ドストエフスキーの「情報・意見」交換ボード
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[773] 2025/06/04/(Wed)19:03:47
名前 Seigo
タイトル ドストエフスキーの小説の特徴(23)
本文     
ドストエフスキーの小説では、登場人物の会話や独白を通して物語が進行する。

登場人物は会話や独白の中で自身の過去の出来事や自分の考えや思いを語り、また、他の人のことに言及したり評したりすることで、当人や周囲の人々のことやその面目が見事に示されたりしていく。

これらは、作者が、ある場合は作者の分身として、各登場人物のことに、同情し、よく知り、わかっているところから来るのだと思う。
    
[772] 2025/05/31/(Sat)20:12:29
名前 Seigo
タイトル 人間社会と自然界におけるおかしなこと、★Stop Putin & netanyahu Stop War (21)★
本文   ※追記更新 25/06/02 07:20  

 
ドストエフスキーは、おかしなこと(滑稽なこと)ということについて、次のように言っている。


おかしなことを探し出したら、この世の中はまったくきりのないものである。
(『白痴』より。)

偏見をもつ人間の目にたとえどう映ろうと、自然界にはこっけいなものなんか何一つないさ。
(『カラマーゾフの兄弟』のコーリャの言葉。)

(語注: ・おかしなこと、滑稽なこと=風変わりで奇妙なこと。)


愚かさや矛盾や分裂を抱えた人間が生活していく場としての人間社会には、おかしなこと(滑稽なこと)が数多くあるという見方は、いかにもドストエフスキーらしい考えだと言えるだろう。


  ★  ★  ★

最近のおかしなことと言えば、イスラエルのネタニヤフ政権のガザ地区への軍事行動のこと。ガザ地区へ軍事行動をしていく事情や目当ては、ある程度いろいろとわかってきたが、ネタニヤフ政権が、どういうわけで、パレスチナの人々を苦しめ、死傷と破壊を繰り返すこういった非道な蛮行(戦争犯罪)を、ユダヤ教のもとで、平然と行うことができるのか、また、その軍事行動に対して、それをやめさせる世界各国の有効な働きかけが無いのか、おかしなこととして、ほんとに理解に苦しむ。

引き続いているロシアのプーチン政権のウクライナ軍事侵攻も含めて、世界の知恵者たちが結集して、平和的に、外交上等解決策を考えて解決していけないものか?
       
[771] 2025/05/24/(Sat)13:55:13
名前 Seigo
タイトル 松尾芭蕉 VS ドストエフスキー (6)
本文   ※追記更新 25/05/28 17:30

ドストエフスキーの作中や生涯の場面や内容のうち、松尾芭蕉のそれと似ているぶんを、過去にいくどか挙げてきたが( → こちら )、同様の場面として、『悪霊』でスタヴローギンとの会話の中でキリーロフが語る緑の木の葉のことを、追加して挙げたい。


キリーロフ「私がまだ十ぐらいの頃、冬、私はよくわざと眼を閉じて、緑の木の葉が一枚、葉脈をくっきり浮きたせて、太陽にキラキラ輝いているところを頭に思い浮かべたものでした。私は目を開けて見る、しかしあまり素敵で、とても信じられないほどなので、また閉じてしまうのが常でした。」

スタヴローギン「それはいったい、何かアレゴリー(比喩)ですか?」

キリーロフ「いえいえ。どうしてですか? 私の云うのは比喩なんかんじゃありません。私の言っているのは木の葉です。ただ木の葉です。木の葉は素晴らしい。すべてが素晴らしい。何かもいいです。」

スタヴローギン「何もかも?」

キリーロフ「何もかも。人間が不幸なのは、ただ自分の幸福なことを知らないからです。それだけのこと。断じてそれだけです、断じて! それを自覚した者は、すぐに幸福になる、一瞬の間に。」



上の箇所の中のキリーロフの緑の木の葉の語りには、松尾芭蕉が「おくの細道」の旅で日光東照宮参拝した時に詠んだ次の句が想起され重なったのでした。


 あらたふと/青葉若葉の/日の光
  (語注:・あらたふと=ああ、尊いことよ。)
   ※この句の解釈(HP内のぶん)
   ※なお、同コーナーは、見ての通り、最近、
    掲載の芭蕉の名句の数を増やす、ベスト
    12を選ぶなど、更新しています。


