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[345] 2023/05/28/(Sun)07:39:53
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ほのか
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タイトル |
ジイドの講演&寺田透 |
本文 |
p136 E1 『ギリシャ正教は、公衆の前でする告白を宥恕、いなさらにしばしば是認さえしていますが、ここでは、むろん、ただそれによって自然な傾向を力づけているにすぎません。僧侶の耳にきかせる告白ではなく、誰とかぎらぬ人間の前ですら、すべての人間の前でする告白という考えは、ドストエフスキーの小説のなかに、憑きもののように、繰りかえし立ち現われます。『罪と罰』のなかでラスコーリニコフがソーニャにその犯行を告白したとき、この女はラスコーリニコフにすぐさま、その魂を安らがせるただ一つの手段として、広場にひざまずき、みんなに向って「私は人殺しをしました」と叫ぶように忠告します。ドストエフスキーの作中人物の大部分は、折節、又大ていのの場合全く思いがけぬ形で、時でもなく、告白しなければならぬという望み、ときには一体どういう問題なのか理解さえつかないような他人に向って許しを請わなければならぬという望み、自分を話す相手の人間よりも劣った状態に置かねばならぬという望みに捉われます。」
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[344] 2023/05/28/(Sun)07:19:22
名前 |
ほのか
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タイトル |
ジイドの講演&寺田透 |
本文 |
p136 D6 continu D5 「復讐するか、あるいは、自分の過ちをみとめて詫びを入れるか、というこの二つに一つを選ばねばならぬ羽目に身を置くと、西ヨーロッパ人には、許さないこと、忘れないこと、勘弁しないことを、その人の真の面目と見なす傾向があります。そしてたしかに西ヨーロッパ人は、その非を問われるようなことはけしてしないように努めます。しかしひとたび問われたとなると、彼の身に振りかかりうる最大の不快時は、自分の非をみとめなければならないということらしく思われます。ロシヤ国民は、これと全く逆に自分の過ちを、ーー自分の敵に対してさえ、ーー告白する用意がいつもできていますし、謙仰な気持ちになり、自分を責める用意がいつもできています。」
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[343] 2023/05/28/(Sun)06:45:30
名前 |
ほのか
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タイトル |
ジイドの講演&寺田透 |
本文 |
p135 D4 「この信仰を、われわれは他の多数のロシヤ作家のうちにも見出しますが、それがドストエフスキーにあっては、活潑に動く悩ましい信念となっているのです。〜ドストエフスキーはそのプーシキンに関する演説の中で、〜プーシキンは、ドストエフスキーがロシヤ的な調子と呼ぶもの、「新しい誠実な調子」を見出したと、断言しています。プーシキンは、ロシヤの民衆とその価値とにいかなる信を措うるかという、彼のいわゆる「呪われた問題」に答えて、こう絶叫しています。「謙仰であれ、尊大な人間よ。先ず汝の自負を取りひしがねばならぬ。「謙仰であれ、すべての人の前に。身をかがめるがいい、おのが生れの国土に向い。」
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[342] 2023/05/28/(Sun)06:28:21
名前 |
ほのか
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タイトル |
ジイドの講演&寺田透 |
本文 |
p135 D3 「こうしてわれわれは、この物語の終りに当って、他のもう一つの真面目が、ロシヤの民衆の特殊な使命への信仰が描きだされるのを見るわけです。
⇔ 【読者感想文】なんて書いてあったっけ?何んか書いてあったっけ?『白痴』の、最後の結論は?
主人公ムイシュキンは。そんなもんかなぁと、人生を思い〜。
その中に、《ロシヤの民衆の特殊な使命への信仰が描き出される》とは、ロシヤの民衆≡ ムイシュキン≡ ムイシュキンが、愛してるアグラーヤを、結婚相手として選ぶよりも、生まれてから不幸な境遇のナスターシャを選ぶという意味は‼️
しかも、ナスターシャは、生まれながら不幸なだけでなくて、誇り高き&美しい&芯の強い、 & 真面目な、この世に二人といない婦人であった〜。という読者私の見解でしょうか?
