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[675] 2024/09/02/(Mon)19:29:18
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Seigo
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ドストエフスキーが描いた登場人物の特徴のこと(4) |
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ドストエフスキーは、初期より、都会ペテルブルグの片隅で暮らす「死せる生」に大なり小なり陥っている登場人物を繰り返し描いてきた。彼らは、孤独であり、自意識過剰で、多感である。そして、彼らは、心の底で、人や自然の温かさに触れ、和解していく「生ける生」を求めている。 『罪と罰』のラスコーリニコフにしても『カラ兄弟』のイヴァンにしても、作中、充溢(じゅういつ)した生を求めていることを垣間見(かいまみ)せるような印象的なシーンがある。
以上のような面を、ドストエフスキー研究家の中村健之介氏は、次のように述べている。
人間は過敏な内面感覚ゆえに、存在の不快、苦痛をかかえている。生きていることに安らぎがなく、不愉快で、原因不明の敵愾心(てきがいしん)が絶えず湧(わ)いてくる、その不快感や疎外感の解消、世界との和解感の回復、敵愾心から歓(よろこ)びへの脱出、つまりドストエフスキーの言う「死せる生」から「生ける生」への転換が、ドストエフスキーの中心の問題であった。人間が絶えず不安と恐怖に襲われ、内から湧いてくる苛立(いらだ)ちや憎悪をかかえ、そこから逃れたいと常に願っている。そのような人間存在そのものが、ドストエフスキーの根源のテーマなのである。ドストエフスキーの文学はいわゆる教養主義的文学ではない。それは人間の不安や苦痛という普遍的で具体的な事実に根ざし、個々の人間の生存の現実と直接深くかかわっている文学なのである。ドストエフスキーの持つ現代性の核心はここにある。 [中村健之介著『ドストエフスキー人物事典』の「あとがき」より。]
ドストエフスキーの文学の大事な点を指摘していると思う。
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[674] 2024/08/25/(Sun)13:31:37
名前 |
Seigo
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スタヴローギンのこと |
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最近、また、『悪霊』のスタヴローギンについて、いろいろと考えていて、過去に議論された投稿記事(こちら)を読み返したりしているのですが、 スタヴローギンについての理解で、しっくり来るのは、作家の椎名麟三氏の次のスタヴローギン論の文章だ。
つまりスタヴローギンは知性が考え得るすべてを考えたが、結局は何もなかったのである。つまり生きる意味を見いだすことができなかったのである。とどのつまりの虚無。そういうわけなのだ。だが、虚無に投げ込まれた人間は、あらゆ可能性であると同時にあらゆる不可能性なのである。いいかえれば何でもできるのであるが、同時に何もできないということなのである。たとえ何かができても、意味のないくだらないことだけなのだ。 ―途中、略― 虚無は、ついに彼を食い荒(あら)してしまった。彼は、死ぬより救われる道はないだろう。しかし死は救いであろうか。彼にとってはもはや死さえも無意味であるはずだ。それにもかかわらず彼は自殺した。しかしえらい批評家たちの説に反して申訳(もうしわけ)ないが、彼は死を遊んだだけなのだ。しかも無意味である故に、その遊びは退屈な遊びに過ぎなかったのである。 〔椎名麟三『私のドストエフスキー体験』(教文館1967年刊)より。〕
ドストエフスキーの作品、特に『悪霊』のことをよく理解していた椎名麟三氏ならではの文章だ。
知性や胆力は優れているが、愛されて愛する、信頼する・信じるといった行為ができていなかったため、何も信じることができない人間、落ち着いた真面(まとも)な生き方を喪失してしまった人間の悲劇と末路をドストエフスキーは描いていると思う。
[ロシアのテレビドラマ『悪霊』よりスタヴローギン。] |
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[673] 2024/08/17/(Sat)16:18:46
