| [351] 荘子 |
- 大滝 - 2025年07月28日 (月) 10時26分
夕涼み よくぞ 男に生まれけり 宝井其角
昔は夏の夕方、男は下着姿で夕涼みできたんだね。今は夕方でも34度を超えていて夕涼みどころではなくなっている。
僕は週末は相変わらずアバルトで走り回っていて、大概日帰り温泉巡りしているが、先週末は秩父の荒川沿いにある「梵の湯」に行ってきた。泉質もよくサウナに入って水風呂にも入り、風呂上がりにそこの食堂で葉ワサビ蕎麦を食し、エアコンのきいた休憩室でコーラ呑みながら本を読んでうつらうつらできたのは極上の時間を過ごしたと思える。こんなんでいいのか?と少し反省するが、まっ、深く考えないことにする。
そこで読んでいた玄侑宗久の「荘子」の中に「効率を求めることは恥ずかしい」と云うのがあった。効率を否定しては現在ではとても生きていけないだろう。僕も仕事をしている以上効率は否定できない。
しかし、心の底では共感しているところがある(矛盾だぁ!)そもそも僕は中学生のとき神棚を作る際、金づちで釘をうまく打つことができず、母親から「この役立たず」とあきれられたものだった。僕ば僕で、「役立たずで結構、オレはアタマで生きて行くわい!」と母親に反発したが、内心はその通りだと思っていた。後期高齢者なった今までも思うが役立たずの自分が普通に生きて来れたことが不思議でならない。
「荘子」を読んでいると、徹頭徹尾、役立たずを擁護している。「心はいかにして自由になれるか」が、玄侑宗久の「荘子」のテーマである。自由に生きるというのが僕のテーマでもあるから「荘子」に書かれていることは概ね理解できるが、それでもこれでいいのかぁ〜?
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