ドストエフスキーの「情報・意見」交換ボード
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[756] 2025/04/19/(Sat)10:36:43
名前 Seigo
タイトル 外国の女性の翻訳家の方々のこと
本文   ※追記更新 25/04/19 13:15

   
ドストエフスキーの小説を翻訳した外国の女性の翻訳家として、

・コンスタンス-ガーネット女史(1881~1946)
・スヴェトラーナ-ガイヤー女史(1923~2010)
・ゼンタ-マウリーナ女史(1897~1978)

が知られている。

コンスタンス-ガーネット女史は、主婦業の傍(かたわ)ら、ロシア語を習得し、1912年1919年にドストエフスキーの主な作品を翻訳したことには感心します。英語圏のドストエフスキーの読者は彼女の訳業の恩恵を大いに受けている。日本でも大正期のドストエフスキーの翻訳家や作家(芥川龍之介など)は彼女の英訳で翻訳したり読んだりしている。

彼女の半生や翻訳に従事する日常の生活をドキュメンタリーふうに描いた映画(2009年製作)で知られるスヴェトラーナ・ガイヤー女史は、ウクライナ出身でドイツに移り住み、ドストエフスキーの五大長編小説をドイツ語に翻訳する仕事をした。

ゼンタ-マウリーナ女史は、ラトビア出身の文筆家で、邦訳の好著『ドストエフスキー』など、ドストエフスキーの研究書がいくつかあり。ドストエフスキーの作品をドイツ語に(?)翻訳している。


河上徹太郎氏がガーネット訳の『罪と罰』の滋味について述べていたが、英訳の『カラマーゾフの兄弟』『罪と罰』を読んでみると、収穫や一興があるのかもしれない。(ガーネット訳の『カラマーゾフの兄弟』は自分は以前から所持しています。)

      

       
    
[755] 2025/04/16/(Wed)19:41:58
名前 Seigo
タイトル ドストエフスキーの言葉や書簡を収録した本
本文    
ドストエフスキーの言葉やメモ・断片を収録したものとしては、

小沼文彦氏の訳編したもの、

ドストエフスキーの書簡を抄録したものとしては、

中村健之介氏の訳編したもの

が労作だろう。両氏には感謝したい。
    
[754] 2025/04/14/(Mon)20:07:45
名前 Seigo
タイトル 神の存否のこと ― 「神の存在を信ずること、人間の幸福はこの一語につきる。 」(トルストイ)
本文 『カラ兄弟』では、登場人物が皆、何らかの形で、神の存否を問うている点が印象的だ。

神の存在を問う事情としては、イヴァンが言う通り、もし神が存在するのなら、この私たちの世界には、なぜこんなに、わけのわからない悲惨なことが生じているのか、ということだろう。

ドストエフスキー自身は、自身の神への信仰と懐疑についていろいろと言っているけれど、やはり、ドストエフスキーは生涯、神の存否の問題に苦しんできたと言えるのだろう。

この問題について、晩年は、実際どうだったのか、もっと知りたいものだ。
     
[753] 2025/04/12/(Sat)19:48:29
名前 Seigo
タイトル 意識する・考えることが過剰になった人間にもたらされること
本文     
賢い人間が本気で何者かになることなどできはしない。何かになれるのは馬鹿だけだ。


上の『地下室の手記』の主人公の男が述べた言葉は、人間の行動や性格について彼(作者ドストエフスキー)が考えていたことを、よく表している。


自分のことについて意識し過ぎる、考え過ぎることは、自分のうちにあった基盤・基準や傾向・習慣についてあらためて考え直すことにまで至るならば、それらが揺らぎ、解体されていくことで、本人は、ストレートに行動していくことや自分の傾向や性格を喪失・紛失してしまうことになりかねない。

考えない馬鹿な人間は人に対する復讐などはそのまま行なっていくが、考え過ぎる賢い人間は、謙虚であれば、その仕打ちの原因を自己の内に求めていくなどして復讐の行為を失ってしまうという主人公の述懐は、私には実に印象的だった。


