「森友事件」再検証



私たちの掲示板をご覧になってくださり、ありがとうございます。

私たちは、思想、立場や経歴も違う人間ですが、ある偶然から「森友事件」について集まって議論をする機会を得ました。

そして、各々が持つ知識と経験に照らして過去のメディアの報道などを改めて検証していたところ、従来、「森友事件」について報道されていた内容には疑問点がいくつもあることに気がつきました。

話し合いの末、私たちは、自分たちが議論の結果、到達した結論を公開することにしました。

ご覧になられる皆様におかれましては、従来の「常識」とは違う意見があることをご存知いただければ幸いです。



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[105] ある国有地払い下げの実例について
暁烏 - 2021年10月01日 (金) 15時12分

元朝日新聞記者だった佐々克明氏(故人)の回顧録「病める巨象」朝日新聞私史 (文芸春秋社 昭和58年6月20日)には、朝日新聞社が東京にあった有楽町の本社を売却し、築地の国有地の払い下げを受けた経緯が書かれています。

 長文になりますが、紹介します。

 なお、文中美土路 昌一(みどろ ますいち)、廣岡 知男、(ひろおか ともお)は、当時の朝日新聞の経営陣で、当時は、朝日新聞は東京都の有楽町に本社がありました。

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 石油ショッグが発生したこともあって、広告収入の増加どころか、現状を推持するのがやっと、という事態にたちいたったからである。
 たちまち、人件費の膨張に悩み、銀行からの借入金も年ごとにふくれあがった。
 昭和五十年二月には、月額にして八千万円の欠損が計上きれ、借入総額は五百億円の巨額に達した(坂本茂美・経理総務 ー当時ー の経労協での説明)。
 そう言う経理の悪化にもかかわらず、前記のような理由で、脱有楽町は、なしとげなければならないプロジュグトだったのである。
 美土路・広岡体制は、脱有楽町プロジュグトをすすめるに当って、簡単にいうと、次の戦略目標を設定したようだ。

 @都心部に新社屋建設用地を取得する。
 A有楽町本社の土地(地上権だけか、もしくは所有権を含めるか)の売却。
B新社屋での新聞制作は、工程を全自動化する(ネルソン方式)。

要するに、旧社屋敷地を高く売り、安い代替地に、合理的なシステムの新社屋をつくる、という計画である。だが、都心周辺に、有楽町にまさる立地条件のいい、安い土地がざらに眠っているわけがない。目標は初めから、「公有地」にしぼられた。朝日新聞のステータスをもって、政界・官界に交渉し、国有地を安く払いさげてもらう運動が、広岡社長の手ですすめられていた。
 しかし、いくら旧社屋を高く売り、国有地を安く入手できても、超現代式の新工場をつくるには、膨大な建設資金を必要とする。しかも、資金のほとんどを借入金でまかなわざるをえない。そうした時期に、経済見通しを誤り、二千人もの剰余人員をかかえこみ、人為的な経営危機を招いてしまった。スタートしたばかりの広岡体制は、当初から暗礁にのりあげてしまったのであった。
 もし、大株主の村山家が、経営に参加していたならば、それぐらいのことは、何でもなかったことだ。だが、ボード株で権力を奪取した広岡体制は、村山家の経営参加を排除したままで、社業の経営をはかってきた。
 社内株の争奪合戦は泥沼状態。剰余人員をかかえての経理悪化。有楽町撤退のタイム・リミットの接近。朝日労組の突きあげ強化。臨時雇いの労務者を中心とする新左翼勢力の擡頭(印刷・発送・編集庶務・出版局など)など、昭和四十四、五年から数年間、広岡体制は四面楚歌の苦境に立たされていたのであった。
 広岡体制、すなわち朝日新聞は、どこかに危機打開の突破口を見出さなければならなかった。

(中略)

 昭和四十八年(一九七三)、朝日新聞社は中央区築地五丁目・旧海軍省水路部跡の国有地、一万四千六百八十一平方メートルの払いさげを受け、法務局に登記した。払いさげ事務の窓口は、大蔵省関東財務局である。許可基準は、国有地財産法による。

