ドストエフスキーの「情報・意見」交換ボード
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[685] 2024/10/30/(Wed)19:36:41
名前 Seigo
タイトル 感覚を重視した作家であること
本文   ※追記更新 24/11/03 19:00

感覚というものは知力には従わない。
(『虐げられた人びと』より。)

感情は絶対的なものである。なかでも嫉妬はこの世の中で最も絶対的な感情である。
(『永遠の夫』より。)

偉大な思想は偉大な知性からよりもむしろ偉大な感情から生まれる。
(『永遠の夫』より。)

思想は感情のなかから生まれる。そしてその思想が人のうちに根をおろすと、今度は新しい感情を形成する。
(※所在未確認)


ドストエフスキイの思想は、理論が無能になるところでもっともよく生きる思想である。 彼が「感覚」という言葉を愛用する作家であること、感覚に根底をもたぬどんな思想もドストエフスキイの真面目な対象にならないということは強調されすぎることはない。
[桶谷秀昭『ドストエフスキイ』(河出書房新社1978年初版)の「あとがき」より。]


上のドストエフスキーの言葉や文芸評論家・桶谷秀昭氏の言葉が述べている通り、ドストエフスキーは、感覚(及び感情)を重視した作家であり思想家であったとあらためて思う。

たしかに、『罪と罰』のラスコーリニコフをはじめ、作中で、ドストエフスキーは登場人物が感覚を覚え、感覚に突き動かされ、感覚に振り回されていることをしばしば描いている。
ドストエフスキーの思想においても、桶谷氏が言うように、ドストエフスキーの思想は、観念的なものではなくて、体験的なあるいは想像的な「感覚」が基(もと)になっているという点にもっと注目してみたい。

ドストエフスキー研究家の中村健之介氏も、桶谷氏の見方に沿うものとして、感覚というキーワードを用いてすぐれたドストエフスキー論を展開している。




   
[684] 2024/10/27/(Sun)12:14:14
名前 Seigo
タイトル ニヒリズムの到来と克服の道を示したこと
本文   ※追記更新:24/10/29 17:57 

「何もかもみんな放火だ! これはニヒリズムだ。もし何か燃えてるとすれば、それはつまりニヒリズムなんだ!」 ― 途中略― 「一体あれはあすこで何をしてるんだ?」「消しておるのでございます、閣下。」「いや、そんなはずはない。火事は心の中にあるのだ、家の屋根の上じゃない。あの男を引きずりおろせ。」
[『悪霊』より。町の火事場に現れたレンプケ市長が叫んだ言葉。]


彼(=ドストエフスキー)は、ニヒリズムの意義を同時代人の誰よりも早く、そして鋭く認識していた。宗教哲学的に考察すれば、彼の思考の中心を占めているものは、虚無主義であり、そこに彼は自己の時代の巨大な問題を見た。それゆえ、幾度も繰りかえし新たに彼はその問題と取り組んだのである。虚無主義の問題との対決が、ドストエフスキーの文学作品に独特な性格を与えている。
[W・ニック『ドストエフスキー』より。]

私は、ドストイエフスキイの作品を通して、自分の心に芽生えていたニヒリズムを、その究極の深さにおいて開示されるとともに、その底を割って開かれる雄大荘厳な宗教の世界に出逢わされたのである。これは私の生涯にとって決定的な意味を持つ事柄であった。
[久山康「ドストイエフスキイの魅力」より。]


パスカル、キルケゴール、ニーチェと並んで、ドストエフスキーは、近代社会におけるニヒリズムの到来を鋭く感じ取っていた人だった。

近代においてニヒリズムが生じてくる事情として、近代の科学や自我の進展の中で、価値が多様化して、神の喪失、善悪の喪失を招いたことが指摘できるだろうが、ドストエフスキーは、そういった事情をも洞察していた。

そして、五大長編において、『悪霊』のスタヴローギンなど、ニヒリズムに陥っている人物の精神状況とその悲劇的末路を描き、かつ、一方で、ニヒリズムの克服の道を示していったことが、パスカル・キルケゴール・ニーチェらとの違いと言えるだろう。