同じく『地下室の手記』の中の主人公の言葉である、

あまりに意識しすぎるのは、病気である。正真正銘の完全な病気である。人間、日常の生活のためには、世人一般のありふれた意識だけでも、充分すぎるくらいなのだ。

は、同様のことを述べていると言える。


一貫する自分らしさを保ち、ストレートに生きていくためには、あまり考え過ぎない、意識し過ぎないこと、良き価値基準や行動基準を固めていくこと、良い習慣を作っていくことが、肝要なのだろうと思う。
   
[752] 2025/04/09/(Wed)22:34:19
名前 Seigo
タイトル ドストエフスキーの人間の感情観察
本文 人間は、こわいと思う人のことは軽蔑しないものである。
(『白痴』より。)

敵に対する恐怖は、敵に対する憎悪(ぞうお)をも根絶やしにしてしまうものである。
(『悪霊』より。)


恐怖や恐いという感情は、敵や相手に対する他の感情を消してしまうということで、人間の心理や感情を観察し続けたドストエフスキーの面目躍如といったところだろう。

特に後者の指摘には、初めて接した時、思わず唸ってしまい、強く印象に残ったのだった。

ドストエフスキーの思想の影響を受けたナチスは、ドストエフスキーのこういった人間洞察を、大衆支配などに適用していたかもしれない。
    
[751] 2025/04/07/(Mon)20:58:47
名前 Seigo
タイトル 美についてのドストエフスキーの発言
本文    
ドストエフスキーは、美について、しばしば見解を述べている。

『悪霊』では、ステパン氏に、歴史的に言っても美の追究があらゆる人間の活動の動機になっていることを述べて、この世の美を称揚している。

『カラ兄弟』のドミートリイは、美は人を迷わせる大きな謎であると言ったが、幸せは人を美しくする、沈黙は美しい、単純なものはそれだけで美しい、自然の美もすばらしい、ともドストエフスキーは言っている。

最近気付いたことだが、『白痴』のムイシュキン公爵が言った言葉「美なるものが世界を救う」は、女性の美、自然の美、芸術作品の美だけでなく、彼自身が体現しているごとく、人の心の美しさ(善意誠意や犠牲的奉仕の精神)のことを主に言っているとのこと。
『カラ兄弟』でイヴァンがアリョーシャに向けて言った「お前という人がおるということで自分は人生に愛想をつかさないでいられる」という『カラ兄弟』のクライマックスのような言葉も、このムイシュキン公爵の言葉に沿うものだろう。
    
[750] 2025/04/05/(Sat)11:13:32
名前 Seigo
タイトル ナスターシャ‐フィリポヴナの死について(2)
本文   追記更新 25/04/05 22:20


前回の投稿の追記です。

『白痴』の末部で、ナスターシャ‐フィリポヴナの屍体が横たわる部屋でムイシュキン公爵がラゴージンと翌朝まで寄り添うようにして過ごす間、ムイシュキン公爵が何を思い、考えたか、について、あらためて考えてみたい。

その間、ムイシュキン公爵は、男女の三角四角関係に陥った人間たちの性(さが)による悲劇のことを思い、自分の罪性を思い、その罪に戦(おのの)き続けたと思う。この街に戻ってきて、憐憫・救済の情(じょう)があったとは言え、二人の仲に割り込んでしまい(さらに、同時にアグラーヤのことも愛してしまい)、しまいにはナスターシャ‐フィリポヴナをこういう末路に至らせた原因が二人を嫉妬や不満足等で苦しめた自分にあることを自覚して、ラゴージンとナスターシャ‐フィリポヴナにはほんとに済まなかったと思ったと言える。翌朝までラゴージンに寄り添い、いたわる様子は、そのことを示している。

彼女の死は彼にとって悲しみであるが、同時に、前回の投稿で触れた通り、安寧を得られずにいた彼女の魂をやっと安(やす)んじさせたという思いもあり、自分は彼女の死を実は願っていたという認知は、ラゴージンとの共犯意識も生じさせ、それらの思いは、いっそう複雑な恐れ戦(おのの)きの感情として、彼に迫っていただろう。