 − 当該財産(国有地)の譲渡を受けた者が、公共団体又
は教育、もしくは社会事業を営む団体である時
五年以内の延納の特約・・・・・・・・

 という条項が適用され、昭和五十二年までの分割払いが認められた。経理がいかに苦しかったかが理解されるであろう。
 そのとき、首相は田中角栄(第二次)、蔵相は愛知揆一(故人)、自民党幹事長は、橋本登兼三郎(ロッキード事件で一審有罪)であった。橋本幹事長は朝日OBで、在社中は、上海特派員・東亜部長などを勤めた。美土路昌一・編集局長時代に重く用いられ、社内では美土路派とみられていた。
 朝日新聞社が築地の国有地を取得したいきさつは明らかではない。ただ、国有地払いさげ工作を政、官界にすすめるのは、新聞社に限らずどの業界でも常識である。また、朝日に限らず、同業他社がそれぞれ国有地の払いさげを受けていることも周知の事実だ。朝日もその例外ではなかったわけである。
 新聞社が国有地払いさげを受けることが、けしからんという批判があがるのは当然であろう。だが、よく考えてみると、私企業なのだから、企業利益のため、遊休国有地を安く払いさげてもらってわるい、ということはない。それも企業努力というものなのだし、資本制社会にその土地が活性化されるのは、好ましいことではあるまいか。公器であるとか、文化的遺産などといいすぎるから筆訣を浴びる
のだ。企業だから当りまえ、とひらきなおるべきだとさえ考える。
 したがって、朝日新聞が、田中内閣なり自民党幹事長に”アヒルの水かき″をかいて、国有地を取得した、としても、その限りにおいては何ら問題とするに足らないはずである。
 そのことが、公器″である紙面に連動しなければ、という前提に立ってのことだが。

(p251.252)

(中略)

ところでさきにも記したように、新社屋の用地は約四千数百坪、国有地の払い下げを受けて入手したものだ。ここには戦前、旧海軍省水路部の庁舎が数棟あった。戦後、海
上保安庁水路部にさま変りしたが、水路部が隣接する土地に新築移転したので空地になっていた。首都高速道路の入口に近いので、新聞を運ぷトラッグの出入には便利だし、多くの輪転機の収容、据えつけが可能とみて、朝日新聞が大蔵省への払い下げ運動に踏みきったわけである。
都心に数少ない未開発の国有地(隣接の都有地三千八官五十六平方メートルも賃借)であった。すでに、有楽町社屋は老朽化し、朝日は活路をどこかに求めなければならなかった。
 交渉は、昭和四十五年四月から始まり、途中でデッド・ロックにのりあげたこともある。いろいろな交渉経過があったのち、朝日は代替地を国に授供することによって、よ
うやく払い下げを許きれ、四十八年一月二十三日に正式契約にまでこぎつけたのだった。
 提供した代替地は、社有地の杉並区下砧井戸、浜田山グラウンドであった。ここは、戦前から朝日がもっていた約八千坪の土地で、テニスコートなどのスポーツ施設があり、社員運動会の会場に使われたりしていた。この土地を国家公務員住宅用地として、国に提供するのとひきかえに、水路部跡の国有地が払い下げられたのである。
 かたや八千坪、築地は四千数百坪だが、坪当りの時価は、浜田山が二十万円余、築地が約八十万円と査定され、朝日は、差額の四百三十七億円を昭和五十二年十月末までに、分割して支払った。
「等価交換で代替地を捷供しており、また一流の不動産鑑定事務所から時価評価を受けているので、国有地をとくに安く払い下げてもらったわけでほない。分割払いにしたのは、金利が安かったからです」
 その間の事情について、広報担当の高津幸男取締役が説明してくれた。時価評価は公正だった、というのである。昭和五十年に、東銀座の新橋演舞場近くの土地が、坪約六百万円で売買されたケースがあった。払い下げ価格が安かったのではないか、とみるむきがある。東銀座と築地新社屋のある築地五丁目は、かなり近い。払い下げ時点では、水路部跡の周辺は、開発の遅れていた土地だったので、指摘されるほど安い払い下げ価格ではなかった、ということかもしれない。(283,284ページ)


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 ここで、長々と朝日新聞社が築地の国有地の払い下げを受けた経緯を書いたのは、別に朝日新聞を糾弾する意図で紹介したのではありません。
さらには、この文章を書いている令和3年の時点で、この国有地の払い下げに関与した関係者は全員、亡くなっておられるので、詳細な内実は知る由もありません。批判も援護もできない状態になっているのです。

 ここで森友学園の国有地への払い下げを見ると、森友学園は公売に出ていた土地を購入したのであり、国が売却を渋っていた築地の土地よりは透明性が高いと考えるべきです。ここで一々、具体例を挙げて言いませんが、朝日新聞社の当時の状況と森友学園の国有地払い下げの状況は似ています。代金の分割についても、朝日新聞社は正当性があると言われているし、価格についても、朝日新聞社の担当者は、「一流の不動産鑑定事務所から時価評価を受けている」から正当だと言われています。それはそうだと思います。しかし、それなら、同じことをした森友学園が、なぜ、そこまで糾弾されなければいけないのか、疑問が生じます。