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[341] 2023/05/27/(Sat)06:15:40
名前 |
ほのか
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タイトル |
ジイドの講演&寺田透 |
本文 |
p135 D2:前の会話にcontinue🎶 「パルフェン、よく聞いて下さい。今しがたのあんたの質問に対する私の答えはこうです。宗教的感情というものは、その本質においては、どんな推理にも、どんな過ちにも、どんな罪悪にも、どんな無神論にも手をつけられるわけのものじゃありません。ここには、何かそういうすべてのことの外に今も立っているものがあるんです。何か無神論者の議論ではけして手のとどかないものがあるんです。」
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[340] 2023/05/26/(Fri)10:10:00
名前 |
ほのか
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タイトル |
ジイドの講演&寺田透 |
本文 |
p133 D1 「「その信仰の話ですが、それについて、」とムイシュキンは微笑を浮べて言い出した、「〜その男は泥棒じゃありませんでした。正直で、百姓としては大変安楽な身分でした。けれども時計がひどくその百姓の気に入り、気が狂ったようにそれが羨しくて、自分を制御することができなくなっちゃったのです。〜眼を天に向けて、十字を切り、〜その時計をとったのです。」〜ロゴージンは、〜彼は途切れ途切れの、ほとんど息切れがしていると言っていいくらいの声で叫んだ。「片一方は一向に神なんぞ信じちゃいない。もう一方は人殺しをするまえにお祈りするほど神を信じている。・・・・・・いや、公爵、あんたのまえだが、そういうことって考え出せるものじゃない。〜」
⇔ 【読者感想文】人間誰もが、神様的心を持っていて、形式じゃないということ!?この事件とは関係なく、人間は誰しも、神様的心を持ってる‼️ということは、事件は、考えた結果のものじゃないし、事件は外側に向かって、神様を信ずる信じないとは、関係ないということ。人間誰しも、神様的心を持ってるということである。
p134 「〜それ以前は、私は、何一つロシヤのことは分りませんでした。〜私は五年間外国で暮らしましたが、〜『神様も天の高いところで、罪びとが御自分に向って熱心なお祈りをささげるのを御覧になるたんびに、嬉しくお思いになさるんですよ。』〜ここに言い現されている思想は、非常に深く、非常に鋭利で、それこそ本当に宗教的で、この思想のなかにはキリスト教の全内容、つまり私達の父として考えられた神の観念、それに神様は、父親が子を見て喜ぶのと同じように、人間を見てお喜びなさるのだという観念が見出されますが、これこそキリストの主要な思想なんです。〜あれはきっとあの兵隊の細君なんです。〜」 〜 ドストエフスキーはそのプーシキンに関する演説のなかで〜〜 ドストエフスキーがロシヤ的な調子と呼ぶもの、「新しい誠実な調子」を見出したと、断言しています。〜「謙仰であれ、尊大な人間よ。先ず汝の自負を取りひしがねばならぬ。謙仰であれ、すべてのひとの前に。身をかがめるがいい、おのが生れの国土に向い。」
〜そしてまさしくここで。ロシヤ国民における名誉心は、西ヨーロッパの名誉心から離れて、そして、福音書に接近するのです。あるいは、こういう言い方の方がよいと言われるなら、ロシヤ国民にあっては、キリスト教徒的感情が、われわれ西ヨーロッパ人の理解しているような形の名誉心を凌駕しているのです。しばしば凌駕しているのです。
⇔ この講演で、『白痴』とか、『悪霊』とか、『地下室の手記』も、出てきます。とても、纏め方が、分かり易くて、読者の私は感激です😃
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[339] 2023/05/25/(Thu)09:31:08
名前 |
ほのか
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タイトル |
ジイドの講演&寺田透 |
本文 |
p132 C3 「ホフマン夫人のロシヤの民衆に対する他の観察は、その厳格な方法をとりえない無能さ、いなさらにしばしば、几帳面にやれないという無能さであります。ロシヤ国民は大して無秩序に苦痛を抱かず、無秩序を脱するための大きな努力を払わないように思われます。それでこの談話の無秩序ぶりについて何か言いわけを探すことが私に許されるとしますれば、私はそれを、ドストエフスキーの諦観念の混乱そのもののうちに、それらの観念の極度のからみあいと、それらの観念をわれわれの西ヨーロッパ的論理を満足させるような一つの平面図に当て嵌めようとつとめるときに感ぜられる特殊の困難とのうちに、見出すでありましょう。この浮動、この不決断については、ホフマン夫人は、時間の律動を免れて、冬の果てしらぬ夜と、夏の果てしらぬ昼に伴って生ずる時間の観念の衰弱に、責任の一部があるとしています。ヴィュー・コロンビエにおける短い演説の中で、私はすでにこの彼女が報告している逸話を引用したことがありますが、それは、ひとに時間を守れないだらしなさを責められたあるロシヤ人がこう言いかえす話です。「いや全く、生活というものはむつかしい技術です。時節によっては手落ちのないように生きるだけの値打ちがあるものです。