないうちは、自分の魂を自覚できないものです。」

[430] 2023/06/20/(Tue)09:08:02
名前 ほのか
タイトル ジイドの講演&寺田透
本文 p185
N14
「ドストエフスキーは一生涯、悪への嫌悪と同時に悪が必要だという観念に責めさいなまれていました。(ここで悪というのは、私としては、同時に苦という意味をもそれに含ませています。)
私は彼を読むと《畑主》の喩えに考えが向いてしまいます。《畑主》にひとりの使用人が言います。」もし汝望まば、われら悪しき草を抜かん。」すると
《畑主》が答えます。「否、よき穀物とともに、刈り入れの日まで、毒麦を生うるがままにまかせよ。

[429] 2023/06/20/(Tue)09:05:39
名前 ほのか
タイトル ジイドの講演&寺田透
本文 p184
N13
「相反するものがなくては進歩がない。牽引と反撥、理性とエネルギー、愛と憎悪は同様に人間の生存にとって必要なものだ。」又もっと先には、「地上にはこの、つねに敵対しあう二つの相反する請願が、つねに存しているし又今後もつねに存するであろう。それらを和解させようとこころみることは、生存の破壊に尽力することだ。」
[428] 2023/06/20/(Tue)09:03:56
名前 ほのか
タイトル ジイドの講演&寺田透
本文 p184
N12
「実際のところ、スタヴローギンの大切にするのは、エネルギーです。ウィリアム・ブレイクにこの不可思議な性格の説明を求めてみましょう。「『エネルギー』こそ唯一の生命である。『エネルギー』、これは永遠の至楽である。」と、ブレイクは言いました。
 その他なお次のような諺に耳を傾けて下さい。「適度への道は叡智の宮殿に通ずる」、あるいは又、「もし狂人がその狂気に固執しつづければ、彼は賢者となるだろう」、又別に、「まず過度を知った人間、十分ということを知るのはそういう人間だけだ。」かようなエネルギーの讃美が、ブレイクにおいては、この上なく多様な形式を帯びます。「獅子の咆哮、狼の叫号、猛り狂う海の高まり、破壊の剣は、それぞれに人間の眼には巨大に失する永遠のかけらである。」

[427] 2023/06/20/(Tue)09:00:29
名前 ほのか
タイトル ジイドの講演&寺田透
本文 p182
N11
「これらの従属者、これらの「猿ども」、これらの下僕全部のうちに、知性人のかわりに行動するこれらの存在全部のうちに、精神の堕天使的優位に対する愛が、献身があります。」

[426] 2023/06/20/(Tue)08:59:31
名前 ほのか
タイトル ジイドの講演&寺田透
本文 p182
N10
「精神は行動しない。行動させるのです」
[425] 2023/06/20/(Tue)08:58:37
名前 ほのか
タイトル ジイドの講演&寺田透
本文 p181
N9


「この前私が引用した彼のあの句ーー彼は、その格言のあるものを『地獄の諺』と呼んでいますが、そのなかから私が引用した「行為があとにつづかぬ欲望は、悪疫を生む」というあの句、又は「澱んだ水には毒ばかりを期待せよ」という他の句は、ドストエフスキーの『地下生活者の手記』の題辞の役をつとめうるでしょう。
 「十九世紀の行動人は性格のない個体だ」と『地下生活者の手記』の主人公(英雄)ーーと彼をあえてこう呼べばですがーーは、断言しています。ドストエフスキーにしたがえば、行動人は凡庸な精神にちがいないのです。と申しますのは、驕慢な精神はそれ自身、行動することを拒まれているからです。彼は行動のうちに、自分の身を危地に陥入れる事柄を、自分の思想の制限を見るでしょう。行動するものは、驕慢な精神の捺印をうける、ピョートル・スチェパノビィッチのような人間、スメルジャコフのような人間ということになりましょう。(『罪と罰』では、ドストエフスキーは、まだ、かような考える人と役割を果す者ののあいだの区分をなりたたせておりませんでした。)」




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