生を愛すること、愛の実践、熱中・情熱、信仰など、ドストエフスキーが示したニヒリズムの克服の道をもっと学び、生かしていきたいと思う。


[W・ニック著『ドストエフスキー』(信太正三・工藤喜作訳。理想社1964年初版。)]
      
[683] 2024/10/20/(Sun)13:36:42
名前 Seigo
タイトル 作中の場面描写のこと
本文 ドストエフスキーの小説は、登場人物の会話や独白の面では冗長であるが、一方、時々出てくる場面・動作・情景、大事な場面の描写は、会話とは裏腹(うらはら)に簡潔で、適格で、素晴らしいものがある。

これは、そういった場面に関して氏がいくども削りに削っていく推敲を行なったからであろうが、氏の類まれなリアリズム描写の文才を示すものだろう。

そういった場面描写をもっと多用した作品をもっと残してほしかったと思う。


   
   
[682] 2024/10/18/(Fri)07:23:41
名前 Seigo
タイトル ゾシマ長老の教え(5) ― 愛を伴う謙抑のこと
本文    
『カラ兄弟』においては、アリョーシャが編んだゾシマ長老の教説の箇所にあらためて注目したい。

ゾシマ長老の説く教えについては、罪の自覚の教えやゆるしの教えや克己の教えと並んで、愛の実践の教えが中心になると思うが、ゾシマ長老の愛について独自に述べた次の言葉は私にはいまだ気になっている。

愛をともなう謙抑は恐ろしい力である。あらゆる力の中でも最も強いもので、他にその比がないくらいである。
(語注: ・謙抑=謙虚で控え目であること。)
(『カラマーゾフの兄弟』の第6編第3のゾシマ長老の言葉。)


ゾシマ長老が言う「あらゆる力の中でも最も強いもの」としての「愛をともなう謙抑」は、私には、傲慢な愛ということなどと比較することでなんとなくわかるような気がするが、完全にはわからないところもある。

マハトマ・ガンジー氏も、
 愛はこの世でもっとも効果的な力だ。にもかかわらずもっとも謙虚である。
と似たようなことを述べているが、成し遂げていく力となるというよりも、控え目で目立たないながら相手へのその込めた愛の真心が相手を感動させていくということなのだろうか。

なお、
『新約聖書』の「コリントの信徒への手紙」に、
 愛は自慢せず、高ぶらない。
  (第13章より。)
とあり、ドストエフスキー独自の考えというよりも、キリスト教の愛の考えからの影響があるようにも思う。

ともかくも、力としての大事な愛の形を述べている言葉だと思うので、今後、この言葉に対する理解をもっと深めていけたらと思う。


[この分厚(ぶあつ)い一巻本の河出書房カラー版世界文学全集第18巻『カラマーゾフの兄弟』(米川正夫訳)は昔、古本で入手してこれまで繰り返し読んできた。ゾシマ長老の教説の章では自分は下線をやたら引いているがゾシマ長老のいくつかの教えには自分は感銘を受けてきたのでした。]
    
[681] 2024/10/11/(Fri)17:20:17
名前 Seigo
タイトル 『カラ兄弟』で描こうとしたテーマのこと(7)
本文 三人の兄弟の受難と再生を描いていくことを、『カラ兄弟』(正・続)の中心的なテーマとして挙げてよいと思う。

作者は、正編で、ドミートリイ、イヴァン、 アリョーシャの受難を描いた。

アリョーシャは、ゾシマ長老の死をめぐっての信仰の危機と、グルーシェンカの色香の誘惑による身の堕落に飲み込まれそうになったが、ガリラヤのカナにおける天恵が立ち直りのきっかけとなって愛の戦士として出発していく。続編ではアリョーシャのその後のその戦いと活躍を描く予定だった。
なお、アリョーシャは皇帝暗殺に走るという続編の筋が本当なら、それもまた、新たな再生に向けてのアリョーシャの受難と捉えたいと思う。

