[627] 2024/02/08/(Thu)11:20:40
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名前 |
ほのか
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タイトル |
ドストエフスキー全集24 評論Ⅰ 染谷茂 原卓也訳 1979/12/20発行 新潮社 |
本文 |
『茶化し屋』 染谷茂・原卓也訳 《ところで、もっとも、いずれにしても、真実のために彼は頑張るだろう、血の最後の一滴まで真実を守るだろう》⇄ 【主題2:勝手に読者私が選択抜粋】
「まず第一にわれらが広告の読者諸腎にお願い申し上げたいことは、諸腎に提供せんとする文庫のまことに奇異な、それどころか、凝った、いやそれどころか、下手に凝った文集名・・・・・・に憤慨されざらんこと、反感を抱かれざらんことである。それでなくても、大多数の、いや、きわめて多数の諸腎が、ただもう文集名だけのために、われらの文集を斥けられるであろうことは確かだと筆者は考えている。この題名を人は笑うであろうし、少しはそれに腹を立てることもあるだろうし、それどころかばかにされたと思う人もあらわれて、『茶化し屋』を時代錯誤、神話、こけおどしと呼び、果ては、まるであり得ないことときめつけるだろう。いちばん困るのは、時代錯誤というだろうことだ。「なんだって! この現代、このわれらの世紀、鉄の時代、実業の時代、金銭の時代、ありとあらゆるバランス・シートだ、数字だ、ゼロだといったものに満ち満ちている打算の時代に笑うだって? 失礼だが、何をあんたは笑おうっていうのかね? あんたのその『茶化し屋』は、いったい、どういうふうに笑うのかね? そもそもあんたの『茶化し屋』は笑うことができるのかね? 実際、笑うのに十分備えはあるのかね。かりにたしかに十分備えがあるとして、それじゃあ、なんのために笑うのかね?・・・・・・」まさにその通り、なんのために笑うのか? 「もちろん」も『茶化し屋』の敵である彼らは続ける。「もちろん、笑ってもよろしい、みんな誰でも笑うから、笑ってわるいわけはない・・・・・・笑うべきときに笑う、機会をとらえて笑う、品よく笑うのであって、わけもなくにやりと歯を出す(「茶化し屋」のロシア語は「歯を出す人」)、つまり、ちょうど、ここの場合の、題名だけからでも明らかなようにーー要するに、人がどう笑うかわかっている・・・・・・まあ、なにかがうまくいったので笑うとか・・・・・・でなければ普通の水準からはずれた、なにか目立つことを笑うとか・・・・・・それとも・・・・・・なんというか?・・・・・・まあ、プレフェランス(トランプ遊び)でついているときとか、劇場で『フィラートカ』をやっているときに笑うが、ただしこの場合とちがって、品よく、礼儀正しく笑うのであって、いいかげんに、注文に応じて歯を出すのではない、無理してしゃれをとばすのではない」ーー「それに、ひょっとして、この場合はなにかの意図が隠されているのかも知れないではないか?」と、本人たちには関係ないことには、何事であれ、意図、それも悪い意図をそこに見ようとする人々は、そう最後には言うだろうーー「なにかいかさまがあるのではないか。もしかしたら、それどころか、なにかをやるけしからん口実かも知れないし、もしかしたら、なにか危険思想なのかも知れない・・・・・・ーーあやしいもんだ!ーーそうかも知れない、いや、大いにそうかも知れないーー近ごろの傾向では特にそうかも知れない。そのうえ『茶化し屋』だなんて、粗野で、下賤で、大道野次的で、品のない、どん百姓風な、なんて題名だ! どうして『茶化し屋』なんだ? なんのための『茶化し屋』なんだ? 『茶化し屋』だなんて、何を証明しようもいうんだ?」 読者諸腎、こういうわけであなた方は、すでに非難し、断罪された。終りまで聞かずに断罪されたのだ! ちょっと待って、聴いていただきたい! 『茶化し屋』とは何か、をこれから説明いたします。まず第一にあなた方に説明することを、筆者は自分の義務と考えているからです。筆者の説明を聴かれれば、必ずやご意見が変ることを筆者は請け合いますし、もしかしたら、それどころか、前途を祝する微笑を浮べられて『茶化し屋』を迎え入れられる、いや、それどころか好きになられるかも知れない。それどころか、もしかすると、かれ『茶化し屋』に敬意を払うようになるかも知れない。たしかに、読者諸腎、どうして好きにならずにいられましょうか! 