こいつは人と会う約束の時間をきちんと守るよりずっと重要なことです」、ーーそこで亦われわれは同時に、この啓示するところ大きい言葉のうちに、ロシヤ国民が内的生活というものについて抱いている特殊の感情をみとめることができます。内的生活というものはロシヤ人にとって、いかなる社会的にもまして重要性を有しているものなのです。 なおまた、ホフマン夫人とともに苦悩と同情への、Leiden とmitleiden への、罪人にまで伸びて行くあの同情への傾向指摘しましょう。ロシヤ語では、不幸な人間と罪を犯した人間を指す言葉は一つしかありませんし、罪悪と単なる軽い犯罪とを指す言葉も一つしかありません。このことに、もしほとんど宗教的な悔悩の情をつけ加えるならば、われわれは、ロシヤ国民の他人とのあらゆる交際における抜きがたい警戒心を、なおよく理解できるでしょう。その警戒心はよく西ヨーロッパ人の慨嘆のたねになるのですが、ホフマン夫人の確信するところでは、これは他人を無価値とする意識よりむしろずっと余計に自分は不十分なものである。罪を犯しうるものだというつねに目ざめている意識に由来するものなのです。それは謙仰による警戒心といわるべきものなのです。 ロシヤ国民のかくも特殊なーーすべての信仰が消えてしまったのちにすら存続しているーーこの宗教性をあきらかにしうるものとしては、『白痴』の主人公ムイシュキン公爵の四つの邂逅の物語にまさるものはありますまい。私はそれを読んでお聞かせしようと思います。」
⇔ 【読者感想文】読者私も、遅刻常習犯とか、これらの文章に、同意致しますね。〜その厳格な方法をとりえない無能さ、いなさらにしばしば、几帳面にやれないという無能さであります。ロシヤ国民は大して無秩序に苦痛を抱かず、無秩序を脱するために大きな努力を払わないように思われます。〜 |
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[338] 2023/05/25/(Thu)08:30:43
名前 |
ほのか
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タイトル |
ジイドの講演&寺田透 |
本文 |
p132 C2 「ホフマン夫人は、まず手始めに、ロシアの社会のあらゆる階級を貫いていて、ついには社会的障害の消滅にまで至る、そして又、交互の名乗合いだの、突然の共感だの、ドストエフスキーの作中主要人物のひとりが雄弁に「偶然の家族」と呼んでいるもの、すなわち、われわれは彼の小説のなかで交際が楽々と結ばれるところを見出すのでありますが、それをごく自然にみちびき寄せるところの、あのすべての人間に対する、又ひとりびとりの人間に対する同胞関係、連帯関係を大いに強調しています。家が宿営になり、前の晩は見知らぬ間柄だった人間に宿を貸す、友人の友人を迎え入れ、しかも親密さがすぐに成り立つのです。」
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[337] 2023/05/25/(Thu)08:27:31
名前 |
ほのか
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タイトル |
ジイドの講演&寺田透 |
本文 |
p132 C1 「われわれはこれからドストエフスキーの読者の力をかりて、心理と道徳の範疇に属するいくつかの真理に手をつけることができるわけでありますがそれほ私の見るところではもっとも重要なもので、私としてはそこに行きたくて、もどかしくてなりません。けれどもそれらはきわめて大胆で斬新なものなので、もし私がそれを正面から手をつけると、皆さんには逆説的に見える危険があると思われます。私は用心する必要がありす。」
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[336] 2023/05/24/(Wed)05:54:57
名前 |
ほのか
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タイトル |
ジイドの講演&寺田透 |
本文 |
《謙仰》
p131 「彼は、はじめて接触したばかりでもう、そこには何か、ただ彼ばかりでなく 、全人類より優れたもの、何か神的なものがあるのを感じました・・・・・私の最初にお話ししたあの謙仰、これに私は再三立ちもどらなければならないと思いますが、その謙仰というものが、彼に自分の優れていると認めたものに対する随順の気持を起させたのです。彼はキリストのまえに深く首を垂れました。この随順、この諦めの最初にしてしかももっとも重要な結果は、すでに申しましたように、彼の天性の複雑さを守るということでした。実際、いかなる芸術家も、彼ほど立派にあの福音書の教えを実践に移すことはできませんでした。「おのが命を救わんと欲するものはこれを失わん。しかれどもおのが命を与うるもの(おのが命を棄てて顧みざるもの)、かくのごときものはこれをまことに生けるものとなさん。」 この自己否定、この自己自信に対する断念こそ、ドストエフスキーの魂のうちに、この上なく相矛盾する感情の相共に住むことを許したものであり、彼のうちに相闘っている敵対関係の異常な豊かさを救ったものでした。」
⇔ 【読者感想文】《謙仰》♫A5♫が、でてきましたね。まえに書いた言葉が、出てきて、嬉しかったです‼️
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