 以上のような理由で、森友学園への国有地の払い下げは、問題とすべきではないと考えます。

[109] 昭和という時代を生きて
暁烏 - 2021年11月10日 (水) 12時29分

氏家齊一郎氏の回顧録「昭和という時代を生きて  氏家 齊一郎、 塩野 米松 共著、岩波書店 2012年」に読売新聞の国有地払い下げの経緯が詳細に書かれています。(少し長くなりますが、下記に引用します。213ページから217ページです。)

 氏家氏は、東大在学中は日本共産党の活動者として活動し、東大卒業後は読売新聞の記者として活躍した人です。文化活動に熱心だったことも知られています。読売新聞常務から日本テレビ社長を歴任しています。この氏家氏が、読売新聞本社の国有地払い下げに関わっていた時の体験を証言しておられます。

 ここでわかることは。大手のメディアが本社の土地として、国有地の払い下げを受けていたことや、国有地払い下げに際して、新聞社が政財界の重鎮と様々な交渉を重ねていたことがわかります。先に、「病める巨象」で朝日新聞の国有地払い下げについて触れましたが、これを見ると、大手の新聞社が同様に政治家に働きかけていたのがわかります。

 念のために申し上げると、私は大手メディアを糾弾するためにこの文章を引用したのではありません。経営判断として、このような措置をとることは当然だったとは思います。
 しかし、自分達が国有地払い下げに際して、独自の影響力を行使した大手メディアが、森友学園が同じようなことを試みたら、糾弾するのは、どういうことでしょうか。しかも、森友学園は、公売に対する応募であり、透明性は高い取引でした。

 一連の森友事件に関する報道は、私からみたら、公平性に欠けるものであり、疑問を感じます。それでも森友学園を糾弾するのなら、このダブルスタンダードについて、大手メディアは説明を行うべきかと思います。

(ご参考)

