ドストエフスキーの「情報・意見」交換ボード
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[721] 2025/01/15/(Wed)17:31:09
名前 Seigo
タイトル ドストエフスキーの小説の題名をパロる! (19)
本文           
  『キリストのユルキャラに甘やかされし少年』
   ←『キリストのヨルカに召されし少年』
      (76年1月に「作家の日記」に掲載さ
      れた短編。
      クリスマスの夜に孤児となって街を
      さまよい行き倒れて死の眠りに落ち
      た少年が天でキリストの元に召され
      たという話。)

クリスマスの日に思わぬ不慮の事故で昇天した気弱な少年が生前の家族の信仰の篤(あつ)さによって天国のキリストの元に召されたがキリストのユルキャラ(許キャラ)によりさらに甘やかされて脆弱(ぜいじゃく)な少年のままで終わったという話。
         
  
   
[720] 2025/01/13/(Mon)16:03:21
名前 Seigo
タイトル ドストエフスキーの小説の題名をパロる! (18)
本文
   『今際(いまわ)C調の話』
      ←『いまわしい話』
     (『死の家の記録』の連載が終わ
     った年の翌年の62年12月に兄ミ
     ハイルと共同で編集の雑誌「時
     代」に発表された中編小説。
     上司の宴会で飲んで酔った帰り
     に同僚の結婚式に飛び入りで出
     席してその席上で失態をおかし
     て式が台無しになってしまう話。)

忘年会の今際(いまわ)にC調の芸をこいて皆の顰蹙(ひんしゅく)を買った男の話。
    
[719] 2025/01/11/(Sat)08:59:36
名前 Seigo
タイトル ドストエフスキーの小説の題名をパロる! (17)
本文   
   『世はいい所』
      ←『弱い心』
     (シベリア流刑になる年の前年の
     48年2月に「祖国雑誌」に発表
された中編小説。
     河出書房新社の米川正夫訳ドス
     トエフスキー全集では巻2に所
     収。
     得た幸福を自分には身に余るも
     のだと自責呵責の念にとらわれ
     役所の仕事にも粗相が多くなり、
     しまいにはついじ発狂してしま
     う下級官吏の青年の物語。)
     
私たちのこの世は良(い)い場所だと思いながら、幸福恐怖症によりなかなか幸せに辿(たど)り着けない男のもどかしい物語。
   

[米川訳ドストエフスキー全集の巻1~5]
[718] 2025/01/08/(Wed)17:42:03
名前 Seigo
タイトル ドストエフスキーの小説の題名をパロる! (16)
本文      
  『拝み倒さん(おがみたおさん)』
       ←『おかみさん(家主の妻)』
     (シベリア流刑になる年の二年前
     の47年10月・12月に「祖国雑
     誌」に発表された中編小説。
     老人と過ごす若い女性を救い出
     そうとするストーカーの青年の
     ことを描いている。)

ドストエフスキーばりの若い女性の細い綺麗な足先を下方(かほう)から拝み倒すことが大好きな足フェチのストーカー男の物語。
    
   
   
[717] 2025/01/06/(Mon)17:10:32
名前 Seigo
タイトル ドストエフスキーの小説の特徴(17)
本文   ※追記更新 25/01/07 19:43

ドストエフスキーの小説においては、登場人物の心の葛藤を描いていく中で物語の筋(すじ)が展開していく。

そのことを、作家の伊藤整氏は次のように適格に指摘している。

ドストエフスキイの小説においては、人間の心が善から悪にかわり、悪から善にかわる、というその変化と心の戦いのあいだに筋が進行する。それは古い小説においての、善人と悪人がたがいに相手を打ち負かそうとして戦いあう、というあつかいと同質のものである。つまり、古い小説では、善玉と悪玉の対立で物語が書かれたが、新しい小説では人間の心の中の、愛情や我欲の対立と変化を描くことが小説だというふうに考え方も書き方も変(かわ)って来たのである。
[伊藤整著『文学入門』(光文社1954年初版)より。]


従来の物語は、人物が、善玉と悪玉に分かれていて、その争いや戦いで物語が進んでいくが、ドストエフスキーの小説の場合は、個人の内面の善と悪が争い変化していって、個人の内面劇になっているという指摘は実に鋭い。

