ドストエフスキーの「情報・意見」交換ボード
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[690] 2024/11/11/(Mon)17:15:28
名前 Seigo
タイトル 日本のドストエフスキー論者(選・5氏)
本文    
これまで読んできた日本のドストエフスキー研究家のドストエフスキー論の中では、次の5氏のぶんがよい。


亀山郁夫
 ・など 

中村 健之介
 ・など

勝田 吉太郎
 ・など

清水孝純
 ・など

川喜田 八潮
 ・など


ドスト氏の作品や思想の大事な面を指摘していて、大いに感心する。

今後も、様々なドストエフスキー論に触れて、ドスト氏の作品・思想・人物像の理解を深めていけたらと思う。


   
[689] 2024/11/09/(Sat)10:30:27
名前 Seigo
タイトル ドストエフスキーの小説の 題名をパロる! (6)
本文     
  『犯した人間の埋め合わせ』
      ←『おかしな人間の夢

夢の中で原始の楽園にいた人たちを堕落させ、その犯した罪の埋め合わせのために、目を覚ましてからは自殺をやめて今度は現世の人たちを教導しようと決意する男の物語。





※、ドストエフスキーの小説の題名をパロる!(1〜5)
     
   
[688] 2024/11/06/(Wed)20:03:35
名前 Seigo
タイトル ドストエフスキーの言葉(35)
本文 人間のできる唯一のことは、自分自身が精神的に成長することです。


出所がいまだ確認できていないこのドスト氏の言葉については、「自分自身が精神的に成長すること」が「人間のできる唯一のこと」だという捉え方が私には今一つわからずにいたけれど、ともかくも、物事は思い通りにはいかないことが多くて、取り組んだことの結果はよくなくても、人はその過程における取り組みや受けとめ・反省を通して精神的な成長はしていけるのだと言っているように思う。ドスト氏は、日々の取り組む仕事や出来事において自己が精神的に成長していっていることを常に自覚していた人だと思う。
    
 
    
[687] 2024/11/04/(Mon)18:41:42
名前 Seigo
タイトル 『海辺のカフカ』と『カラマーゾフの兄弟』
本文 Amazonで亀山郁夫氏の小説『新カラマーゾフの兄弟』のレビューに目を通していたら、

また「新カラマーゾフの兄弟」に「海辺のカフカ」を感じるのもわかります。「海辺のカフカ」は村上春樹さんの「カラマーゾフの兄弟」であり父殺しの物語だと思うからです。

という書き込みがあった。

自分は以前『海辺のカフカ』(2002年刊行)は読んだが、たしかに、主人公田村カフカが父親からの虐待から家出をして、行き着いた町で父親が殺害されることを知るという内容は、『カラ兄弟』の父親殺し(及び父親を殺害されたドスト氏の実体験)の内容に似ている。

ドスト氏の小説に少なからず関心を向けていた村上春樹氏はいつか『カラ兄弟』のようなものを書いてみたいと言っていたことから、『海辺のカフカ』に『カラ兄弟』の内容を盛り込んでみたのであろうが、『カラ兄弟』の大事なテーマや内容を大幅に本格的に盛り込んだ小説とは言えないのではないかと思う。

『海辺のカフカ』より前の村上氏の知られた長編小説(『羊をめぐる冒険』『世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド』『ねじまき鳥クロニクル』『神の子どもたちはみな踊る』等)も含めて、その後、村上氏は、さらに長編小説を上梓してきたが、いまだ、そういった『カラ兄弟』のような小説は、現れていない。
村上氏はすでに75歳の老境に至っているが、昨年長編『街とその不確かな壁』を刊行するなど作家としての力量や威勢はいまだ衰えていないと思うので、今後、その志をあきらめることなく、ぜひ『カラ兄弟』のような小説を残してもらいたいものだ。

ちなみに、
先日、フランツ・カフカの断片集に目を通していたら、
 海辺の貝殻のようにうつろで、ひと足で
 ふみつぶされそうだ。
という文章に出会った。「海辺のカフカ」という題名はこのカフカの文章に基づいているのかな?






   
[686] 2024/11/02/(Sat)11:56:42
名前 Seigo
タイトル 小説の完成へ向けてのこと ― ドストエフスキーの言葉(34)
本文 ドスト氏の名言を載せているページにあった言葉であり、どの時期のどの作品の中の言葉なのかいまだ確認できていませんが、ドスト氏は、

完成は、付加すべき何物もなくなったときではなく、除去すべき何物もなくなったときに達せられる。

という言葉を残している。

抽象的な文であり、私には具体的に何のことを言っているのか、よくわからないでいたが、先日の投稿でドスト氏の作中の場面描写の簡潔さに注目したこともあり、この文章は、小説の完成、特に、小説の本文の完成に向けての推敲の段階のことを述べているのではないかと思う。