いずれも、光あふれる中での新緑の青葉の美しさを讃嘆している。キリーロフが思い浮かべて感じ入っているところは、この句を私たちが観賞して感動していることに似ている。

芭蕉の句は東照宮に祀(まつ)られている徳川家康公の御威光も含めて讃嘆しているが、キリーロフもまた、緑の木の葉の美しさにこの世のもののすばらしさを見ようとしている。

自然やこの世の美しさに対する二人の感受性や描写の才には、あらためて感心してしまいます。
      
[770] 2025/05/21/(Wed)18:21:12
名前 Seigo
タイトル ドストエフスキーに対する萩原朔太郎の短評
本文   ※追記更新 25/05/21 18:40

近代日本の代表的詩人であり、古今東西の知識に通じた博識のすぐれた思想家でもあった萩原朔太郎は、ドストエフスキー文学の人道主義的な面の移入がすすんだ大正期において、ドストエフスキー文学の博愛的贖罪思想に深く傾倒した、日本におけるドストエフスキー受容史上特筆すべき文学者だ。その萩原氏が、ドストエフスキーについて、次のように言っている。


ドストイエフスキイは厖大の闇である。ニイチェは天に届く高塔である。ポオは底の知れない深潭である。この三人は宇宙の驚異で、人力の及び得ない天才である。これ等の「恐ろしきもの」に比べれば、ボードレエルはずっと遥かに人間的で、我等に近い常識を感じさせる。ゲーテは偉大な文学者で、一切を包含する海である。 (途中略) すべて私は、これらの教師から学んだ。
[萩原朔太郎著アフォリズム集『絶望の逃走』より。ちくま文庫『萩原朔太郎の人生読本』にも「偉大なる教師たち」(p106)と題して所収。]


上で、萩原氏は、どういう意味で、ドストエフスキーの作品やドストエフスキーという人物をどういうふうに捉えて、ドストエフスキーのことを「厖大の闇」と言ったのであろうか? 

そのあとの「宇宙の驚異」「人力の及び得ない天才」「恐ろしきもの」「人間的・常識」(に反するもの)なども踏まえて、暗さや得体の知れない測りがたい奥行きというニュアンスが込められているのではないかと思うが、同時に、救いや光明も感じられたのなら、「光を孕(はら)む闇」という言い方はできなかったのであろうか?

もう少し真意を知ることができればと思う。


(※、この本には、ほかにも、ドストエフスキーに言及した萩原氏の文章がいくつか見られる。)
     
    
    
[769] 2025/05/19/(Mon)18:54:51
名前 Seigo
タイトル ドストエフスキーの小説における推敲のこと
本文     
完成は、付加すべき何物もなくなったときではなく、除去すべき何物もなくなったときに達せられる。
(ドストエフスキーの言葉。※所在、未確認。)

上のドストエフスキーの言葉は所在がいまだ確認出来ていないが、小説の場面の描写に関して言った言葉だと考えてみたい。

ドストエフスキーの小説においては、会話や心理描写がしばしば冗長になるけれども、一方で、大事な場面の描写は簡潔で適格だ。その場面の推敲において、上で言っているやり方を実行しているのだと思う。
   
[768] 2025/05/17/(Sat)10:39:37
名前 Seigo
タイトル 人間への環境の影響のこと
本文    
人間観察の大家だったドストエフスキーは、人間への環境の影響について、以下など、しばしば、述べている。


犯罪には《環境》というものが大きな意味を持っている。
(『罪と罰』より。)

土地が変われば、私たちはみんな元気になるだろう。土地が変わるということは、何もかもが変わるということだからね。
(『虐げられた人びと』より。)

自分にまったく縁のない環境で暮らすほど恐ろしいことは、この世の中にまたとあるまい。
(『死の家の記録』より。)

低い天井や狭い部屋は、頭と心を締め付けるもんだよ。
(『罪と罰』より。)

お前の部屋を見せるがいい。そうすれば、お前の性格を言い当てて見せよう。
(※、所在、不明。)
     
[767] 2025/05/14/(Wed)19:48:47
名前 Seigo
タイトル いまだよくわからないドストエフスキーの言葉(5)
本文   ※追記更新 25/05/14 21:50 

 
世界を救うのは、道徳でもキリストの教えでもない。ことばは肉体なり、と信じる、その信仰だけが救えるのです。
(トルストイの『わが懺悔』を読んで聞かせてくれたトルストイ夫人に向けて、ドストエフスキーが言った言葉。)

の言っている内容が、いまだ、よくわからない。

ここには、キリスト教・ロシア正教の「ことば」(この世に肉体を持って現れた神としてのイエス・キリストのことば?)というものについての独自で大事な見方が出ているとは思うのだが、世界を救うものとしての信仰とは、トルストイが『わが懺悔』で述べているようなイエスが説いた教えとしての道徳(愛)を実践していくことにあるというよりも、イエス・キリストはこの世に肉体として現れた神だと信ずることだということが言いたいのだろうか?

