大滝・馬場人事労務研究所の掲示板

皆さんの情報交換のための掲示板です、ルールを守って有効に楽しく使ってください。


[83] 自力か他力か?
大滝 - 2022年06月13日 (月) 11時21分

柳宗悦の「南無阿弥陀仏」を読んでいる。

法然から親鸞、一遍へとつながる浄土教系の流れがよくわかる。
柳は、禅宗のような自力宗と浄土教系のような他力宗とは、決
定的な違いがあるのではなく、通る道が違うだけで頂上では一
つになると云っている。

確かに道元の正法眼蔵の「生死」の巻に「この生死は仏の命なり。
これを厭い捨てようとすれば、すなわち仏の命を失ってしまう。

仏の在りようを止めてしまう。厭うことなく慕うことがなくなって
初めて仏の心に入る。ただし、自分の心で測ってはいけない、言葉

で表現してもいけない。ただ、わが身も心も放ち忘れて、仏の家に
投げ入れて、仏の方から行われてそれに従ってゆくとき、力も入れ

ず、心をも費やさずして、生死を離れて仏となる。」と記している。
これは自力といえるだろうか?

一方、一遍上人の和歌に「称うれば 仏も吾もなかりけり 南無阿弥
陀仏 南無阿弥陀仏」というのがあるけれど、これは他力といえるだ
ろうか?

柳は目指す理想は一つで、ただ、方法が違うだけだと云っている。浅
学菲才の身であることを重々承知した上で云うけれど、僕も全く柳に
同感する。

むしろ現世利益を追求した密教系の宗派と現世利益を中心としない浄
土系禅宗系の違いの方が際立つように思われる。柳の「南無阿弥陀仏」

も10年ほど前に2回読んでいるけれど、10年前は法然と親鸞の違い、
一遍の違いともよく理解できなかった。今多少理解できるようになっ
たのは、この10年の勉強の成果と云えるかもしれない。

だからどうしたということでもあるんだけれど…



こちらの関連記事へ返信する場合は下のフォームに書いてください。

名前
メール
タイトル
本文
URL
削除キー 項目の保存


Number
Pass