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[681] 2024/10/11/(Fri)17:20:17
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Seigo
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タイトル |
『カラ兄弟』で描こうとしたテーマのこと(7) |
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三人の兄弟の受難と再生を描いていくことを、『カラ兄弟』(正・続)の中心的なテーマとして挙げてよいと思う。
作者は、正編で、ドミートリイ、イヴァン、 アリョーシャの受難を描いた。
アリョーシャは、ゾシマ長老の死をめぐっての信仰の危機と、グルーシェンカの色香の誘惑による身の堕落に飲み込まれそうになったが、ガリラヤのカナにおける天恵が立ち直りのきっかけとなって愛の戦士として出発していく。続編ではアリョーシャのその後のその戦いと活躍を描く予定だった。 なお、アリョーシャは皇帝暗殺に走るという続編の筋が本当なら、それもまた、新たな再生に向けてのアリョーシャの受難と捉えたいと思う。
さらに注目したいことは、続編では、罪を引き受けてシベリヤ流刑となったドミートリイ、及び、父親殺しをめぐって裁判の過程で気がふれてしまうイヴァンのその後の再生も、平行して描く予定だったに違いないということだ。
各々は、グルーシェンカ、カチェリーナ、リーズ(?)の看護や寄り添いを受けて再生し活躍していくのだ。
そういう点でも、続編が描かれずに終わったことが残念でならない。
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[680] 2024/10/05/(Sat)14:46:35
名前 |
Seigo
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タイトル |
ドストエフスキーが描いた登場人物の特徴のこと(5) |
本文 |
次のモーム氏のドストエフスキー論は、ドストエフスキーの小説の登場人物の特徴とそのテーマをよく指摘している。
ドストエフスキーの人物は、自然の暗黒な力と共通なものをもっている。彼らは普通の人間ではない。情熱的で、極端に精神的で、痛ましいほど敏感で、極度の苦悩を経験することができ、何事についても並はずれていて尋常ではない。彼らは神のために悩み苦しむ。その行動は、まるで精神病院の狂人のそれである。だが、彼らの常軌を逸した行動は何かふしぎな意味をもっていると考えられ、そして彼らが、かように(=このように)苦悩を通して自己の本性を暴露しているのは、じつは人間の魂のもつかくされた奥底と、そのおそるべきさまざまな力とを明らかに示しているのだ、ということをしみじみと思わないではいられない。 [サマセット・モーム『読書案内』(西川正身訳・1997年岩波文庫刊)の中の項「ドストエフスキー」より。]
たしかに、ドストエフスキーの小説の登場人物は、世間の常識を逸脱した真面(まとも)とは言えない人物や変人が数多く登場してくる。ドストエフスキーは、彼らの振る舞いや心の動きを描いて、その苦難や苦悩や苦闘、その悲劇や挫折や克服や再生など、その過程と帰結を示すことで、人間の本性や悪性善性を抉(えぐ)り出し浮き彫りにしていった作家だと言えるだろう。
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[679] 2024/09/29/(Sun)18:32:15
名前 |
Seigo
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タイトル |
ドストエフスキーの人間観(8) |
本文 |
※、追記更新 24/10/02 07:20
人間とはどういったものかということを生涯探求し続けたドストエフスキーは、作中でも、登場人物の様子や振る舞いに、そのことをそれとなく、表現している。
悪党の登場人物であっても、善性を持っていて、作中で、不意にそれを垣間(かいま)見せるシーンがあり、読者は心打たれ、人間というものに対する信頼を回復することになる。
ドストエフスキーは、人間の内に、善悪の両方を見た人だった。
★ドストエフスキーの人間観(1〜7) |
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[678] 2024/09/22/(Sun)21:18:43
名前 |
Seigo
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タイトル |
★梅原氏のドストエフスキー論 ― 神無しとなった社会や国家の行く末のこと★、★Stop Putin&netanyahu Stop War (20)★ |
本文 |
※追記更新 24/09/25 07:25
・神無しの人の生活のこと ・神無しとなった人間や社会や国家の営為への危惧
といったドストエフスキーが打ち出した特異なテーマについて、哲学者・評論家の梅原猛(1925〜2019)の次の文章は、上のことを梅原氏がよく理解していたことを示すものとして、大いに共鳴・感心してしまう。