この方向で考えると、トルストイの別の言葉である、

神の存在を信ずること、人間の幸福はこの一語につきる。
(トルストイの戯曲『生ける屍』より。)

に近いのだろうか?


自分はキリスト教の教えよりも仏教の教えに向かう人間であるけれど、上のドストエフスキーの信仰としての言葉を、今後、もっと理解できていけたらと思う。
   
[766] 2025/05/12/(Mon)19:33:40
名前 Seigo
タイトル 嘘とドストエフスキー
本文   ※追記更新 25/05/14 19:58

ドストエフスキーには、嘘についてのコメントが時々見られる。( → こちらなど。)

一つは、真実に到達するためには、途中、嘘を混ぜる必要があるという意見。

二つ目は、自分に嘘をついてばかりいると、自分の内にも外にも、信じれるものの見分けがつかなくなっていくと言っている。

前者は、いかにも、作家らしい考えだと言えよう。

   
湯川秀樹氏の発言だったと思うが、『カラ兄弟』では、登場人物は、よく嘘をつく、という発言を見たことがある。

その言葉を聞いて、『カラ兄弟』を細かくよく読んでいる結果、そう言ったんだと思うが、自分は、そうかな?と思い、いまだ確認出来ていない。ドミートリイあたりが取り調べの予審の際によく嘘をついているのだろうか?
    

[765] 2025/05/10/(Sat)10:38:02
名前 Seigo
タイトル 重要な生涯の事跡(8) ― 言論活動を平行して行なったこと
本文    
ドストエフスキーの生涯にわたる活動で注目したいのは、小説の創作活動に平行して、雑誌発行のジャーナリストとして言論活動を続けたことだ。

言論活動も続けた事情や背景については、

・青年期よりロシアの社会の諸問題について大いに関心があったこと。

・雑誌の編集や発行に従事して、小説の掲載のみでなく、時事評論の掲載も行なったこと。

・シベリヤ流刑や欧州への旅行や滞在を通して、ロシアの民衆や、欧州に比してのロシアへの関心や考察が促されたこと。

・当時のロシアでは、作家も、憂国の士として社会発言をしていく伝統・傾向があったこと。

などを挙げてみたい。

なお、ドストエフスキーにおいては、小説であっても、『悪霊』『鰐』、『ペテルブルク年代記』『ペテルブルクの夢』をはじめ、当代の時事問題や社会問題を盛り込んだ社会小説や、時評風随筆(フェリエトン)ふうの小説も見られることは、周知の通りだ。

 

 
   

※、これまでの投稿ぶん
ドストエフスキーの重要な事跡(1~7)
  
  
[764] 2025/05/07/(Wed)19:16:14
名前 Seigo
タイトル ドストエフスキーの小説の特徴(22)
本文    ※追記更新 25/05/08 07:35


これまで当ボードで挙げるの落としてましたが、ドストエフスキーの小説に見られる顕著な特徴として、

  短時日(たんじじつ)性

ということが挙げられるだろう。

ドストエフスキーの小説においては、後日談の場面を除けば、メインとなる出来事や事件が展開していく期間が、数日であり、短期間だということだ。

加賀乙彦氏は氏の著『ドストエフスキイ』(中公新書) で、この点を確認して、

『罪と罰』は二週間、『白痴』は八日間、『悪霊』は十日間、『カラマーゾフの兄弟』は六日間の記述である。

と指摘している。(『白痴』は6日間だと言っている研究者もいるようだが、こういうふうに指摘されると、自分などは、あらためて、一驚してしまったのだった。)

この短時日性は、ドストエフスキーの小説のどういった性格や、作者ドストエフスキーのどういった作風や小説観から来ているのかを考えてみることは、とても意義があるだろう。
次に気付くものを挙げておく。

・作者はその間の時間の経過を忘れてしまっているかのように、作中の内容としての会話を長くしていること。

・作者は出来事が続く期間が長い大河小説や歴史小説を書くことには興味がなかったこと。

・過去の出来事は、今の会話や作者の叙述で語っていくという形を取っていること。

・長期間に渡る出来事を客観的に描写叙述していくことよりも、今の登場人物の思いや考えや内面の葛藤などを克明に述べていくことに集中したこと。

 
   
         




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