名前 |
Seigo
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タイトル |
★このたびの台風等のこと★、★Stop Putin&netanyahu Stop War (19)★ |
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※追記更新 24/08/20 07:42
このたびの台風・南海トラフ地震に関する気象庁やマスメディアの予報の報道や注意の過剰さ・大仰(おおぎょう)さには、正直、目に余るものがあります。今後、報道や注意には規制や自粛が必要であり、事実通りの適正な報道や注意喚起を願いたい。
それにしても、このたびも、ハーモニーズとハーモニー宇宙艦隊の働きかけがあり、台風5〜8号や、8日の宮崎の日向灘地震(その北のこちら大分市は震度4の揺れがありましたが大丈夫でした)は、弱体化・進行制御されて、その被害もかなり軽減されました。ほんとに、ありがたいことです。今後もよろしくお願いしたい。
また、ロシアのプーチン政権やイスラエルのネタニヤフ政権の軍事行動も続いている。政権維持等のために軍事行動に出て人命と世界の平和を脅(おびや)かし続けていて、ほんとに、もう、いいかげんにしてもらいたいものだ。 |
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[672] 2024/08/17/(Sat)11:22:17
名前 |
Seigo
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タイトル |
ゲーテ、シェークスピア、バルザック等の影響のこと |
本文 |
ドストエフスキーは学生時代から読書家であり、聖書は別格として、ゲーテ、シェークスピア、バルザックの文学や思想や生き様に親しんだことは、小説の題材を与えただけではなく、ドストエフスキーが、ペシミストや厭世家でなくて、プラス思考の人、情熱家、人間洞察の人になっていくのに大いに貢献したのではないかと思う。 また、スウェーデンボルグの霊界通信などの著作に接したことは、ドストエフスキーの人間の生(せい)の永遠性の考えに決定的な影響を与えたと言えるだろう。 |
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[671] 2024/08/15/(Thu)18:03:57
名前 |
Seigo
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タイトル |
ドストエフスキーの文学の良い点(7) |
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※追記更新 24/08/16 19:34
ドストイエフスキイの独自性は、透徹な直感を以(もっ)て霊肉の秘密を掴(つか)み出して、人生を精細に観察し解剖したのみでなく、彼には民族及び人類の運命に対する神経質な焦慮があり、彼が霊肉の辛辣(しんらつ)な争闘の中に、常により高きものに憧(あこが)れ、厭(あ)くなき渇望を以(もっ)て苦しい葛藤(かっとう)の中に神性を探し求め、外部及び内部のあらゆる障碍(しょうがい)と悪戦苦闘をしながら、遂(つい)に宇宙の魂に味到して、海の如(ごと)き広き愛の領域に肉迫した点にあるのである。 ―途中、略― ドストイエフスキイが人類愛に到達するまでには、永い苦しい争闘の過程を踏まなければならなかった。彼もまた我々と同じく、肉と本能とに弄(もてあそ)ばれて人生の迷路を永い間、さ迷ったのである。 [新城和一『ドストイエフスキイ―人・文学・思想』(愛宕書房1943年初版)の「序言」より。]
上の新城和一氏のドストエフスキー論においては、
・堕落したり、善悪・霊肉に引き裂かれたりしている登場人物も、その苦しみと葛藤の中で、罪意識と、より高きもの、善なるものへの思いを持(じ)していることをドストエフスキーは描いていること(『罪と罰』のマルメラードフ、『カラマーゾフの兄弟』のドミートリイなど)
・その苦しみと葛藤の中で、登場人物もドストエフスキー自身も、広い、深い愛の境地・精神に至っていること(『未成年』のマカール老人、『カラマーゾフの兄弟』のアリョーシャ・ゾシマ長老など)
というドストエフスキーの文学の良い点を指摘していて、心打たれるものがあります。 |
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[670] 2024/08/09/(Fri)17:18:21