ドスト氏には、ほかに、

私の場合でも、ある場面が頭に思い浮かぶが早いか、待ってましたとばかり、心に浮かんだままに書きくだします。それですっかり嬉(うれ)しくなってしまうのです。さてそれから、数ヶ月、あるいは一年もかかって、それに手を加えます。つまり私はその場面について、一度だけではなく、何度でもインスピレーションを受け直すのです(なぜならば、私はその場面を愛しているからです)。これまでずっとやってきたように、私は何度でもここを 削ったり、あすこへ付け加えたりするのです。そして、正直な話、ずっとよいものができあがります。もちろん、 これはインスピレーションがあっての上です。インスピレーションがなくては、なにひとつできるものではありません。
(1858年5月31日付けの兄ミハイル宛の手紙より。シベリヤ服役の末期頃の言。)

と述べていて、上の文中の「除去する」は、この文中の「削ったり」に該当すると言えるだろう。

日本では志賀直哉の作中の簡潔な文体に似て、ドスト氏の作中の大事な場面の描写が簡潔であるのは、この長い間、完成へ向けて余分な言葉や言い回しを削りに削っていく推敲を重ねた結果だろうと思う。


※、近年は投稿において「ドストエフスキー」という言い方を採用していましたが、今回より、投稿においては、以前使っていた「ドスト氏」という言い方を用いることにしました。
   
[685] 2024/10/30/(Wed)19:36:41
名前 Seigo
タイトル 感覚を重視した作家であること
本文   ※追記更新 24/11/03 19:00

感覚というものは知力には従わない。
(『虐げられた人びと』より。)

感情は絶対的なものである。なかでも嫉妬はこの世の中で最も絶対的な感情である。
(『永遠の夫』より。)

偉大な思想は偉大な知性からよりもむしろ偉大な感情から生まれる。
(『永遠の夫』より。)

思想は感情のなかから生まれる。そしてその思想が人のうちに根をおろすと、今度は新しい感情を形成する。
(※所在未確認)


ドストエフスキイの思想は、理論が無能になるところでもっともよく生きる思想である。 彼が「感覚」という言葉を愛用する作家であること、感覚に根底をもたぬどんな思想もドストエフスキイの真面目な対象にならないということは強調されすぎることはない。
[桶谷秀昭『ドストエフスキイ』(河出書房新社1978年初版)の「あとがき」より。]


上のドストエフスキーの言葉や文芸評論家・桶谷秀昭氏の言葉が述べている通り、ドストエフスキーは、感覚(及び感情)を重視した作家であり思想家であったとあらためて思う。

たしかに、『罪と罰』のラスコーリニコフをはじめ、作中で、ドストエフスキーは登場人物が感覚を覚え、感覚に突き動かされ、感覚に振り回されていることをしばしば描いている。
ドストエフスキーの思想においても、桶谷氏が言うように、ドストエフスキーの思想は、観念的なものではなくて、体験的なあるいは想像的な「感覚」が基(もと)になっているという点にもっと注目してみたい。

ドストエフスキー研究家の中村健之介氏も、桶谷氏の見方に沿うものとして、感覚というキーワードを用いてすぐれたドストエフスキー論を展開している。




   
[684] 2024/10/27/(Sun)12:14:14
名前 Seigo
タイトル ニヒリズムの到来と克服の道を示したこと
本文   ※追記更新:24/10/29 17:57 

「何もかもみんな放火だ! これはニヒリズムだ。もし何か燃えてるとすれば、それはつまりニヒリズムなんだ!」 ― 途中略― 「一体あれはあすこで何をしてるんだ?」「消しておるのでございます、閣下。」「いや、そんなはずはない。火事は心の中にあるのだ、家の屋根の上じゃない。あの男を引きずりおろせ。」
[『悪霊』より。町の火事場に現れたレンプケ市長が叫んだ言葉。]


彼(=ドストエフスキー)は、ニヒリズムの意義を同時代人の誰よりも早く、そして鋭く認識していた。宗教哲学的に考察すれば、彼の思考の中心を占めているものは、虚無主義であり、そこに彼は自己の時代の巨大な問題を見た。それゆえ、幾度も繰りかえし新たに彼はその問題と取り組んだのである。虚無主義の問題との対決が、ドストエフスキーの文学作品に独特な性格を与えている。
[W・ニック『ドストエフスキー』より。]

私は、ドストイエフスキイの作品を通して、自分の心に芽生えていたニヒリズムを、その究極の深さにおいて開示されるとともに、その底を割って開かれる雄大荘厳な宗教の世界に出逢わされたのである。これは私の生涯にとって決定的な意味を持つ事柄であった。
[久山康「ドストイエフスキイの魅力」より。]


パスカル、キルケゴール、ニーチェと並んで、ドストエフスキーは、近代社会におけるニヒリズムの到来を鋭く感じ取っていた人だった。

近代においてニヒリズムが生じてくる事情として、近代の科学や自我の進展の中で、価値が多様化して、神の喪失、善悪の喪失を招いたことが指摘できるだろうが、ドストエフスキーは、そういった事情をも洞察していた。

