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[667] 2024/07/27/(Sat)11:12:40
名前 |
Seigo
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タイトル |
映画『寅さん』と『白痴』 |
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映画『寅さん』には、主人公の設定をはじめ、ドストエフスキーの小説『白痴』と類似点がいくつか見られる。
寅さんは、旅から戻ってきては、わけありの綺麗な女性に惚れ込み、しまいには失恋して、また、旅に出る。親族のおじちゃん・おばちゃんを頼っていて、戻ってきては、そこに住み込み、騒ぎを起こしては、おじちゃんから、馬鹿呼ばわりされる。そういった点など、寅さんは、キャラは異なる部分もあるが、その優しさや、みなから愛される点をはじめ、『白痴』のムイシュキン公爵に似ている。
寅さんが言った言葉には、『白痴』のテーマに触れているものが見受けられる。
「もうこの人のためだったら命なんかいらない、もう俺、死んじゃってもいい。そう思う。それが愛ってもんじゃないかい。」
映画『寅さん』の原作者に、『白痴』をいくらか踏まえているか、聞いてみたいものだ。
![](https://contents.oricon.co.jp/upimg/news/20110401/86209_201104010049164001301644524c.jpg) ★関連の過去の投稿記事 ・ドラマ「JIN-仁-」とドストエフスキー『白痴』 |
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[666] 2024/07/24/(Wed)17:29:11
名前 |
Seigo
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タイトル |
登場人物の発する人間の生をめぐる真実の思いに心打たれること |
本文 |
なんという真実だろう! ああ、なんという真実の声だろう! [『罪と罰』より。死刑囚の言葉を挙げ、その言葉に対するラスコーリニコフの評言。]
ドストエフスキーの小説の作中で、登場人物が不意に発する発言に、私は、人間やその生をめぐっての真実の思いを感じ取って、心打たれてきました。
『カラマーゾフの兄弟』では、ドミートリイの発言、グルーシェンカの発言、フョードルの発言、『罪と罰』では、ラスコーリニコフの発言、マルメラードフの発言、、等々。
それは、その登場人物が抱いてきた思いであり、人間観察を続けてきた作者ドストエフスキーの思いであったのでしょう。ドストエフスキーは、作中に、そういった真実の声(叫び)を入れることを意図的に行なったように思う。
![](https://b-bunshun.ismcdn.jp/mwimgs/0/7/480/img_07a65157b653ffbd87bf67fedc22f7e6285291.jpg) |
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[665] 2024/07/21/(Sun)20:39:48
名前 |
Seigo
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タイトル |
到達してしまうことを嫌ったこと ― ドストエフスキーの物事の見方(9) |
本文 |
※追記更新 24/07/22 07:40
人間は到達を好むくせに、完全に行きついてしまうのは苦手なのだ。もちろん、これは、おそろしく滑稽なことには相違ないが。 [『地下室の手記』より。]
人間の知恵は自分の望むところに到達するために授(さず)けられているのである。しかし、なにがなんでも一足とび(いっそくとび)に目的に到達しようというのは、私に言わせれば、知恵でもなんでもないのである。 [『冬に記す夏の印象』より。]
幸福は幸福の中にあるのではなく、それを手に入れる過程の中だけにある。 [『作家の日記』より。]
コロンブスが幸福であったのは、彼がアメリカを発見した時ではなく、それを発見しつつあった時である。幸福とは生活の絶え間なき永遠の探求にあるのであって、断じて発見にあるのではない。 [『白痴』より。]
上に挙げた言葉で言っているように、ドストエフスキーは、目標とするところに完全にたどりつくこと、一気にたどりつくことを嫌い、怖れ、苦手とした。その目標にたどりつくまでの過程、及び、その過程における生活の絶え間なき探求を大事にした。
ドストエフスキーの作中にしばしば見られる幸福恐怖症も、このあたりの考えから来るのだと思う。
ドストエフスキーのこのあたりのことに注目したアンリ・トロワイヤ氏は評伝『ドストエフスキー伝』の末部を、こう結んでいる。