神とは何であるか、人間は神なしに生きられるかどうか。そのような問いが、ドストエーフスキイの中心的な問いであり、すべての人物は、そういう問いを問うための、舞台道具にすぎないのである。もっとも(=とは言っても)、すぐれた小説家ドストエーフスキイは登場人物を、けっして思想のあやつり人物にせず、強い個性と、その内面に矛盾をもった実に生き生きとした人物にせしめてはいるが。私は、彼の小説を読むと、彼の問いは、まだ、答えが出されていないと思う。ドストエーフスキイは、神がないという命題と、神があるという命題の谷間に立っていると思う。彼は、おそらく、存在として、神はないという立場にあるのである。イヴァンは存在としての彼の分身にちがいない。彼自身神を失った文明の中にあった。その文明の恐ろしい帰結を考えつめた人であった。しかし、彼はこの文明の恐ろしい帰結を、知っていればいるほど、彼は、もう一つの命題「神はある」という命題に賭(か)けねばならなかった。私は、アリョーシャは、彼の当為(=あるべき姿)、あるいは、願望であると思う。アリョーシャの立場に立たねば人類は救われないと彼は、思ったにちがいない。小児(しょうに)の如き天使の心が必要なのだと彼は思うが、現実の彼は、天使より、はるかに悪魔であったにちがいない。彼自身の内面にひそむ、天使と悪魔の深い葛藤(かっとう)を通じて、ドストエーフスキイは「神ありや否(いな)や」という問いを問う。一見、この「神ありや否や」という問いは無用な問いのように見える。日本人は、特に戦後の日本人は、合理的な啓蒙主義を信じて、このような宗教的な問いを無用な問いとしてきた。しかし、この問いこそは、おそらく、今後の人間にとってもっとも根源的な問いなのである。なぜなら、神を否定して、人間自身を神の立場にたたすことによって始まった人間の世界計画は、今はっきり、破綻(はたん)の相(そう)を見せはじめたからである。人間は神を殺して、それ自身、神になることはできない。神を殺した人間の罪障のために、人間は、いかなる罰をこうむるや否(いな)や? こういう歴史的状況の前に、ドストエーフスキイは、もっとも現代的な作家としてわれわれの前にあるのである。 (梅原猛・1971年筆「神の問題」より。) [『文芸読本ドストエーフスキー(U)』(河出書房新社1978年初版)に所収。]
ロシアのプーチン政権及びイスラエルのネタニヤフ政権の軍事行動がいまだ継続している。上のドストエフスキーの思想から言えば、彼らは、神へのおそれや自己抑制がなく、モラルや平和への意志を失っているのであり、自己の都合や考えをその強権で絶対化・正当化して、始末に負えない暴挙を続けている。 「神」が現れることのほかには、解決の道はないのだろうか?
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[677] 2024/09/15/(Sun)11:36:29
名前 |
Seigo
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タイトル |
ドストエフスキーが語った徳目(4) |
本文 |
ドストエフスキーは、書簡や『作家の日記』や作中で、人のありたい徳目(とくもく)を語っている。
当ボードやページ内で、これまで、
・節度、時機を弁(わきま)えること ・明るい見方、曇りの無い心 ・希望と理想と情熱を持つこと ・人や事物を愛すること、物事に熱中すること ・生(せい)を大事にし、尊ぶこと
などを挙げたが、さらに付け加えてみるなら、次などが挙げられるだろう。
・笑うこと、笑い方でその人の良さがわかること ・陽気であること ・品位(端麗さ)を身につけること (『未成年』のマカール老人が説いている。) ・よい習慣を身につけること ・物事を意識し過ぎないこと ・正直な良いこと、徳行を行うこと、 ・家族や親しい人たちと心を許しあって仲良く暮らすこと ・心の分裂は信仰によって解消できること
生活や修身において実践したいものばかりだ。 ドストエフスキーは、長年の人間の観察と精進(しょうじん)の中で、物の見方や生き方において堅実化、円熟化していった人だとあらためて思う。
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[676] 2024/09/08/(Sun)19:00:40
名前 |
Seigo
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タイトル |
ドストエフスキーの性格のこと(7) |
本文 |
ドストエフスキーは実際、どういった性格・人柄の人物だったのかということが近年、気になっています。
その性格・人柄はいろいろと指摘できるだろうけれど(こちらなど)、自分が注目しているのは、氏(し)が几帳面だったという点です。身辺はいつも整理整頓されていて、服装もきちんとしていて清潔好きだった。仕事は責任を持って細かく几帳面にやり抜いた。
氏(し)のこれらの性格は、小説の創作の面でも支えや力になっただろうし、自由という問題を抱えていながら氏(し)を生活の上で迷いや混乱や自堕落から少なからず救ったと思う。 |
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[675] 2024/09/02/(Mon)19:29:18
名前 |
Seigo
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タイトル |
ドストエフスキーが描いた登場人物の特徴のこと(4) |
本文 |
ドストエフスキーは、初期より、都会ペテルブルグの片隅で暮らす「死せる生」に大なり小なり陥っている登場人物を繰り返し描いてきた。彼らは、孤独であり、自意識過剰で、多感である。そして、彼らは、心の底で、人や自然の温かさに触れ、和解していく「生ける生」を求めている。 『罪と罰』のラスコーリニコフにしても『カラ兄弟』のイヴァンにしても、作中、充溢(じゅういつ)した生を求めていることを垣間見(かいまみ)せるような印象的なシーンがある。
以上のような面を、ドストエフスキー研究家の中村健之介氏は、次のように述べている。
