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[776] 2025/06/21/(Sat)16:54:39
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Seigo
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タイトル |
ドストエフスキーの小説の特徴(24) |
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ドストエフスキーの小説では、無神論的な思想を持つ登場人物の言説に対して、作中で、それを批判していく有神論的な登場人物とその言説を設けて、対決させていること。そこには、主人公や読者に向けての作者の教導がうかがわれる。
特に、『罪と罰』『未成年』『カラマーゾフの兄弟』では、ラスコーリニコフ・ソーニャ、ヴェルシーロフ・マカール老人、イヴァン・ゾシマ長老と、それが顕著である。
前回述べた通り、『悪霊』でも、青年たちに対して、回心を遂げるステパン氏の言説が対比されている。
ただ、『白痴』では、後者が前面に出ていて、イポリートの思想が対峙(たいじ)されていると言える。 |
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[775] 2025/06/18/(Wed)18:55:53
| 名前 |
Seigo
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タイトル |
ステパン氏の思想のこと |
| 本文 |
『悪霊』において思想を打ち出している登場人物とその思想として、作中の末部で放浪の末に回心を遂げるステパン氏のそれに改めて注目したい。
ステパン氏は、愛の尊さのこと、美の追求こそあらゆることの原動力であることを力説している。神への愛は神のその人間への愛やその人間の不死を約束するものであった。
また、ステパンは、無神論的な思想や社会活動に走る青年たちを、悪魔が身に入った輩(やから)として、批判する。そして、彼らは、いつか、挫折の後に癒(いや)されなければならない。 それにしても、ピョートルやスタヴローギンがステパン氏の子息であり、家庭教師だった時の教え子だったとは実に皮肉と言うほかない。 |
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[774] 2025/06/10/(Tue)18:05:06
| 名前 |
Seigo
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タイトル |
ドストエフスキーは不死という考えや信仰を得たこと |
| 本文 |
※追記更新:25/06/15 10:15 後半生において、ドストエフスキーは、神の中に不死はあって、神への愛はその人を死んでも滅ぼすことはないと考えて、人間の不死(魂の不滅性)への信仰を得た。
考えとしても、不死があってこそ人は善行ができるということ、不死は罪なく犠牲になった人間にとっての救いとなるということ、不死の考えこそ生命や人間生活の根本原理になりえるということを打ち出したのだった。 ( → その言(げん)は、こちら ) |
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[773] 2025/06/04/(Wed)19:03:47
| 名前 |
Seigo
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タイトル |
ドストエフスキーの小説の特徴(23) |
| 本文 |
※追記更新 25/06/07 09:40
ドストエフスキーの小説では、登場人物同士のやりとりや独白を通して物語が進行する。
登場人物はやりとりや独白の中で自身の過去の出来事や自分の考えや思いを語り、また、他の人のことに言及したり他の人のことを評したりすることで、当人や周囲の人々のことやその面目が見事に示されたりしていく。
これらは、作者が、ある場合は作者の分身として、各登場人物のことに、同情し、各登場人物のことをよく知り、いろいろとわかっているところから来るのだと思う。 |
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[772] 2025/05/31/(Sat)20:12:29
| 名前 |
Seigo
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タイトル |
人間社会と自然界におけるおかしなこと、★Stop Putin & netanyahu Stop War (21)★ |
| 本文 |
※追記更新 25/06/02 07:20
ドストエフスキーは、おかしなこと(滑稽なこと)ということについて、次のように言っている。
おかしなことを探し出したら、この世の中はまったくきりのないものである。 (『白痴』より。)
偏見をもつ人間の目にたとえどう映ろうと、自然界にはこっけいなものなんか何一つないさ。 (『カラマーゾフの兄弟』のコーリャの言葉。)
