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[129] 題名:Lady in Black - 黒衣の貴婦人II (4) 名前:XXX MAIL URL 投稿日:2023年08月01日 (火) 20時02分
それでも仮に、本当にこの男との関係が不本意であったとして。関係の継続を、もしくは関係を持つこと、或いはお酒の場に応じることさえ、拒絶していたらどうなったのか。
男が別の“標的”にその目を向けるということもあり得たのではないか。例えば、自身の一番の旧友であり、最も信頼するビジネスパートナーの女専務。普通の男なら手を出すのを憚るだろうが、この男ならやりかねない。彼女が男の誘いに応じるとは思えなかったし、応じないと願いたかったが。
その対象が誰になるにせよ、この強き雄が別の雌の肉体に照準を定めていれば。怜子、そして須崎一家は平穏なままだったのかもしれない。
だが一方で、怜子自身が“女の充足”を覚えることはなかったかもしれない。
今の怜子にとって、その想像は恐るべきことであった。己が“女の充足”を家族の平穏に優先させるのは道理に反しているとしても。
それに、遂に巡り合った牡、自らが認めた男をみすみす手放して、他の女への方へ向かわせることなど、少なくとも今の怜子には許せなかったし、考えたくもなかった。
“写真”の存在は、ただ己の過ちを切り取った恥ずべきものではなく、怜子にとって立場をわきまえない“カラダだけ”の関係に応じる大義名分になっていたのは間違いなかったが。己が行いを正当化するだけでなく、その罪を赦され“救済”を与えられたことを踏まえると、贖宥状という例えは適切だろう。先ほど志藤が問うたように、結果的に写真の存在は怜子にとって都合が良いものであったと認めざるを得なかった。
怜子は少しの間、押し黙っていたが、やがて再び口を開いた。
「…貴方と英理の関係を知ったとき、息が止まりそうだった」
自身が一方的に関係を終わらせようとしたときの、そして、実の娘と己が情人両方の裏切りに遭ったときの苦い記憶。これまで、自らの心中に封印してきた、偽りのない感情。
「驚きましたよ。まさか、英理といるのを清水専務に見られていたとはね」
多情がバレても悪びれる様子がないのは相変わらず。怜子との関係と違って、英理との場合は交際を隠匿する努力などしていなかったくせに、いけしゃあしゃあと答えて。
「貴方からの誘いの間隔が長くなったり、約束を突然キャンセルしたり。貴方のことだから、他に遊ぶ相手もいるのだろうと思っていたけど。まさか相手は自分の娘だったとはね。傑作だったわ」
「遊びだなんて。僕は社長のことをそんな風には思っていませんでしたよ」
冷ややかに呟いた女の言葉と、何の説得力もない男の言い訳。ただ、たとえ当時は“カラダだけの関係”であったとしても、今の状況を鑑みると結果的にただの“遊び”でなくなったのは事実であったが。
「母と娘の両方を誑しこんでよく言うわよ」
「あれは英理が強引に持ちかけられたんですし、社長には黙っておけと言うから、仕方なく応じていただけですよ」
英理と志藤の関係が発覚したとき、電話口でも聞いた不義理な男の言い訳。
「自分の恥を貴方だけに晒すだけならまだしも。その浮気相手にまで筒抜けで、しかもそれが自分の実の娘だったとはね…知らぬは自分だけ。本当に馬鹿げていると思ったわ」
志藤へ詰問したときも“会談”の場においても口にしなかった口惜しさと恨めしさを赤裸々に吐露しながら、怜子は続ける。
「あの写真も、英理に見せたのね」
英理と志藤の関係を悠子から知らされた夜。英理との話し合いの中ではっきりとそう聞かされたわけではなかったが。話の流れからそう推測していた。
「英理は僕が社長を脅迫してると思っていたんですよ。それで『隠し撮りしたなら、その写真を見せろ』と」
実際、事後に隠し撮りした写真の存在をネタに更なる関係を持ちかけてきた点は脅しと何ら変わらなかったのだが。
「他にあなたが撮った悪趣味な写真も。どうせ、全部英理に見せたのでしょう」
狎れを深めていく中で、撮影を強要された写真の数々。ラブホテルの廊下。入室直後。事に及ぶ前の卑俗なお遊びに嫌々付き合わされて撮られたインタヴューの真似事もあれば、ストリップ紛いのようなものもあったはずだ。最初の夜のときのように、自身が気を飛ばしている最中に撮られたものもあっただろう。それだけでなく、自身が気づなかっただけで、自らの総身に快楽の嵐が吹き荒れる最中に、隠し撮られたものもあったかもしれない。いずれも、颯爽とした女社長には似つかわしくない場所や格好で、その対比を際立たせたような下劣なものである点で共通していた。
志藤は怜子の質問に対して、“まるで英理に問い質されているみたいな言い方だな”と愉快さを隠しながら答えた。
「『見せろ見せろ』とうるさく言われましたが、流石に全部は見せていませんよ。英理の気持ちはわかりますよ。あの怜子社長の“秘密”に触れたいのは僕も同じでしたから。でも、僕ら二人だけの秘密を、娘とはいえ、全て明かす必要なんてないですからね」