人間は過敏な内面感覚ゆえに、存在の不快、苦痛をかかえている。生きていることに安らぎがなく、不愉快で、原因不明の敵愾心(てきがいしん)が絶えず湧(わ)いてくる、その不快感や疎外感の解消、世界との和解感の回復、敵愾心から歓(よろこ)びへの脱出、つまりドストエフスキーの言う「死せる生」から「生ける生」への転換が、ドストエフスキーの中心の問題であった。人間が絶えず不安と恐怖に襲われ、内から湧いてくる苛立(いらだ)ちや憎悪をかかえ、そこから逃れたいと常に願っている。そのような人間存在そのものが、ドストエフスキーの根源のテーマなのである。ドストエフスキーの文学はいわゆる教養主義的文学ではない。それは人間の不安や苦痛という普遍的で具体的な事実に根ざし、個々の人間の生存の現実と直接深くかかわっている文学なのである。ドストエフスキーの持つ現代性の核心はここにある。 [中村健之介著『ドストエフスキー人物事典』の「あとがき」より。]
ドストエフスキーの文学の大事な点を指摘していると思う。
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[674] 2024/08/25/(Sun)13:31:37
名前 |
Seigo
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タイトル |
スタヴローギンのこと |
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最近、また、『悪霊』のスタヴローギンについて、いろいろと考えていて、過去に議論された投稿記事(こちら)を読み返したりしているのですが、 スタヴローギンについての理解で、しっくり来るのは、作家の椎名麟三氏の次のスタヴローギン論の文章だ。
つまりスタヴローギンは知性が考え得るすべてを考えたが、結局は何もなかったのである。つまり生きる意味を見いだすことができなかったのである。とどのつまりの虚無。そういうわけなのだ。だが、虚無に投げ込まれた人間は、あらゆ可能性であると同時にあらゆる不可能性なのである。いいかえれば何でもできるのであるが、同時に何もできないということなのである。たとえ何かができても、意味のないくだらないことだけなのだ。 ―途中、略― 虚無は、ついに彼を食い荒(あら)してしまった。彼は、死ぬより救われる道はないだろう。しかし死は救いであろうか。彼にとってはもはや死さえも無意味であるはずだ。それにもかかわらず彼は自殺した。しかしえらい批評家たちの説に反して申訳(もうしわけ)ないが、彼は死を遊んだだけなのだ。しかも無意味である故に、その遊びは退屈な遊びに過ぎなかったのである。 〔椎名麟三『私のドストエフスキー体験』(教文館1967年刊)より。〕
ドストエフスキーの作品、特に『悪霊』のことをよく理解していた椎名麟三氏ならではの文章だ。
知性や胆力は優れているが、愛されて愛する、信頼する・信じるといった行為ができていなかったため、何も信じることができない人間、落ち着いた真面(まとも)な生き方を喪失してしまった人間の悲劇と末路をドストエフスキーは描いていると思う。
[ロシアのテレビドラマ『悪霊』よりスタヴローギン。] |
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[673] 2024/08/17/(Sat)16:18:46
名前 |
Seigo
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タイトル |
★このたびの台風等のこと★、★Stop Putin&netanyahu Stop War (19)★ |
本文 |
※追記更新 24/08/20 07:42
このたびの台風・南海トラフ地震に関する気象庁やマスメディアの予報の報道や注意の過剰さ・大仰(おおぎょう)さには、正直、目に余るものがあります。今後、報道や注意には規制や自粛が必要であり、事実通りの適正な報道や注意喚起を願いたい。
それにしても、このたびも、ハーモニーズとハーモニー宇宙艦隊の働きかけがあり、台風5〜8号や、8日の宮崎の日向灘地震(その北のこちら大分市は震度4の揺れがありましたが大丈夫でした)は、弱体化・進行制御されて、その被害もかなり軽減されました。ほんとに、ありがたいことです。今後もよろしくお願いしたい。
また、ロシアのプーチン政権やイスラエルのネタニヤフ政権の軍事行動も続いている。政権維持等のために軍事行動に出て人命と世界の平和を脅(おびや)かし続けていて、ほんとに、もう、いいかげんにしてもらいたいものだ。 |
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[672] 2024/08/17/(Sat)11:22:17
名前 |
Seigo
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タイトル |
ゲーテ、シェークスピア、バルザック等の影響のこと |
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ドストエフスキーは学生時代から読書家であり、聖書は別格として、ゲーテ、シェークスピア、バルザックの文学や思想や生き様に親しんだことは、小説の題材を与えただけではなく、ドストエフスキーが、ペシミストや厭世家でなくて、プラス思考の人、情熱家、人間洞察の人になっていくのに大いに貢献したのではないかと思う。 また、スウェーデンボルグの霊界通信などの著作に接したことは、ドストエフスキーの人間の生(せい)の永遠性の考えに決定的な影響を与えたと言えるだろう。 |
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