| |
[611] 2024/01/26/(Fri)06:52:02
| 名前 |
ほのか
|
タイトル |
🟣日常の事件について⚫️ |
| 本文 |
@【婦人と百姓女という喋り方について】
↑ ↓
そこらへんの人間の嘘っぽい会話に、注意‼️
A 【事件や判決に対する自身の考えを、どこまで、追求、探求するのか⁉️】
↑ ↓
重箱の隅までも、あれやこれやと、思考する、人間ドストエフスキー氏に、読者私は、感激する嬉しさを、感じますね。真実を突き詰めるまでの、集中力が素晴らしいし。自身が、納得するまでの、集中力と思考を止めないのは、素晴らしい理想的な人間像です。自分自身が納得できる真実を、みつけるまで、あれやこれやと、考え続ける探究心は、素晴らしい‼️
|
| |
|
| |
[610] 2024/01/25/(Thu)09:24:48
| 名前 |
ほのか
|
タイトル |
【「法は、真の犯人に、慈悲を垂れたのである」】 |
| 本文 |
《『作家の日記』 下 本文なかなか、読み終わりません。難しいのですね。
1877年12月のところにきましたが。
なんか〜作家ドストエフスキー氏の《優しさ》が、現れてるところはないかなっと、期待して読んでます。
まだ、途中ですが。
【人間は善なり】が、ドストエフスキー氏の心情じゃないかと、心至りました。》
↑
いよいよ‼️ 私読者の期待する箇所に来ました。
全部、転記すると、4〜6ページになってしまいますね。
まだ読み終わってないので、その後に、転記致します😁
p375からと、その前にある文章の、《婦人を獄中に見舞ったのではなく、百姓女を獄中に見舞ったのである。誤解するように、書いている。それから、ひと月に1日くらいしか、様子を見に行ってないのに。それも、頻繁に《婦人》に会いに行ったような、記事を書いて、当作家ドストエフスキー氏を悪く吹聴すると、書いてあるところですね。実際、婦人というより、豊かではない百姓女だしという事ですね。興味本位に獄中に。見に行ったのではないという事ですね。真実を突き詰めたくて、自ずと、ドストエフスキー氏は、行動に走るのでしょうね。
いまのところ、二箇所の長文です。
やっと、ドストエフスキー氏の《やさしさ》➕《読者私の同意の考え:人間は善である》 に、辿り着きましたね。今回の文章は、長くて長くて、作家ドストエフスキー氏は、どちらの立場で書いているんだろうか?と、ちよっとずつよみすすめてきましたね。
|
| |
|
| |
[609] 2024/01/23/(Tue)17:24:40
| 名前 |
Seigo
|
タイトル |
神を太陽に譬えたモルゲンシュテル氏及びドミートリイの言葉 |
| 本文 |
※追記更新 24/01/24 21:55
ほのかさん、 いろいろと、書き込み、どうも。
投稿[599]の中の、ドストエフスキーの作中人物(及びドストエフスキー自身?)はエネルギッシュであり、励ましをもらったという読者のコメントは、興味深いです。 そのあたりのドストエフスキーのポジティブな有りようは、ドストエフスキーが人間の生(せい)というものに目を向けて、生(せい)における熱意や愛というものを大事にしたということから来るのではないでしょうか。
※ ※ ※
先月、次の文章に出会った。
神を捨てる者は、ちょうちんをもって歩きつづけるために、太陽の光を消すようなものである。 (オスカー・モルゲンシュテルン(ドイツ出身の経済学者)の言葉)
ドストエフスキーの作品においても、暗(あん)に神を太陽に譬えて、どんな苦難・苦痛に見舞われていても、自分は、堪(た)えられる、太陽を見ている、太陽の存在を知っているということこそ全生命なのだという『カラ兄弟』のドミートリイの絶唱がありますが、上のモルゲンシュテルン氏の言葉は、太陽を神に譬えて、神を捨てる人の事態を述べていて意味深長だと感心した次第です。
厳(げん)としてあり、否定したり無視したりできないものとして、分け隔て無く私たちに恵みをもたらし、私たちと私たちの世界を支え、生かしてくれている太陽のごとき「神」とその働きというものを、私も考え、信じたいと思う。 |
| |
|
| |
[608] 2024/01/22/(Mon)08:45:40
| 名前 |
ほのか
|
タイトル |
「作家の日記』 下 |
| 本文 |
なかなか、読み終わりません。難しいのですね。
1877年12月のところにきましたが。
なんか〜作家ドストエフスキー氏の《優しさ》が、現れてるところはないかなっと、期待して読んでます。
まだ、途中ですが。
【人間は善なり】が、ドストエフスキー氏の心情じゃないかと、心至りました。
結局! 事件があっても、その周りの人、周囲の人、教育など〜。あらゆる原因は、当事者の《個人》の責任ではないということ‼️ですね。
つまり、裁判をすると、まぁ、思ったよりも、減刑とか、無罪になるというわけですね。
それが、ドストエフスキー氏の《優しさ》でしょうね😁
「継母が、二階からの事件」⇄ やはり!これらの事件は、環境の所為である‼️ という見方でしょうね。
そして、「継母が、二階からの事件」について、作家ドストエフスキー氏が、これほどまでに、『作家の日記』で、あれやこれやと、論議をしてるのが、嬉しいですね‼️ あれやこれやと論議をするから、『無罪』とか、『減刑』になるのですよね。深く理解して、これからは、その事件をプラス思考で、踏まえて生き方を学ぶ‼️ ということですね。