『茶化し屋』は一種まれに見る、ほかにはない男、お人よしで、単純で、あっさりした奴で、肝心なのは、自惚れや野心をあまり持ち合わせていないことです。自惚れや野心をもっていないことだけでも、この事情一つだけでも、彼はまことに尊敬に値します。あたりを見まわしてごらんなさいーー今時、自惚れや野心のない人がいるでしょうか? えッ、どうです? 見当りますか? ところが彼はあなたを押しのけたり、あなたに突き当ったりしないし、誰の野心にふれることもなく、誰にも、そこを退どいてくれとは言いません。彼にはただ一つだけ功名心がある、一つだけ野心があるーーそれはときどき、読者諸腎、あなた方を笑わすことです。もっとも、これだけではまだ、だから彼が江湖の読者のために、ドイツ人流に応分のしゃれを考え出すことを引き受けたのであるということにはならない。いや、彼が歯を見せるのは、その気になったとき、気持がそれに傾いたとき、これこそわが使命と感じたときである。彼ときては、言葉には困らず、しゃれのためには最良の友も捨てて顧みない男である。いやもうこうなったら、わが『茶化し屋』とはそもそも何者なのか、どんな事を経てきて、どんな事をなし遂げ、何をやるつもりなのかをお話ししましょうーー要するに、よくいうように、彼を頭のてっぺんから足の爪先まで描いてお目にかけましょう。
まだ若い、とはいっても、ぼつぼつ中年に近い、陽気で元気な、明るくて賑やかな、いたずらっぽくて大声を出す、呑気で頬の赤い、丸々として満ち足りた男をご想像願いたい。そんなわけで、この男を見ると食欲がわき、顔が微笑にほころび、どんなに謹厳な人でも、例えば、午前中役所ですごし、腹をへらし、胆汁質でぷりぷり腹を立て、声はかすれ嗄しゃがれた、勤めですっかりかさかさになった人でさえも、家の昼食のテーブルに急いでいるとき、そんな人でさえも、わが主人公を見ると、心が明るくなって、世の中を楽しくあんなふうに暮すことができるんだ、世の中は喜びなきにしもあらずだ、と考えをあらためるのだ。こういう男を想像していただきたいーーそうだ! いちばん肝心なことを忘れた。彼の履歴を簡単にお話ししましょう。第一に、彼はモスクワの生れで、なによりもまず、絶対にモスクワっ児、つまり、景気が良くて、口が達者で、いつも心に秘めた考えがあって、美食と議論が好きで、ちょっと単純で、ちょっとずるいところがある、一言でいうと、お人よしのあらゆる属性をそなえている・・・・・・しかし、彼が教育をうけたのはペテルブルグ、絶対にペテルブルグであって、立派な現代的教育を受けたことは断言してよい。とはいっても、彼は至るところを経てきて、なんでも知っている、何でも習い憶え、何でも把握し、どこへでも行ったことがある。最初軍人になったが、それから大学の講義の匂いをちょいと嗅いだし、医科大学で何をやっているかさえ知ったし、さらに、何を隠そう、ワシリコーフスキー島の四番街にも一時入り込んだが、そのときふと、やみくもに、自分は画家だと思い込み、科学と芸術が一攫千金の夢で彼を誘惑しかかった。とはいっても科学と芸術は長続きせず、我が主人公は、よくあるように、そのあと役所に入り込み(ほかに、しようがない!)、そこにかなりの時間、つまり、ちょうど二ヶ月いたのだが、そのとき思いもかけぬ事情が起って、彼は不意に自分自身と自分の財産との無制限の支配者となったのである。その時以来、彼は両手をポケットに突っ込んで、口笛吹きながら、(読者諸腎には申し訳ないが!)自分のためだけに暮している。 彼は、もしかすると、ペテルブルグという土壌に生じた唯一の高等遊民もしれない。彼は、とにかく、若い男でもあり、もう若くはない男でもある。若いところは多分に消え失せ、新しいところはほとんど身につかずにし萎れてしまった。ただ残っているのは笑いだけーー笑いといっても、はっきり読者諸腎に申し上げるが、まったく罪のない、単純な、屈託のない、子供の笑い、万人万物をわらう笑いである。