| [359] 道元 |
- 大滝 - 2025年09月16日 (火) 10時37分
ひろさちやの「道元を生きる」を読んだ。ひろさちやは仏教学者であり宗教者でないが長年くすぶっていた道元に対する疑念をひろさちやも感じていたことに心に落ちるものがあった。
道元の初期のころ、仏性は誰れもが有しており在家でも誰でも悟ることができると云っていたにもかかわらず、晩年には出家しないと悟ることはできない、坊さんにならないと悟れないと正法眼蔵に書いている。それでは曹洞宗の信者たちを騙していることにならないか?
道元の初期のころ、臨済とか徳山を評価していたにもかかわらず、晩年はくそみそに云っている。特に徳山についての逸話から徳山は評価するに当たらないと。その逸話とはもうえらくなっている徳山が食事の時間でもないのに茶碗をもって食堂に行ったところ、まだ時間じゃない、何考えているんだこの爺さんはとドヤされ、しょ気てトボトボと自分の部屋に帰っていたことを上げていた。
そうかと思う。僕はこういう徳山が好きである。すでに禅の大家となっていた徳山を怒鳴りつけた弟子もエライが、弟子に怒鳴られてと素直にとぼとぼと自分に部屋に帰っていく徳山はもっとエライと思う。大げさにいえば、禅の真髄ではないかとさえ思える。
ひろさちやは、道元は宗教者でなくて哲学者だと。僕はかねてからそう思っていた。哲学者として道元はホントに尊敬に価する。それで以前は2年に1度くらいは永平寺にお墓詣りに通っていたが、正法眼蔵を読んでいるうちに(ほとんど理解しているとは思わないが)、宗教者として道元が身近に感じられなくなった。当たり前か?正法眼蔵は弟子に向かって書いていて在家(僕は在家でもないが)に目を向けていないのだ。
道元に関するどの本を読んでも、道元を批判することは書かれていない。批判すること自体不遜なことであることと思っていた。しかし、真に自由に生きると意味では僕は尊敬する道元からも自由でありたいと思う。これだから僕は悟れないのだ。処置なしだね。
|
|