「到達せざることにおいて、人は偉大になる」とゲーテは言っている。ドストエフスキーは、到達しなかったからこそ、偉大なのだ。
![](https://www.kosho.or.jp/upload/save_image/36000680/20210902101400964600_fdc8caa90421699728b50864d3db7f99.jpg)
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[664] 2024/07/09/(Tue)21:03:36
名前 |
Seigo
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タイトル |
作中の強く印象に残ったシーン ―『罪と罰』(3) |
本文 |
※追記更新 24/07/10 17:53
彼はぎくっとして、急いで窓をはなれた。 (「エピローグ」の第2内のもの。新潮文庫の下巻・工藤精一郎訳。)
ラスコーリニコフがシベリヤの監獄で病院に収容され、ある日、ふと病室の窓辺から外を眺めて、病院の門のところにたたずんで何かを待っている風情(ふぜい)のソーニャを見ての、彼の反応を示した箇所。 「その瞬間彼は、何かが彼の心を貫いたような気がした。彼はぎくっとして、急いで窓をはなれた。」
これは、彼を愛し気遣うソーニャの愛情と真心が通じたとともに、彼女の信仰に根差すところの、おごり高ぶる者に向けての神の働きかけ(鉄槌)を表しているとするならば、ドストエフスキーが示そうとしたテーマはかなり深いと言えるだろう。ラスコーリニコフは最後まで自己の罪を自(みずか)らは自覚できなかったとされているが、他から引き起こされたこの心の衝撃は、更正へ向けての小さからぬ一歩となったのではないかと思う。
![](https://m.media-amazon.com/images/I/51XfH8a8akL.jpg)
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[663] 2024/07/06/(Sat)19:36:48
名前 |
Seigo
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タイトル |
ドストエフスキーの小説の語りの人称形式のこと |
本文 |
※追記更新 24/07/08 07:55
ドストエフスキーは、『地下室の手記』『未成年』『おとなしい女』(『貧しき人びと』もこの部類に入るか)『死の家の記録』などの一人称形式の語り・手記において作家としての本領を発揮している。
中期の『虐げられた人びと』『罪と罰』『白痴』などの作者の客観的な描写・語りを採用した小説も、いちおう、成功を収めている。
なお、『悪霊』『カラマーゾフの兄弟』では「私」なる人物が、時に場面に登場しつつ、出来事を伝えていくという形を採(と)っている。
異なる人称形式の語りが見られることは、小説をより良く完成させることを目指したドストエフスキーの試行錯誤の跡を示していると言えるだろうが、各々の人称形式の語りは、どういう点で有効と考えて採用したのか、あらためて、じっくり検討してみたいところだ。
![](https://static.mercdn.net/c!/w=240/thumb/photos/m76512451237_1.jpg?1685964856) |
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[662] 2024/07/02/(Tue)18:07:23
名前 |
Seigo
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タイトル |
『カラマーゾフの兄弟』の良さのこと(7) |
本文 |
ドストエフスキーの最後の長編小説『カラマーゾフの兄弟』の良いところは、登場人物の魅力だけでなく、カラマーゾフ家の短期日の日常生活で起こる事件をめぐって、そのシーンや会話に、人生や人間についてドストエフスキーが最終的に気付いた洞察や真実を巧みに盛り込んで、読者にそれを感得させていく点にあると思う。
そういう点で、『カラマーゾフの兄弟』は読み甲斐のある小説と言えるだろう。
![](https://static.mercdn.net/c!/w=240/thumb/photos/m23356685442_1.jpg?1718364774) [一巻本の江川卓訳『カラマーゾフの兄弟』 (集英社の愛蔵版世界文学全集・巻19(1975年初版)。] |
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[661] 2024/06/28/(Fri)20:05:42
名前 |
Seigo
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タイトル |
ドストエフスキーの小説の登場人物のこと |
本文 |
※追記更新 24/06/29 22:20