実際のところ、彼がひっきりなしに笑いたがるからといって、彼がわるいのだろうか? あなた方が真剣重大なことをごらんになっているところに、彼が冗談だけを見る、あなた方が何か誉めそやすのを聞くと、彼は自分の住んでいるワシリエフスキー島を思い、あなた方の希望や努力目標には誤りがあり、無理があり、純粋のぺてんがあると考え、あなた方が確固たる道と言えば、彼は自分の勤めた役所のことを思う、あなた方が堂々たる風采といえば、彼は自分のかつての課長、たしかに尊敬すべき人物ではあるが、その課長のヴァルソノーフィ・ペトロービィチを思い出すからといって、彼がわるいのだろうか? あなた方が表面だけを見ているときに、彼が楽屋裏を見るからといって、彼が悪いのだろうか? それからまた、例えば、全ペテルブルグ、その光輝と豪華、その喧騒、その限りなくさまざまな人間たち、その限りない活動、宿願、その紳士たちと悪党どもーーデルジャーヴィンのいう、金びかの蓬塊と金びかならざる塵芥、ぺてん師、愛書家、高利貸し、催眠術師、いかさま師、百姓その他ありとあらゆるものーーそういうペテルブルグが彼には無限の、立派な挿絵入り、文集のように思われるのである。もっぱらひまなときに退屈しのぎに食後めくっててみて、欠伸あくびをするのもいいし、また笑うのもいいというわけだ。そうなんだ、これでもまだ、にやりと歯を見せて笑う能力がわが主人公に残っているとは結構なことだ!・・・・・・少なくとも、まだなにかせめて役に立つわけだ。もっとも、不規則な生活がしばらく前から彼にはひどく飽きてきた。それに実際のところ、小説、雑誌、文集、雑文、新聞において公衆の前で彼は小突かれ、引きまわされ、悪用されてきたので、これからはもっと控え目にして、もっと重々しく行動しようと彼はふ心に決めたのである・・・・・・その目的で、自分のメモ、回想、観察、発見、告白等々を単行本にして世の中に打って出ようと思いついたのである。ところが、なにしろあまりのことなので、つまり、時宣を得てないので、最高の料理でも、あまり量が多いと不消化をおこすことがあり得るので、それにもう一つ、彼自身、胃の消化不良には大反対なので、冊子を分冊にすることに決めたのである。 彼には材料は、山ほどあるし、時間もあり余っている。すでに申したように、彼はどこにも勤めてないし、省だの局だの官房だの管理部だの文書課だのといったものには、なんの関係もなく、誰かにこ事を意託されたことさえ一度もない。上述の通り、彼は消化不良の断固たる敵である。さらにつけ加えると、彼は実によく歩き回る男であり、観察者であり、必要とあらば、要領よく、どこへでももぐり込む男で、ペテルブルグを自分の両手の掌のように知っている。劇場や劇場の入り口やボックス席や、楽屋やクラブや舞踏会や展覧会や競売場やネフスキー通りや文学集会や、彼がいるなどとはとても思えないところーーペテルブルグのとんだ町外れの小路や隅っこにも読者は彼を見かけるでしょう。彼はどんなことでもいやがらない。鉛筆と柄付眼鏡を持って、満ち足りた、甲高い笑い声を上げて彼はどこにでもいる。ところで『茶化し屋』の長所がもう一つある。彼のいちばん大事なことは真実だ、ということである。真実が何より先ということ。『茶化し屋』は真実のこだま、真実のラッパとなり、日夜、真実を守り、真実の砦とりで、真実の保持者となるであろう、今や、しばらく前から、彼にはひどく真実が気に入ったのだからなおさらである。とはいっても、彼は時には嘘も言うであろう。嘘をついて、どうしていけない? 彼も時には嘘をつくが、ただ適度に嘘をつく。実際、誰にでもあることではないか。みんな好きなんだ、時に嘘をつくのが、いや、つかないのが、だーーなんてことだ! ーー言いまちがえた、でも、こう言うほうが、その、文章に綾あやがある。まあ、そういうことで、『茶化し屋』もちょうどそれと同じで、時には何かを隠喩で言うだろうが、そのかわり、でたらめ、つまり隠喩を使っても、その隠喩は真実にまったく似ているだろう、ある種の真実に劣らないだろうーーそういうことだ! ところで、もっとも、いずれにしても、真実のために彼は頑張るだろう、血の最後の一滴まで真実を守るだろう! 第二に『茶化し屋』は、あらゆる種類の人身攻撃の敵、いやそれどころか、人身攻撃を追求するだろう。であるから、例えばイワン・ペトローヴィチは、われらの冊子を通読して、自分のことについてけしからんのことはまったく何も見出さないだろうが、そのかわり、もしかすると、デリケートではあるが、しかし、罪のないまったく罪のない若干のことを、自分の同僚であり、友人であるピョートル・イワーノヴィチについて、発見するかも知れない。その逆のこともある。ピョートル・イワーノヴィチは、その同じ冊子を読みながら、まるで何も自分のことについては発見せず、そのかわりイワン・ペトローヴィチについて、若干のことを見出すだろう。こんなわけで、両者とも喜び、両者ともきわめて愉快に思うだろう。