(語注: ・おかしなこと、滑稽なこと=風変わりで奇妙なこと。)
愚かさや矛盾や分裂を抱えた人間が生活していく場としての人間社会には、おかしなこと(滑稽なこと)が数多くあるという見方は、いかにもドストエフスキーらしい考えだと言えるだろう。
★ ★ ★
最近のおかしなことと言えば、イスラエルのネタニヤフ政権のガザ地区への軍事行動のこと。ガザ地区へ軍事行動をしていく事情や目当ては、ある程度いろいろとわかってきたが、ネタニヤフ政権が、どういうわけで、パレスチナの人々を苦しめ、死傷と破壊を繰り返すこういった非道な蛮行(戦争犯罪)を、ユダヤ教のもとで、平然と行うことができるのか、また、その軍事行動に対して、それをやめさせる世界各国の有効な働きかけが無いのか、おかしなこととして、ほんとに理解に苦しむ。
引き続いているロシアのプーチン政権のウクライナ軍事侵攻も含めて、世界の知恵者たちが結集して、平和的に、外交上等解決策を考えて解決していけないものか? |
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[771] 2025/05/24/(Sat)13:55:13
| 名前 |
Seigo
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タイトル |
松尾芭蕉 VS ドストエフスキー (6) |
| 本文 |
※追記更新 25/05/28 17:30
ドストエフスキーの作中や生涯の場面や内容のうち、松尾芭蕉のそれと似ているぶんを、過去にいくどか挙げてきたが( → こちら )、同様の場面として、『悪霊』でスタヴローギンとの会話の中でキリーロフが語る緑の木の葉のことを、追加して挙げたい。
キリーロフ「私がまだ十ぐらいの頃、冬、私はよくわざと眼を閉じて、緑の木の葉が一枚、葉脈をくっきり浮きたせて、太陽にキラキラ輝いているところを頭に思い浮かべたものでした。私は目を開けて見る、しかしあまり素敵で、とても信じられないほどなので、また閉じてしまうのが常でした。」
スタヴローギン「それはいったい、何かアレゴリー(比喩)ですか?」
キリーロフ「いえいえ。どうしてですか? 私の云うのは比喩なんかんじゃありません。私の言っているのは木の葉です。ただ木の葉です。木の葉は素晴らしい。すべてが素晴らしい。何かもいいです。」
スタヴローギン「何もかも?」
キリーロフ「何もかも。人間が不幸なのは、ただ自分の幸福なことを知らないからです。それだけのこと。断じてそれだけです、断じて! それを自覚した者は、すぐに幸福になる、一瞬の間に。」
上の箇所の中のキリーロフの緑の木の葉の語りには、松尾芭蕉が「おくの細道」の旅で日光東照宮参拝した時に詠んだ次の句が想起され重なったのでした。
あらたふと/青葉若葉の/日の光 (語注:・あらたふと=ああ、尊いことよ。) ※この句の解釈(HP内のぶん) ※なお、同コーナーは、見ての通り、最近、 掲載の芭蕉の名句の数を増やす、ベスト 12を選ぶなど、更新しています。
いずれも、光あふれる中での新緑の青葉の美しさを讃嘆している。キリーロフが思い浮かべて感じ入っているところは、この句を私たちが観賞して感動していることに似ている。
芭蕉の句は東照宮に祀(まつ)られている徳川家康公の御威光も含めて讃嘆しているが、キリーロフもまた、緑の木の葉の美しさにこの世のもののすばらしさを見ようとしている。
自然やこの世の美しさに対する二人の感受性や描写の才には、あらためて感心してしまいます。 |
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[770] 2025/05/21/(Wed)18:21:12
| 名前 |
Seigo
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タイトル |
ドストエフスキーに対する萩原朔太郎の短評 |
| 本文 |
※追記更新 25/05/21 18:40
近代日本の代表的詩人であり、古今東西の知識に通じた博識のすぐれた思想家でもあった萩原朔太郎は、ドストエフスキー文学の人道主義的な面の移入がすすんだ大正期において、ドストエフスキー文学の博愛的贖罪思想に深く傾倒した、日本におけるドストエフスキー受容史上特筆すべき文学者だ。その萩原氏が、ドストエフスキーについて、次のように言っている。
ドストイエフスキイは厖大の闇である。ニイチェは天に届く高塔である。ポオは底の知れない深潭である。この三人は宇宙の驚異で、人力の及び得ない天才である。これ等の「恐ろしきもの」に比べれば、ボードレエルはずっと遥かに人間的で、我等に近い常識を感じさせる。ゲーテは偉大な文学者で、一切を包含する海である。 (途中略) すべて私は、これらの教師から学んだ。 [萩原朔太郎著アフォリズム集『絶望の逃走』より。ちくま文庫『萩原朔太郎の人生読本』にも「偉大なる教師たち」(p106)と題して所収。]
上で、萩原氏は、どういう意味で、ドストエフスキーの作品やドストエフスキーという人物をどういうふうに捉えて、ドストエフスキーのことを「厖大の闇」と言ったのであろうか?