|
| |
|
| |
[600] 2024/01/17/(Wed)16:01:05
| 名前 |
ほのか
|
タイトル |
参考 |
| 本文 |
金沢美智子 カルチャーセンター
「罪と罰』
原書で読むのがあったのですね。今は、終わってます。 少しは、ロシア語をよめないと、この講座は受けられないと書いてありました。
世界は広い。
|
| |
|
| |
[599] 2024/01/17/(Wed)15:56:33
| 名前 |
ほのか
|
タイトル |
《ドストエフスキー エネルギー》で、ネット検索しました。 |
| 本文 |
@ 何人かの若い読者に聞いてみたのですが、ドストエフスキーを読んで元気づけられるという答えが多く驚きました。
A 大学一年生
「こういう風に感情を持って生きていけるのかな、憧れのようなものを感じた。やっていることに対してではなくて、エネルギッシュな感じ、生きたいように生きていること、溌溂と生きている感じに」
B 会社員
「自分にとって永遠の理解者を得たなと思います。(永遠の理解者?)自分が人生の中で経験すること、体験することが、もしかしたらドストエフスキーがあの本の中で言っていたこういうことじゃないかなと答え合わせすることができる そういった点ではドストエフスキーに自分の経験を理解してもらっている」
C『登場人物は欠点も多く、破滅的な人生ともいえます。破滅的なストーリーの中でも自分の心の欲求に正直に生きていきます。だからこそ若者の読者は、今完全無欠が求められるような息苦しい社会の中で、エネルギーと言いますか、むしろドストエフスキーの主人公から励ましを感じるというのです。』
↑
私が得た結果です😃
|
| |
|
| |
[598] 2024/01/17/(Wed)14:29:37
| 名前 |
ほのか
|
タイトル |
ドストエフスキー全集 別巻 ドストエフスキー研究 唐木順三編 ドストエフスカヤの『恋の告白」より 羽生 操訳 |
| 本文 |
4〜5ページくらいの書き物ですが、内容は、面白かったです。
色々な本が色々な場所に置かれてるので、今日は、この本から、題名で、この箇所を読みました。
『A・G・ドストフスカヤの「恋の告白」より
「十一月八日は私の生涯の最も記念すべき日のひとつである。フョードル・ミハイロヴィチが私を愛していることを告白して妻になつてくれと願ったのは、十一月八日である。(↔︎いいなあ😃)」
その後、小説風に話して〜この画家が僕だと仮定して、僕があなたに恋を告白している、あなたに、僕の妻になってくれとたのんでいる、と想像して下さい。ねえ、あなたはどう答えるでしょう?〜アンナ・グリゴーリエヴナ、いま僕は、小さなダイヤになったものがわかりましたよ。〜あなたはダイヤを見つけられたんではありませんわ。ただの小石ですわ。〜彼は別れのあいさつををしながら、とても真剣にこう言った。」
↑
内容の一部分ですね。
|
| |
|
| |
[597] 2024/01/16/(Tue)21:49:31
| 名前 |
ほのか
|
タイトル |
エネルギーが大好き‼️ |
| 本文 |
エネルギーが大好き😃 |
| |
|
| |
[596] 2024/01/16/(Tue)11:42:01
| 名前 |
ほのか
|
タイトル |
プラトンに傾倒 |
| 本文 |
『限りなく欲望を求める社会で、より良く生きる事』
↕︎
ギリシャ時代が良いかも。
《人より多く〜何だっけ? 》
|
| |
|
| |
[594] 2024/01/08/(Mon)17:09:17
| 名前 |
Seigo
|
タイトル |
苦痛のこと |
| 本文 |
※追記更新 24/01/08 22:25
佐藤さん、どうも。
なるほど、前回挙げたドストエフスキーの苦痛と贖(あがな)いと幸福についての考えは、ドストエフスキーが敬愛したキリストのことを踏まえているということですね。
ドストエフスキーは、ほかにも、苦痛こそ生活だ、苦痛無くして快楽無し、苦痛を愛する、「太陽」を見ているゆえにどんな拷問の苦痛に苛(さいな)まれても自分は屈しない[『カラマーゾフの兄弟』のドミートリイの絶唱]、など、苦痛に関していろいろと考えを述べていますが、その苦痛を引き受けていくというドストエフスキーの態度には、自分は昔から違和感を感じてきました。 (ちなみに、ニーチェは「大きな苦痛こそ精神の最後の解放者である。この苦痛のみが、我々を最後の深みに至らせる。」と述べていますが、このニーチェの言葉も私には違和感となります。)
私が関心がある仏教の考えからしても、自他の苦痛というものは、引き受けるものでなく、耐えがたくて苦しいものゆえに、無くしていく(消していく、取り除いていく)べきものではないかと思うのです。
たとえば、幸福との関連では、ショーペンハウエルは幸福の敵は苦痛と退屈と言い、エピクロスは最大の悪は苦痛だと言い、アリストテレスは賢者は苦痛無きを求めると言っています。
ドストエフスキーの考えよりも、苦痛を避けるべき悪(無いようにしていく悪)として、仏教で言う抜苦与楽(自他から苦(く)を抜き、楽(らく)を与えていくこと)という立場に、自分は心ひかれます。 |
| |
|