と言っても自分の理解はまだまだ不十分であり、このラストシーンを自賛していた作者のこの場面に深く込めた内容を、さらに、もっと理解できていけたたらと思う。
   
[749] 2025/04/02/(Wed)18:43:49
名前 Seigo
タイトル ナスターシャ‐フィリポヴナの死について
本文 (ネタバレ注意) 小説『白痴』において、最後にナスターシャ‐フィリポヴナがラゴージンの手に掛かって死んだ(部屋の中のベッドには彼女の死体が横たわっている)のをムイシュキン公爵は知って、気が触れてしまったラゴージンと早朝までその部屋で寄り添って過ごす間、これこそが彼女の救い(魂の安らぎ・彼女を黙らせること・静謐の獲得)となったのではないか(従来のままでは彼女は、二人の間の板挟みになって、苦しむばかりであり、安らぐことはない。従来の状況ではムイシュキン公爵も彼女を救えない。)と思った(ムイシュキン公爵は以前にもそのようなことをよく考えた)と言えるのではないかと自分は近年考えているところです。

なお、ナスターシャ‐フィリポヴナの死に、そのあと、キリスト教で言う「復活」を期待(予兆)するような『白痴』論があり、そのあたりのことは、難し過ぎて、私の理解を越えていますが、生贄(いけにえ)というさらに難解なキーワードも含めて、作者ドストエフスキーにそのあたりの意味付けが実際にあったのなら、いつか、理解していけたらと思っています。
(※、このたび、Yahoo!知恵袋で、以上のことを問いかけてみました。速答のAIさんからは、ある程度、回答は得られたようです。 → こちら )
   

[黒澤明監督の映画『白痴』より。]
   
   
[748] 2025/03/31/(Mon)20:56:11
名前 Seigo
タイトル マカール老人の教えのこと
本文   ※追記更新 25/04/01 17:50

『未成年』に登場するマカール老人の人のあり方・行為・生き方についての教えとして、以下の点に注目したい。『カラ兄弟』のゾシマ長老の教えと重なる面が多いが、独自のものもあり。


・陽気であること。

・笑うことが一番であること。

・人は、物質的な豊かさよりも、人や物に対する限りない愛によって幸福になること。

・人間は誰もが等しく尊厳を持っており、お互いを愛し合うべきであること。

・謙抑の愛は大きな力(恐ろしい力)を持つこと。

・神のない生活は苦しみでしかないこと。

・祈りという行為はよいものであること。

・心身に端麗さ(品位)を保つこと。
   
    
[747] 2025/03/29/(Sat)14:39:36
名前 Seigo
タイトル ドストエフスキーから得た考えや教え(11)
本文
人間の知恵は自分の望むところに到達するために授けられているのである。しかし、なにがなんでも一足とびに目的に到達しようというのは、私に言わせれば、知恵でもなんでもないのである。
(『冬に記す夏の印象』より。)

幸福は幸福の中にあるのではなく、それを手に入れる過程の中だけにある。
(『作家の日記』より。)

コロンブスが幸福であったのは、彼がアメリカを発見した時ではなく、それを発見しつつあった時である。幸福とは生活の絶え間なき永遠の探求にあるのであって、断じて発見にあるのではない。
(『白痴』より。)

人間は到達を好むくせに、完全に行きついてしまうのは苦手なのだ。もちろん、これは、おそろしく滑稽なことには相違ないが。
(『地下室の手記』より。)


上で言っているように、ドストエフスキーは、達成や到着や行き着いてしまうことよりも、行き着くまでの途中の過程を大事にした。

達成への希望のもと、途中の過程や今において、楽しみ、幸せを感じていくことが出来れば素晴らしいだろう。


他の古今の賢者も、

終着点は重要じゃない。旅の途中でどれだけ楽しいことをやり遂げているかが大事なんだ。
[スティーブ・ジョブズ(実業家)]

目的地に到着するより、素晴らしい旅路をする方がよっぽどいい。
[釈尊(仏教の開祖)]

人生の目的は、すべてをやりとげることではなく、その一歩ずつの過程を愉(たの)しみながら、愛情のある暮らしを送ることにある。
[R・カールソン(アメリカの作家・心理療法士)]

捕まえたときに、追いかける楽しみは終わる。
[エイブラハム・リンカーン(第16代アメリカ合衆国大統領)〕

空虚(くうきょ)な目標であれ、目標をめざして努力する過程にしか人間の幸福は存在しない。
[三島由紀夫(作家)の著作『小説家の息子』より。]

喜びとは、勝利それ自体にではなく、途中の戦い、努力、苦闘の中にある。
[マハトマ・ガンジー(インドの指導者)]

と述べている。
    




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