ドストエフスキー自身も、そのことを、

・わたしは、人間のたましいの奥底をあますところなく描き出しているのだ。
 (「メモ・ノート」より。)
・神と悪魔が闘っている。そして、その戦場こそは人間の心なのだ。
(『カラマーゾフの兄弟』の長男ドミートリイの言葉。)

と述べている。
  

      
     
[716] 2025/01/02/(Thu)17:30:34
名前 Seigo
タイトル <幸福になりなさい――そうすれば、あなたは、立派になれるし、成功できるし、健康にもなれる。そして、他人に対しても、もっとやさしく感じ、やさしくふるまうことができるようになる。 > マックスウェル・マルツ(アメリカの美容外科医)
本文 佐藤さん、
新年早々(そうそう)から、投稿、どうも。

佐藤さんらしいドストエフスキーとドストエフスキー論者の言葉の引用と気の利(き)いた問題提起で、善行・救済・幸福・奇跡・信仰・自己犠牲のこと等、いろいろと考えさせられました。ありがとうございます。

ページ内の更新し投稿した記事に対して気付きなどがあれば、また、いつでも、投稿してみて下さい。今年もよろしく!
       
[715] 2025/01/01/(Wed)22:53:11
名前 佐藤
タイトル <現実主義者にあっては、信仰が奇蹟から生まれるのではなく、奇蹟が信仰から生まれるのである> カラマーゾフの兄弟
本文 Seigoさん

明けましておめでとうございます。
今年もよろしくお願い申し上げます。

かねてより気になっていたのですが、ドストエフスキーについての評論について、白眉とも思える大変優れた書物について紹介させていただきます。
それは、作田啓一著 <ドストエフスキーの世界> 筑摩書房です。
Seigoさんもたぶんお持ちだと思います。

気になっているのは次の箇所です。359Pの以下の記述です。
<ゾシマの思想に従えば、人が天上から地上へ降りてくる時に、「実行的な愛」をたずさえてくるのである。「実行的な愛」は地上から天上へゆくための切符ではない。ここで通りすがりに一言付け加えよう。いくつかの世界宗教の教義を解釈する人びとの中には、善行は必ずしも救済の条件ではない、という主張が時として見いだされる。ゾシマ=ドストエフスキーの主張もそれである。善行は救済の結果であって、条件ではない。>

私も大変気になっていることですが、そもそも信仰の目的は何かということです。自分が救われたいから信仰するというのはもっともなことでしょうが、しかし、そのことだけに執着するとどんな結果になるのか、気になる所です。

本当の救いはそこから逸脱した、他者が救われるのなら、自分はどうなってもよいという自己犠牲の実践にあるのではと思います。
他者のために良い行いをするのは、自分が救われたいからということではなく、自分が救われている結果なのである。という解釈が大切なのかと気付されましたよ。
もっとも気付ただけではだめで、実行しなければね!! 
[714] 2025/01/01/(Wed)07:44:28
名前 Seigo
タイトル 謹賀新年
本文    謹賀新年

     今年もよろしく!
     
[713] 2024/12/31/(Tue)20:01:21
名前 Seigo
タイトル ★グッバイ2024年 ― おかげさまで、今年もお世話になりました。
本文 皆さま、今年も、ページへの来訪、ボードへの投稿、ありがとうございました。感謝します。

今年は、ドストエフスキーの教えを、あらためていろいろと確認しました。大事な教えが数多くあり、今後、自分の生き方において生かしていきたいです。

おかげさまで、来年度も、引き続いて、ページの更新や投稿など、ページの運営を行(おこな)っていけそうです。

良き新年を迎えて下さい。
     
[712] 2024/12/30/(Mon)17:10:16
名前 Seigo
タイトル ドストエフスキーの小説の題名をパロる! (15)
本文   ※追記更新:24/12/31 10:26
      
  『イケ親爺の正夢』
     ←『伯父様の夢』
    (ペテルブルグに帰還する9ヶ月前のセ
     ミパラチンスクで服役していた59年
     3月に雑誌「ロシアの言葉」に発表さ
     れた復帰後の第一作目の長編小説。
     耄碌(もうろく)している大金持ちの
     老公爵(=伯父様)の争奪戦を面白お
     かしく描いている。)

イケ親爺(おやじ)になる正夢(まさゆみ)を繰り返し見て、耄碌(もうろく)親爺でなく、ますますイケ親爺になっていくイケイケ親爺の物語。
   




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