そのあとの「宇宙の驚異」「人力の及び得ない天才」「恐ろしきもの」「人間的・常識」(に反するもの)なども踏まえて、暗さや得体の知れない測りがたい奥行きというニュアンスが込められているのではないかと思うが、同時に、救いや光明も感じられたのなら、「光を孕(はら)む闇」という言い方はできなかったのであろうか?
もう少し真意を知ることができればと思う。
 (※、この本には、ほかにも、ドストエフスキーに言及した萩原氏の文章がいくつか見られる。) |
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[769] 2025/05/19/(Mon)18:54:51
| 名前 |
Seigo
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タイトル |
ドストエフスキーの小説における推敲のこと |
| 本文 |
完成は、付加すべき何物もなくなったときではなく、除去すべき何物もなくなったときに達せられる。 (ドストエフスキーの言葉。※所在、未確認。)
上のドストエフスキーの言葉は所在がいまだ確認出来ていないが、小説の場面の描写に関して言った言葉だと考えてみたい。
ドストエフスキーの小説においては、会話や心理描写がしばしば冗長になるけれども、一方で、大事な場面の描写は簡潔で適格だ。その場面の推敲において、上で言っているやり方を実行しているのだと思う。 |
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[768] 2025/05/17/(Sat)10:39:37
| 名前 |
Seigo
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タイトル |
人間への環境の影響のこと |
| 本文 |
人間観察の大家だったドストエフスキーは、人間への環境の影響について、以下など、しばしば、述べている。
犯罪には《環境》というものが大きな意味を持っている。 (『罪と罰』より。)
土地が変われば、私たちはみんな元気になるだろう。土地が変わるということは、何もかもが変わるということだからね。 (『虐げられた人びと』より。)
自分にまったく縁のない環境で暮らすほど恐ろしいことは、この世の中にまたとあるまい。 (『死の家の記録』より。)
低い天井や狭い部屋は、頭と心を締め付けるもんだよ。 (『罪と罰』より。)
お前の部屋を見せるがいい。そうすれば、お前の性格を言い当てて見せよう。 (※、所在、不明。) |
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[767] 2025/05/14/(Wed)19:48:47
| 名前 |
Seigo
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タイトル |
いまだよくわからないドストエフスキーの言葉(5) |
| 本文 |
※追記更新 25/05/14 21:50
世界を救うのは、道徳でもキリストの教えでもない。ことばは肉体なり、と信じる、その信仰だけが救えるのです。 (トルストイの『わが懺悔』を読んで聞かせてくれたトルストイ夫人に向けて、ドストエフスキーが言った言葉。)
の言っている内容が、いまだ、よくわからない。
ここには、キリスト教・ロシア正教の「ことば」(この世に肉体を持って現れた神としてのイエス・キリストのことば?)というものについての独自で大事な見方が出ているとは思うのだが、世界を救うものとしての信仰とは、トルストイが『わが懺悔』で述べているようなイエスが説いた教えとしての道徳(愛)を実践していくことにあるというよりも、イエス・キリストはこの世に肉体として現れた神だと信ずることだということが言いたいのだろうか?
この方向で考えると、トルストイの別の言葉である、
神の存在を信ずること、人間の幸福はこの一語につきる。 (トルストイの戯曲『生ける屍』より。)
に近いのだろうか?
自分はキリスト教の教えよりも仏教の教えに向かう人間であるけれど、上のドストエフスキーの信仰としての言葉を、今後、もっと理解できていけたらと思う。 |
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