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[214] 論語
大滝 - 2023年12月11日 (月) 11時37分

「論語」の中に孔子とその弟子の問答がある。「子貢いわく、貧しくして諂(へつら)うことなく、富て驕(おご)ること無きは如何(いかん)。子いわく、可なり。いまだ貧しくて道を楽しみ、富て礼を好むには若(し)かざるなり
ー子貢が言った。貧乏であってもへつらわず、金持ちであっても驕らない。そういう人間をどう評価すべきでしょうか?孔子は答えて言う。よろしい。なかなかの人物だ。しかし、 貧乏であっても道を楽しみ、金持ちであっても礼儀を好む者には及ばないね。

孔子の考え方は、貧乏をマイナス価値とみている。貧乏は良くない。その貧乏にかかわらず彼は道をたのしんでいるから立派だと。つまり、ここでは、貧乏は克服されるべきものだと言っている。

この考え方は貧乏に生まれた僕にはよくわかるところがある。しかし、ひろちさやは、仏教においては、貧乏はマイナス価値ではないと。じゃプラスの価値かというとそうでもないと。貧乏だとか裕福だとかにこだわらないのが仏教の基本的態度だと。

貧乏の家に生まれた者は金がないことの苦しさと屈辱感をよく知っている。だから金持ちになろうと努力するのだ。それの何が悪いかと思う。そういう人間に対して貧乏とか裕福とかにこだわらないというのは、金持ちになろうとしてなれなかった者が最後にとるいじけた態度のようにも思える。

金持ちになろうと努力することは悪いことじゃない。ただし、金持ちなったからといって貧乏人をなめるなよ。金持ちになろうとして結果金持ちになれなかったとしても卑屈になるな、ボロは着てても心は錦だぜ!

と、ここまでが若い時から考えていたこと。人生の晩年になって、金持ちになるのはもう無理だとわかった老人はどう生きていけばよいのだろうか?その立場になって初めて、仏教の考え方が生きてくるように思える。

金があっても幸せに見えない人もいるし、金がなくても幸せに見える人もいる。いつまでも金に執着し、いつまでも貧乏にいじけていることはどうよと思う。金があっても幸せ、なくても幸せという道を歩いて生きたいと僕は思っているんだけど…



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