それはもう間違いなく『茶化し屋』がそういう具合にお膳立するのである。読者諸腎は、彼がどんなふうにそのような事態を仕立て上げるか、ごらんになるわけだ。しかも、なによりも不思議なのは、例えば、イワン・ペトローヴィチ自身が誰より先にこう叫ぶだろうことだ・・・・・・われらの冊子には、彼のことは、まるで何も書いてない、ぜんぜんそんなことはないところか、そんなことは陰も形も書いてない、失敬千万な、たちの悪いほのめかしなぞは、薬にしたくもなかったな!もし何かあるとすれば、それはピョートル・イワーノヴィチのことだけだ、と、こう叫ぶだろう! こんなわけで、繰り返して言えば、真実がまず第一なのだ。『茶化し屋』は真実を生命とし、真実を擁護し、真実のために活動し、そしてーーこんなことはあってはあっては困るが.ーー彼が死ぬようなことが起った場合には、まさにほかならぬ真実のために、彼は死ぬだろう。そうだ! まさに真実のためにだ! それにしても、もしかすると、『茶化し屋』の性格、習癖、性癖、その操行に至るまですべてわれらは述べたが、それでもなお、いったい、われらの冊子の内容はいかなるものなのか? 冊子は何を期待し、何を期待すべきではないのか?ーーと誰か問う人がいるかもしれない。これに対する最良の答えとなり得るのは、おそくとも本年十一月初旬には刊行されることになっている『茶化し屋』の第一号である。とはいえ、われらは今からでも読者の希望に応ずる用意がある。中編小説、短編小説、諧謔詩、それから有名な長編小説、劇作、詩のパロディー、文学界、演劇界その他あらゆる方面についてのこの内幕物、一見の価値ある書簡、手記、あれやこれやの覚え書、落し話、法螺等々といった、その種のもの、つまり『茶化し屋』の気質に合った、それ以外には彼が使命を感じていないといった種類のものである。これがわれらの文集の内容である。ある種の文章には『茶化し屋』の判断で、木版の挿絵が入るはずであるが、木版画は優秀なペテルブルグの版画家に依頼することになっており、文集が完結したときには、すなわち最終号第十二号が出るときには、読者に豪華な絵入りの表紙が配布されるので、読者は願わくば、その表紙を使って彼の作品を装幀そうていされたい。『茶化し屋』は、たくさんの優れた絵と多様な記事が用意されていることを江湖に告げ知らせるものであり、したがって各分冊発行の間隔は決して四週間以上にはならないと確信している。であるから、全文集は必ず一年で完結するであろう。 最後に、もう一つの事柄について・・・・・・もう一つの重要な、デリケートな事について・・・・・・『茶化し屋』は読者・・・・・・未来の読者(彼には、読者が出てくる、必ず出てくる! )を愛し、尊敬し、きわめて高く評価しているので、印刷、紙、挿絵ーー絵はわが国ではひどく手に入れがたく、高価であるーーの必要経費を無視して、読者に分集を無料で差し上げたいほどなのである!・・・・・・しかし、第一に、彼のごとき、読者の尊敬を失うまいと、官等を人さまに言うのさえはばかっている、そんな官等の人間、その・・・・・・まぁ、一言でいって、茶化し屋以上の何者でもない人間から贈り物を受けるということは、そういうことを想定しただけでも人をばかにした腹立たしいことと思われはしないか?・・・・・・第二に、もう一つ理由がある。なんだって!われわれの世紀、すでに誰でも知っているように、積極的、重商主義的世紀、鉄の世紀、金銭の世紀に本をただでやるんだって? ・・・・・・それは文集の信用を落し、読者というものは押しつけられるものからは、何からでも逃げ出すものだから、読者を失う最も確実の方法ではないか?・・・・・・そんなことをしてなんの意味があるのか? ・・・・・・節度と言うものを知らんのか? ・・・・・・それから、礼儀を知らんのか? ・・・・・・自己の品位という感覚をなくしたのか? ・・・・・・とまあ、こういった理由が『茶化し屋』の大盤振舞ぃをさし控えさせているのである。こういう次第で、出版費用を考慮し、自己の尊厳感ということもあって、心を鬼にして、『茶化し屋』は、分冊一部を銀ルーブリ一ルーブリで、M・オリオン、A・イワーノフ、P・ラチコフ商会、A・ソローキンその他のペテルブルグの書籍商の店頭で、自らを売るであろうことを公表するのもである。郵送の場合は目方一フント(約四〇〇グラム)の送料が加算される。」
茶化し屋 (一八四五年) |
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