[753] 2025/04/12/(Sat)19:48:29
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名前 |
Seigo
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タイトル |
意識する・考えることが過剰になった人間にもたらされること |
本文 |
賢い人間が本気で何者かになることなどできはしない。何かになれるのは馬鹿だけだ。
上の『地下室の手記』の主人公の男が述べた言葉は、人間の行動や性格について彼(作者ドストエフスキー)が考えていたことを、よく表している。
自分のことについて意識し過ぎる、考え過ぎることは、自分のうちにあった基盤・基準や傾向・習慣についてあらためて考え直すことにまで至るならば、それらが揺らぎ、解体されていくことで、本人は、ストレートに行動していくことや自分の傾向や性格を喪失・紛失してしまうことになりかねない。
考えない馬鹿な人間は人に対する復讐などはそのまま行なっていくが、考え過ぎる賢い人間は、謙虚であれば、その仕打ちの原因を自己の内に求めていくなどして復讐の行為を失ってしまうという主人公の述懐は、私には実に印象的だった。
同じく『地下室の手記』の中の主人公の言葉である、
あまりに意識しすぎるのは、病気である。正真正銘の完全な病気である。人間、日常の生活のためには、世人一般のありふれた意識だけでも、充分すぎるくらいなのだ。
は、同様のことを述べていると言える。
一貫する自分らしさを保ち、ストレートに生きていくためには、あまり考え過ぎない、意識し過ぎないこと、良き価値基準や行動基準を固めていくこと、良い習慣を作っていくことが、肝要なのだろうと思う。 |
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