名前 |
Seigo
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ドストエフスキーの小説の特徴(16) ― ドストエフスキーはあらゆるジャンル・内容を描いた? |
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※追記更新 24/08/11 13:47
小説のジャンル・内容・登場人物・手法が多岐にわたること。
作家の庄司薫さんの言葉だったと思うが、ドストエフスキーの小説は、あらゆるジャンルに渡っていて、描かなかったものがない、といったことを述べた文章に以前接したことがあった。それを聞いて、え、ほんとにそうかな、とその時は思ったが、描くことが無かったとされる歴史小説、自然豊かな田園物語、戦争小説・冒険小説・海洋小説・スポーツ小説・グルメ小説等についても、作中にそれに類した内容やシーンを持つ作品を挙げることはできるように思う。
主なものを列挙してみると、
・恋愛小説(三角関係、四角関係)、失恋や浮気や嫉妬を扱った小説 ・レズやホモが出てくる小説、官能的な描写を含む小説 ・夫婦を扱った小説、親子や兄弟を扱った小説、家庭小説 ・少年たちの物語、少年たちのイジメを扱っている物語 ・犯罪小説、推理小説、裁判を扱った小説、ミステリー小説 ・監獄生活を描写した小説 ・社会小説、社会革命を扱った小説 ・心の病を描いた小説、サイコパス小説、 ・ホラー小説 ・幻想小説、ファンタジー ・寓意小説、風刺小説 ・ユーモア小説 ・シュールな小説 ・SF的ユートピア小説 ・ギャンブルを扱った小説 ・音楽家や音楽のことが出てくる小説 ・手紙、ピストル、ナイフ、絵、夢、死、出産、料理、祭、火事、札束、遺産相続、決闘、暗殺、自決、紙細工、楽器、当時新しく現れたもの(鉄道など)、等が出てくる ・いろんな階層・社会・性格の人物と老若男女の登場、生き物(犬・ワニ・蠅・ウイルスなど)の登場
といったジャンル・内容・シーン・小道具・登場人物だけでなく、
・三人称小説、一人称独白体小説 ・往復書簡体小説 ・リアリズム描写、幻想的な描写 ・フィクション、ノンフィイクション ・メタ小説
といった手法・形式などの面でも、ドストエフスキーは、作家として、いろんなことに取り組んでいると言えるだろう。
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[669] 2024/08/05/(Mon)17:59:24
名前 |
Seigo
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晩年にかけてのドストエフスキーの心の安定(安らぎ)のこと |
本文 |
書簡での発言や『カラマーゾフの兄弟』のゾシマ長老の教えにも窺(うかが)われるように、後半生、晩年にかけて、キリスト・神への信仰によって、氏の心や精神は落ち着きと安らぎを得ていたのではないかと、近年、思えてならない。
我が子の不幸やてんかんなどの病苦に苦しんだり、取り組んだ各テーマや懐疑が未解決のままだったりということはあっただろうが、そういった悲痛や問題の一切を、そのまま引き受けて認めていくといった境地を、神やキリストへの信仰や、愛や謙抑の精神で、ドストエフスキーは得ていた。死後の人間の霊魂の存続という考えや、アンナ夫人の存在と支えも、それに寄与したに違いない。『未成年』と『カラマーゾフの兄弟』は、そういった中で、安定して制作されていった。
いちいち選択して生きていくことの難しさということに対して、『白痴』のムイシュキン公爵の「それでもやはり、何かそうとばかりも信じられない。時には、誰よりも賢い生活ができそうな気もします。」という述懐も、このあたりの信仰のことに関係してくるのだろうと思う。 |
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[668] 2024/08/01/(Thu)17:44:24
名前 |
Seigo
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ドストエフスキーの重要な事跡(7) |
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※追記更新 24/08/02 07:40
『罪と罰』の制作から、小説の制作は、妻となるアンナ夫人の協力のもと、彼女との二人三脚で行われるようになったこと。