今話している会話は、怜子の中である程度の感情の整理が出来た今だからこそできるものであった。実際、実の娘を巻きこんでの三角関係が発覚した直後は、“娘となぜ関係を持っているのか”と“今後”をどうするかの議論に終始していたし。当然、若い愛人とその浮気相手に対して、自らの恥の部分を話題にするなど、当時の怜子にできるはずがなかった。
「そうやって…何も知らない私を二人で嘲笑っていたんでしょう」
そう言うと、怜子は目を閉じ、ふぅっと一息ついて。
「…元はと言えば、あの娘(こ)に気づかれた私の不手際ね。まさか、つけられていたとは思いもしなかった。不覚だったわ」
「英理は人を良く見ていますからね。加えて、社長への憧れは人一倍強いですし。遅かれ早かれ気づかれたと思いますけどね」
「…私がもっと気をつけていれば…」
口に出さなかったその先の言葉。この男との“破局”のきっかけは男の不注意にも一定の責任があったと言えるが。そもそも、自身の愛人が自らの娘と関係を持つようになった契機を作ったのは怜子自身にも責任があるのだと認めていた。
かつては、娘を、そして家族を巻き込んだことへの懺悔の色が見てとれた。関係を再開させた後は、娘の“介入”を許したこと、別離の一年への後悔の方を色濃く浮かべていたが、それも“三つ巴”の関係を受け入れるようになってからは幾らか薄らいだかに見えたが。一度は清んだはずの怜子の感情は今再び濁りを見せて。
「貴方のこと、恨んだわ」
自ら一方的に別れを告げておきながら、虫がいい発言だとは分かっていたが。それが怜子の素直な心情であった。
「…後悔もしたわ。感傷や後悔の感情なんかないと言い聞かせていたけど。自分に嘘をついていたのよ」
空白となった一年間。須崎怜子としての誇り。女の自尊心。捨て置かれた女の情念。刻み込まれた快楽の記憶。肉体の疼き。葛藤。否定し続けてきた自身の醜い感情に整理をつけたかのように、眼前の男に打ち明けた。
周囲が知る怜子は冷然としていて、時に冷徹な印象さえ与えるのだが。ごく一部の限られた人間のみが知るプライベート、とりわけ色情を巡る際にだけ姿を表す、人一倍ウェットで嫉妬深く、それでいて情熱的な気質が、二人きりとはいえ公の場で見られるのは新鮮だった。
「前もお伝えしましたけど、僕が本当に欲しかったのは怜子社長、貴女だったんですよ。あんな一方的に別れを告げられる中で、何とか社長との関係を繋ぎ止めるには英理の求婚を受け容れるしかなかったんですよ」
志藤の言い訳はこの男らしくいかにも軽薄だったが、先程から繰り返す“関係を繋ぎ止めるため”という論理にはある程度の一貫性があるようにも聞こえた。その言葉を改めて聞かされて、信憑性はさておいて怜子の不快感は幾分か和らぐのだった。
志藤は優し気な笑みを浮かべて続けた。
「英理からのプロポーズには僕も驚きましたが、あれはナイス・アイデアだったと思いますよ。僕が英理と夫婦になることで、怜子社長とも家族になれたんですから。僕らにとって最適解でしょう」
その言葉は、捉えた方によっては娘の存在を軽んじているようでもあったのだが。怜子にとっても、あのままいかがわしいホテルで人目を忍んだ関係を続けるには、発覚のリスクが常に付きまとっていたであろうし。関係の発展など望むべくもないのは明らかだった。世間に関係を隠したまま、この男との関係を維持するのに、“家族”の体を取ったのは、行き当たりばったりで結果論かもしれないが妙案と認めざるを得なかった。
だが、その無鉄砲な選択肢を取れた英理と取れなかった自分。そこにはある種の羨望と嫉妬といった黒い感情も見え隠れするのだった。社会的地位や、年齢、尊大なプライドが枷になって怜子自身を拘束し続けながら、その枷こそがこの貴婦人をより魅力的に飾っているのは何とも皮肉に思えた。
「僕と社長が家族となった今。僕らの秘密は隠しやすくなっているし。結果良ければ全て良し、ですよ。ビジネスだってそうじゃないですか」
「全ては貴方は思うつぼ。貴方は私も英理も誑しこんで。貴方の勝ちよ」
「そんなことないですよ。社長も望むものを得たでしょう?英理は英理で、自分の思い描く形になったわけですし。Win-Winどころか、三方良しじゃないですか」
「三方は売り手、買い手、世間よ。私たちの場合、世間には決して漏らせないわ」
冷静な突っ込みに生真面目な怜子らしさが出ていて可笑しかった。
「ははは、確かに世間には漏らせないですね、僕らの関係は。でも、いっそう強まった背徳感もまたいいでしょう?」
志藤は軽口を叩いて続ける。
「紆余曲折はありましたし、怜子社長に寂しい思いをさせてしまったのは申し訳なかったですが。こうなるのは必然だったんですよ。あるべき形に治まったということです」
「…そうね」
絶対的な自信を滲ませながら断言した志藤に怜子も応じた。志藤はグラスを持ち上げると、
「禍転じて福と為す、というやつですよ。僕らの幸せに乾杯しましょう」
言われるがままに怜子もグラスを手に取り、交わされた杯がチンと小さな音を立てた。