さらに注目したいことは、続編では、罪を引き受けてシベリヤ流刑となったドミートリイ、及び、父親殺しをめぐって裁判の過程で気がふれてしまうイヴァンのその後の再生も、平行して描く予定だったに違いないということだ。

各々は、グルーシェンカ、カチェリーナ、リーズ(?)の看護や寄り添いを受けて再生し活躍していくのだ。

そういう点でも、続編が描かれずに終わったことが残念でならない。

  


     
  


    
[680] 2024/10/05/(Sat)14:46:35
名前 Seigo
タイトル ドストエフスキーが描いた登場人物の特徴のこと(5)
本文 次のモーム氏のドストエフスキー論は、ドストエフスキーの小説の登場人物の特徴とそのテーマをよく指摘している。


ドストエフスキーの人物は、自然の暗黒な力と共通なものをもっている。彼らは普通の人間ではない。情熱的で、極端に精神的で、痛ましいほど敏感で、極度の苦悩を経験することができ、何事についても並はずれていて尋常ではない。彼らは神のために悩み苦しむ。その行動は、まるで精神病院の狂人のそれである。だが、彼らの常軌を逸した行動は何かふしぎな意味をもっていると考えられ、そして彼らが、かように(=このように)苦悩を通して自己の本性を暴露しているのは、じつは人間の魂のもつかくされた奥底と、そのおそるべきさまざまな力とを明らかに示しているのだ、ということをしみじみと思わないではいられない。
[サマセット・モーム『読書案内』(西川正身訳・1997年岩波文庫刊)の中の項「ドストエフスキー」より。]


たしかに、ドストエフスキーの小説の登場人物は、世間の常識を逸脱した真面(まとも)とは言えない人物や変人が数多く登場してくる。ドストエフスキーは、彼らの振る舞いや心の動きを描いて、その苦難や苦悩や苦闘、その悲劇や挫折や克服や再生など、その過程と帰結を示すことで、人間の本性や悪性善性を抉(えぐ)り出し浮き彫りにしていった作家だと言えるだろう。


         
[679] 2024/09/29/(Sun)18:32:15
名前 Seigo
タイトル ドストエフスキーの人間観(8)
本文  ※、追記更新 24/10/02 07:20

人間とはどういったものかということを生涯探求し続けたドストエフスキーは、作中でも、登場人物の様子や振る舞いに、そのことをそれとなく、表現している。

悪党の登場人物であっても、善性を持っていて、作中で、不意にそれを垣間(かいま)見せるシーンがあり、読者は心打たれ、人間というものに対する信頼を回復することになる。

ドストエフスキーは、人間の内に、善悪の両方を見た人だった。

  
 ★ドストエフスキーの人間観(1〜7)
        
    
[678] 2024/09/22/(Sun)21:18:43
名前 Seigo
タイトル ★梅原氏のドストエフスキー論 ― 神無しとなった社会や国家の行く末のこと★、★Stop Putin&netanyahu Stop War (20)★
本文   ※追記更新 24/09/25 07:25


・神無しの人の生活のこと
・神無しとなった人間や社会や国家の営為への危惧

といったドストエフスキーが打ち出した特異なテーマについて、哲学者・評論家の梅原猛(1925〜2019)の次の文章は、上のことを梅原氏がよく理解していたことを示すものとして、大いに共鳴・感心してしまう。