深夜の内容練り・下書き、翌日の彼女との口述筆記、文章起こし・推敲・清書等のその創作の過程・行い方は、娘エーメの見聞を中心に、ページ内のこちらに、まとめています。 (ロシア制作のドストエフスキーの生涯を描いたドラマ「ドストエフスキー」では、アパート住まいの一部屋でソファーに腰をすえて夫婦で口述筆記を行うシーンが出てきます。こちらの38:20〜など。)
思うに、 まず、日々、口述して速記で筆記してもらい、普通の文章に起こしてもらい、推敲を加えたのちに、清書してもらったことは、創作の過程の時間や労力の軽減になったこと、定期的に長編を制作し発表できるようになったことは確かだろう。
人に邪魔されずに集中して内容を練(ね)ることができるように一人になれる静かな深夜に創作したのであろうが、机上に2本の蝋燭を灯して行うこの深夜の時間帯の書斎の場の雰囲気は彼の小説の内容に微妙な影響を与えているだろうし、明け方近くまで起きている夜型の生活は彼の身体の健康にとって好ましくなかったに違いないだろう。
翌日の昼間に愛する妻に向けて口述するという形式も、登場人物の語りは各々の登場人物に乗り移ったような熱い語りになっただろうし、ドストエフスキーの語りの上手さが充分生かされたに違いない。
アンナ夫人は、『白痴』の制作の際など、夫の小説の展開を聞きながら、気付きやアドバイスを述べるなど、口を挟(はさ)んだこともあったらしい。そうなると、夫人は作品の内容にまでも関わったと言えるだろう。
以上の点をはじめ、小説の創作のこの形式・パターンが、彼の創作する小説や彼自身にどういった影響を与えたのか、あらためていろいろと検討してみたい。
ドストエフスキー記念館の書斎の机上の様子 |
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[667] 2024/07/27/(Sat)11:12:40
名前 |
Seigo
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映画『男はつらいよ』と『白痴』 |
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※追記更新 24/07/27 21:17
寅さんの映画『男はつらいよ』シリーズには、主人公の設定をはじめ、ドストエフスキーの小説『白痴』との類似点が少なからず見られる。
寅さんは、旅から戻ってきては、わけありの見目麗(みめうるわ)しい女性に惚れ込み、しまいには失恋して、また、旅に出る。親族のおじちゃん・おばちゃんがいて、戻ってきては、そこに住み込み、一騒動を起こしては、おじちゃんから「馬鹿」呼ばわりされる。やくざな江戸っ子の面やハンサムではない面など、キャラは異なる部分もあるが、以上の点や、その無私無欲の優しさ・献身や、皆から愛される点、話し好きな面など、寅さんの境遇や性格は、『白痴』のムイシュキン公爵のそれに似ている。( 妹のサクラさんの設定などは、『白痴』にはない。)
寅さんが言った言葉には、『白痴』のテーマに触れているものが見受けられる。
「もうこの人のためだったら命なんかいらない、もう俺、死んじゃってもいい。そう思う。それが愛ってもんじゃないかい。」
ある程度『白痴』を踏まえたのか、映画『寅さん』の原作者に聞いてみたいものだ。
★関連の過去の投稿記事 ・ドラマ「JIN-仁-」とドストエフスキー『白痴』 |
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[666] 2024/07/24/(Wed)17:29:11
名前 |
Seigo
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タイトル |
登場人物の発する人間の生をめぐる真実の思いに心打たれること |
本文 |
なんという真実だろう! ああ、なんという真実の声だろう! [『罪と罰』より。死刑囚の言葉を挙げ、その言葉に対するラスコーリニコフの評言。]
ドストエフスキーの小説の作中で、登場人物が不意に発する発言に、私は、人間やその生をめぐっての真実の思いを感じ取って、心打たれてきました。
『カラマーゾフの兄弟』では、ドミートリイの発言、グルーシェンカの発言、フョードルの発言、『罪と罰』では、ラスコーリニコフの発言、マルメラードフの発言、、等々。
それは、その登場人物が抱いてきた思いであり、人間観察を続けてきた作者ドストエフスキーの思いであったのでしょう。ドストエフスキーは、作中に、そういった真実の声(叫び)を入れることを意図的に行なったように思う。
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