| [336] 父が息子に語る哲学の書 |
- 大滝 - 2025年06月16日 (月) 10時33分
「父が息子に語る哲学の書」(スコット・ハーショヴィッツ)を読んでいる。ハーショヴィッツは、哲学は「考える技術」だと定義し、権利だとか復讐だと罰等について、自分の子供との対話を例に挙げて説明している。わかりやすくて面白く、僕も子育ての時代にこの書を読みたかったなと思った。
例えば、言葉の項目の中で、ハーショヴィッツは、「使用する」と「言及する」は違うと。汚い言葉使いの例で、(クソッ、ミルクをこぼした)が「使用する例」で、(子供の前で「クソッ」なんていうべきじゃない)が「言及する例」だと。
使用した場合は不適当で言及した場合は不適当ではないと。そうするとハーショヴィッツの子供が、「誰がクソッなんて言うもんか!クソッたれ!」と叫んだと。意識していたかどうかはわからないけど、ハーショヴィッツの6歳の子供は見事に「言及する」と「使用する」例を使い分けていた。笑ったけど。
これが、差別用語だと深刻な問題になることを考えれば、ハーショヴィッツの指摘は重大であると思われた。
どうして日本の哲学者は生き方に根ざした哲学書が書けないんだろうか?自分の頭の悪いことを棚に上げて云うのはなんだけど、高名な文化人であると思われるKK氏が朝日新聞の文化蘭に書いた文章は、何を言いたいのかさっぱりわからなかった。
重ね重ね自分の頭の悪いことを棚に上げて云うが、抽象的用語の羅列で、辞書片手に時間をかけて理解したとしても実際はたいした内容のあることを云っているとも思われなかった。おまけに自分自身が書いた書籍について質問されてもその時の自分ではないから答えられないと。小林秀雄もそんなことを言っていた記憶があるが。自分が書いた内容について答えられないのであれば、誰がその内容について判断するのだ。
こんなものを朝日がありがたがって掲載していることに腹が立ってきた(自分の頭の悪さに対してもだけど)。こけおどしばかりの日本から世界に通用する哲学者が生まれないのは当然のような気がする。三度自分の頭の悪さを棚に上げて云うが…
|
|