神とは何であるか、人間は神なしに生きられるかどうか。そのような問いが、ドストエーフスキイの中心的な問いであり、すべての人物は、そういう問いを問うための、舞台道具にすぎないのである。もっとも(=とは言っても)、すぐれた小説家ドストエーフスキイは登場人物を、けっして思想のあやつり人物にせず、強い個性と、その内面に矛盾をもった実に生き生きとした人物にせしめてはいるが。私は、彼の小説を読むと、彼の問いは、まだ、答えが出されていないと思う。ドストエーフスキイは、神がないという命題と、神があるという命題の谷間に立っていると思う。彼は、おそらく、存在として、神はないという立場にあるのである。イヴァンは存在としての彼の分身にちがいない。彼自身神を失った文明の中にあった。その文明の恐ろしい帰結を考えつめた人であった。しかし、彼はこの文明の恐ろしい帰結を、知っていればいるほど、彼は、もう一つの命題「神はある」という命題に賭(か)けねばならなかった。私は、アリョーシャは、彼の当為(=あるべき姿)、あるいは、願望であると思う。アリョーシャの立場に立たねば人類は救われないと彼は、思ったにちがいない。小児(しょうに)の如き天使の心が必要なのだと彼は思うが、現実の彼は、天使より、はるかに悪魔であったにちがいない。彼自身の内面にひそむ、天使と悪魔の深い葛藤(かっとう)を通じて、ドストエーフスキイは「神ありや否(いな)や」という問いを問う。一見、この「神ありや否や」という問いは無用な問いのように見える。日本人は、特に戦後の日本人は、合理的な啓蒙主義を信じて、このような宗教的な問いを無用な問いとしてきた。しかし、この問いこそは、おそらく、今後の人間にとってもっとも根源的な問いなのである。なぜなら、神を否定して、人間自身を神の立場にたたすことによって始まった人間の世界計画は、今はっきり、破綻(はたん)の相(そう)を見せはじめたからである。人間は神を殺して、それ自身、神になることはできない。神を殺した人間の罪障のために、人間は、いかなる罰をこうむるや否(いな)や? こういう歴史的状況の前に、ドストエーフスキイは、もっとも現代的な作家としてわれわれの前にあるのである。
(梅原猛・1971年筆「神の問題」より。)
[『文芸読本ドストエーフスキー(U)』(河出書房新社1978年初版)に所収。]


ロシアのプーチン政権及びイスラエルのネタニヤフ政権の軍事行動がいまだ継続している。上のドストエフスキーの思想から言えば、彼らは、神へのおそれや自己抑制がなく、モラルや平和への意志を失っているのであり、自己の都合や考えをその強権で絶対化・正当化して、始末に負えない暴挙を続けている。
「神」が現れることのほかには、解決の道はないのだろうか?


     
   
[677] 2024/09/15/(Sun)11:36:29
名前 Seigo
タイトル ドストエフスキーが語った徳目(4)
本文 ドストエフスキーは、書簡や『作家の日記』や作中で、人のありたい徳目(とくもく)を語っている。

当ボードやページ内で、これまで、

・節度、時機を弁(わきま)えること
・明るい見方、曇りの無い心
・希望と理想と情熱を持つこと
・人や事物を愛すること、物事に熱中すること
・生(せい)を大事にし、尊ぶこと

などを挙げたが、さらに付け加えてみるなら、次などが挙げられるだろう。

・笑うこと、笑い方でその人の良さがわかること
・陽気であること
・品位(端麗さ)を身につけること
 (『未成年』のマカール老人が説いている。)
・よい習慣を身につけること
・物事を意識し過ぎないこと
・正直な良いこと、徳行を行うこと、
・家族や親しい人たちと心を許しあって仲良く暮らすこと
・心の分裂は信仰によって解消できること

生活や修身において実践したいものばかりだ。
ドストエフスキーは、長年の人間の観察と精進(しょうじん)の中で、物の見方や生き方において堅実化、円熟化していった人だとあらためて思う。

    
[676] 2024/09/08/(Sun)19:00:40
名前 Seigo
タイトル ドストエフスキーの性格のこと(7)
本文 ドストエフスキーは実際、どういった性格・人柄の人物だったのかということが近年、気になっています。

その性格・人柄はいろいろと指摘できるだろうけれど(こちらなど)、自分が注目しているのは、氏(し)が几帳面だったという点です。身辺はいつも整理整頓されていて、服装もきちんとしていて清潔好きだった。仕事は責任を持って細かく几帳面にやり抜いた。

氏(し)のこれらの性格は、小説の創作の面でも支えや力になっただろうし、自由という問題を抱えていながら氏(し)を生活の上で迷いや混乱や自堕落から少なからず救ったと思う。
     
   




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