ドストエフスキーの登場人物の特徴について述べた文章として、次の福田和也氏(文芸評論家)の論は鋭いと思う。
自意識ばかりが鋭敏になり、自分が何者なのか、何が欲しいのか、何をやるべきか一切分からず、自分を持て余しながら、どうしようもない衝動だけはふんだんに抱えている厄介者たちの、無益だが深刻な苦闘の劇として彼の小説を読むべきだ。 [福田和也筆「ろくでなしの歌」より。リクルート社刊の雑誌「ダ・ヴィンチ」の1998年6月号に所収。]
『作家の値打ち』で仮借なく現代作家の作品を仮借(かしゃく)なく批評した福田氏だけに、ドストエフスキーの登場人物の痛いところを突いている。
![](https://www.kinokuniya.co.jp/images/goods/ar2/web/imgdata2/large/48703/4870313952.jpg) |
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[660] 2024/06/19/(Wed)18:25:17
名前 |
Seigo
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タイトル |
ドストエフスキーの小説の特徴(15) |
本文 |
※追記更新 24/06/20 17:42
登場人物が殺害に見舞われること。その殺害は日常において凶行される。
殺害が未遂に終わるのは『白痴』のムイシュキン公爵、『未成年』のヴェルシーロフとカテリーナ・アフマーコワぐらいで、『カラマーゾフの兄弟』『罪と罰』『悪霊』『白痴』をはじめ、作中では、当人は運命として受け入れていくかのような殺害とその屍(しかばね)の沈黙が進行する。
ムイシュキン公爵の場合にしても、黒澤明監督の映画『白痴』を観(み)て、嫉妬に狂うロゴージンに付きまとわれるムイシュキン公爵の怖れ戦(おのの)きが、ショーウインドウ越しにナイフが光るシーンから生々しく伝わってきて、こちらまで心震(こころふる)えてしまったのでした。
![](http://www.ai-l.jp/HtKuro/Hakuti/Hakuti1.jpg) [黒澤明の映画『白痴』より。]
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[659] 2024/06/16/(Sun)17:35:41
名前 |
Seigo
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タイトル |
希望を大事にしたこと |
本文 |
※追記更新 24/06/19 18:30
ドストエフスキーは、希望を持つことを大切にした人だった。
堪え忍べ、働け、祈れ、そしてつねに希望を持て。これがわたしが全人類に一度に吹き込もうと願っている真理なのです。 (『スチェパンチコヴォ村とその住人』より。)
希望を持たずに生きることは、死ぬことに等しい。 (書簡より。)
ドストエフスキーが劣悪・過酷だったシベリア流刑に耐えて帰還できたのは、今後も小説を書いて偉大な作家になるという志とともに、生き抜けば生還できるという希望を持ち続けたからだと思う。
そして、ドストエフスキーの希望のうち、特に大事なのは、聖書でキリストが人々や信仰者に語ったことに対する信仰上の希望だろう。ドストエフスキーはキリストを通して希望と心の安心を与えられたのだった。 |
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[658] 2024/06/09/(Sun)14:26:47
名前 |
Seigo
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タイトル |
ドストエフスキーの言葉(33) |
本文 |
※追記更新24/06/09 16:32
わたしにはいつも、最大の幸福とは、少なくともなぜ不幸なのかを知るということだと思われた。 (『作家の日記』より。)
ああ、もし私が将来幸福になり得るのであれば、今の悲しみや災難などは何でもありません。 (『白痴』より。)
私には、幸福とはどうも――人生に対する明るい見方と曇(くも)りのない心の中にあるものであって、外面的なものにあるのではないように思われます。 ( 書簡より。)
上の最初の言葉は、以前から気になっていた言葉だが、ドストエフスキーの不幸や苦難などに対する態度や考えをよく示している言葉だと改めて思う。
ドストエフスキーは生涯、様々な不幸や苦難や悲しみに見舞われたが、決してくたばることなく、旧約聖書の「ヨブ記」の教えにも基づき、それらについて肯定的に深く考え、絶望したり狂ったりすることなく、意義や希望を抱いて、小説を書くという志を忘れず、耐え忍び、乗り越えていった。ドストエフスキーは、忍耐強くて、謙虚な人だったと思う。 |
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