そして、五大長編において、『悪霊』のスタヴローギンなど、ニヒリズムに陥っている人物の精神状況とその悲劇的末路を描き、かつ、一方で、ニヒリズムの克服の道を示していったことが、パスカル・キルケゴール・ニーチェらとの違いと言えるだろう。

生を愛すること、愛の実践、熱中・情熱、信仰など、ドストエフスキーが示したニヒリズムの克服の道をもっと学び、生かしていきたいと思う。


[W・ニック著『ドストエフスキー』(信太正三・工藤喜作訳。理想社1964年初版。)]
      
[683] 2024/10/20/(Sun)13:36:42
名前 Seigo
タイトル 作中の場面描写のこと
本文 ドストエフスキーの小説は、登場人物の会話や独白の面では冗長であるが、一方、時々出てくる場面・動作・情景、大事な場面の描写は、会話とは裏腹(うらはら)に簡潔で、適格で、素晴らしいものがある。

これは、そういった場面に関して氏がいくども削りに削っていく推敲を行なったからであろうが、氏の類まれなリアリズム描写の文才を示すものだろう。

そういった場面描写をもっと多用した作品をもっと残してほしかったと思う。


   
   
[682] 2024/10/18/(Fri)07:23:41
名前 Seigo
タイトル ゾシマ長老の教え(5) ― 愛を伴う謙抑のこと
本文    
『カラ兄弟』においては、アリョーシャが編んだゾシマ長老の教説の箇所にあらためて注目したい。

ゾシマ長老の説く教えについては、罪の自覚の教えやゆるしの教えや克己の教えと並んで、愛の実践の教えが中心になると思うが、ゾシマ長老の愛について独自に述べた次の言葉は私にはいまだ気になっている。

愛をともなう謙抑は恐ろしい力である。あらゆる力の中でも最も強いもので、他にその比がないくらいである。
(語注: ・謙抑=謙虚で控え目であること。)
(『カラマーゾフの兄弟』の第6編第3のゾシマ長老の言葉。)


ゾシマ長老が言う「あらゆる力の中でも最も強いもの」としての「愛をともなう謙抑」は、私には、傲慢な愛ということなどと比較することでなんとなくわかるような気がするが、完全にはわからないところもある。

マハトマ・ガンジー氏も、
 愛はこの世でもっとも効果的な力だ。にもかかわらずもっとも謙虚である。
と似たようなことを述べているが、成し遂げていく力となるというよりも、控え目で目立たないながら相手へのその込めた愛の真心が相手を感動させていくということなのだろうか。

なお、
『新約聖書』の「コリントの信徒への手紙」に、
 愛は自慢せず、高ぶらない。
  (第13章より。)
とあり、ドストエフスキー独自の考えというよりも、キリスト教の愛の考えからの影響があるようにも思う。

ともかくも、力としての大事な愛の形を述べている言葉だと思うので、今後、この言葉に対する理解をもっと深めていけたらと思う。


[この分厚(ぶあつ)い一巻本の河出書房カラー版世界文学全集第18巻『カラマーゾフの兄弟』(米川正夫訳)は昔、古本で入手してこれまで繰り返し読んできた。ゾシマ長老の教説の章では自分は下線をやたら引いているがゾシマ長老のいくつかの教えには自分は感銘を受けてきたのでした。]
    
[681] 2024/10/11/(Fri)17:20:17
名前 Seigo
タイトル 『カラ兄弟』で描こうとしたテーマのこと(7)
本文 三人の兄弟の受難と再生を描いていくことを、『カラ兄弟』(正・続)の中心的なテーマとして挙げてよいと思う。

作者は、正編で、ドミートリイ、イヴァン、 アリョーシャの受難を描いた。

アリョーシャは、ゾシマ長老の死をめぐっての信仰の危機と、グルーシェンカの色香の誘惑による身の堕落に飲み込まれそうになったが、ガリラヤのカナにおける天恵が立ち直りのきっかけとなって愛の戦士として出発していく。続編ではアリョーシャのその後のその戦いと活躍を描く予定だった。
なお、アリョーシャは皇帝暗殺に走るという続編の筋が本当なら、それもまた、新たな再生に向けてのアリョーシャの受難と捉えたいと思う。

さらに注目したいことは、続編では、罪を引き受けてシベリヤ流刑となったドミートリイ、及び、父親殺しをめぐって裁判の過程で気がふれてしまうイヴァンのその後の再生も、平行して描く予定だったに違いないということだ。

各々は、グルーシェンカ、カチェリーナ、リーズ(?)の看護や寄り添いを受けて再生し活躍していくのだ。

そういう点でも、続編が描かれずに終わったことが残念でならない。

  


     
  


    




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