昭和という時代を生きて 単行本 – 2012/11/16

一土地払い下げ問題一

 読売新聞がある大手町の土地の払いさげで大騒動になったことがあるんです。うち(読売新聞)は是非ここをと思っていたんですが、隣が産経新聞だったんです。
 ここの払い下げの件は、昭和30年代からやっててずっと続いてたんですよ。いろんなことやったんだけど、なかなか決まらなかったんです。解決したのは私が42歳の時かな。昭和でいうと43年(1968)ですよ。
 小林(輿三次)さんが副社長で来てましたから小林、務䑓光雄両副社長と渡邊(恒雄)と私が最終的にその払い下げ問題をやったんです。
 本来、あの払い下げの土地は国有地で、大蔵省の財産でした。ところが、あそこの土地の隣が産経でしょ。で、水野成夫(王U99年11月13日-1972年5月4日 1956年文化放送社長、1957年フジテレビ社長、1958年産業経済新聞社を買収し社長に。新聞・テレビ・ラジオを握り、マスコミ三冠王と呼ぼれる)さんが大反対したんです。あの人は財界の四天王のひとりとして君臨していた。財界で非常に力があったんですが、読売に来られちゃ困るつって大反対した。産経新聞の競争紙の読売には絶対払い下げさせないつって、佐藤(栄作)総理にもの凄い圧力をかけたわけですよ。当時の財界の人は強かったから、佐藤さんも困っちゃったわけだね。裏でね、陣取り合戦をもの凄くやったんですよ、いろいろとね。
 で、務毒さんのお眼鏡に適って、最後の最後までこの間題をやったのが私と渡邊なんです。
 その時はまだ私は経済部記者ですよ。渡邊も政治部の記者です。
 務䑓さん、小林さんが私と渡邊に直接これを処理しろと。もちろん、自分たちも人脈を使って裏からさまざま何やかや、やりましたよ。やったけど、大体我々がふたりに付いて行くんですよ。
福田赴夫(1905年1月14日・1995年7月5日 衆議院議員、農林大臣、大蔵大臣、外務大臣を歴任、第67代内閣総理大臣)さんの家とかね。
 うちはあの土地がどうしても必要なんで、そういうことをしたわけです。産経だってあの場所
は払い下げだからね。大手町のあの辺一帯は国有財産だったんです。
 毎日も払い下げだね。現在の皇居の前(竹橋)へ行くまでは、社屋を有楽町に持ってたんですよ。左前になったからそこを売って、今のところへ行ったわけだから。現在朝日のある築地も国有地なんだけど、当時朝日はなんたって良いとこ(現・有楽町マリオン)持ってましたから。そういうことで他の新聞は読売に払い下げることに関してはあまり批判や文句はないんです。自分たちのところが一等地だったしね。発行部数から言えば、当時はまだ毎日が一番多かったと思うね。毎日、朝日、読売の順番でしたから。
 政治家で言えば党人派の河野(一郎)さんは、昭和40年に亡くなってましたね。大野(伴陸)さんも亡くなってたんじゃないかな。国有地の払い下げ問題にはやっばり官僚派の方が力があったんですよね。
 この時は大蔵大臣は水田三喜男だったと思うな。田中角栄と水田三喜男と福田赳夫の3人10年間回した事案がありますからね。
 私と渡邉のふたりに小林さんたちがこの間題を任せたのは、私は新聞記者としては役所関係が長かったですから。(担当として)持ってんのは大蔵省と通産省がはとんどで、大蔵省への顔とか、そういったものが理由としてひとつあったでしょうね。コネがたくさんあって繋がりが大きいということがあったし、顔が広いと。対外的にこの男たちは信用のある奴らだっていうことだったんでしょう。
 ライバルはないんですよ。単に産経が読売にその土地を渡さないってことだけなんです。水野さんは、財界全部に働きかけたんです。永野重雄(1900年7月15日・1984年5月4日富士製鉄社長、新日本製鉄会長きを歴任。財界の四天王のひとり)さんとかみんな兄弟分でしよ。
読売との間のチャンバラになったんで、永野さんの方でも弱っちゃったわけですよ。水野さんの顔は潰せないしって。永野さんのお兄さん(永野護)が大蔵省の土地払い下げきを審議する、国有財産審議会の会長さんやってましてね、そこで最終的に決めてもらわなくちゃいけないんですが、ずいぶん永野さんと話したんだけど寧か寧か決められなくて、最後に務重さんが佐藤さんのとこに会いに行ったりなんかしましてね。それぐらいのチャンバラだったんですよ。それで、佐藤さんも弱ったわけですよ。
結局、最後に、永野さんが、ここまで来たんだから水野さんになんとか納得してもらおうという話になりましてね。
 昭和43年の3月9日なんですよ、日にちは覚えてる。その日に国有財産審議会ってのがありましてね。払い下げやなんかを決める委員会なんです。その審議会を3月9日にやるから、そこで決めるよと。
 その頃、水野さんちょっと身体悪くされてましてね。今でも覚えてるけど、築地の賓龍っていったかな、料亭にみんなで真夜中に集まったんです。3月7日か8日の真夜中の2時か3時でね。大蔵省から担当の局長まで呼んじゃって。その時のメンバーには渡遁はいなかったですね。僕は小林さんの随員でした。
 その会議に出てたのは永野さんと小林さんとそれからもうひとり誰だったかな。務䑓さんは年をとってましたから、うちでお休みだったんです。もうひとりは当時の大蔵大臣だったかな。
 大蔵省の局長と私と、あともうふたりぐらいが控えの間で。それで水野さんとこに電話しろとかなんとか言われると「はい、はい、はい」なんて言って電話して。「水野さんでいらっしやい
ますか」なんて電話すると最初は出てきたんだけど、もう出てこなくなっちゃって。弱っちゃってねえ。今度は永野さんが自分で電話して。それで呼び出して、やっと納得してもらって。それで3月9日の審議会で決めたんですよ。
 そこまでもう何年もかかったんですよ。水野さんはどんなことをしても読売に渡さないっていう話でしたから。それで、読売はどうしてもこの土地じゃなくちゃいけねえのか。他の土地を何とかするから、何とか納得してくれっていう詰まで来た。
 ところがね、あの土地が非常に良かったのはね、産経がある側以外の三方が道に面してるんです。他の候補地は、そうじやないんだ。
 例えばその日の前に三和銀行(現・三菱東京UFl銀行)があったんですけど、その三和銀行もまだ建ってなかったから、そこの土地をどうだっていう話があったんです。だけどそれは道路が2カ所なんですよ。今で言えばもう全然お笑いになっちゃうんだけど、当時新聞の印刷技術って
のは活版印刷ですから活版工がいて、活字を拾うんです。そのためには1カ所に集中して印刷した方がいいわけですね。ですから運搬のトラックが入りやすいってことで、どうしても三方に道のあるここが良いから、この場所じゃなきゃ駄目だって、務䑓さんが断ったわけですよ。務䑓さんもムキになったんじゃないか宅僕は道は2カ所でも大丈夫だったよう豊熟がするけどな、今から言えばね。
 今は産経新聞を読売の裏と呼んでる人もいます。どうしてもそういうふうになっちゃったんですね。それが嫌だというのも水野さん自身はあったんだと思う。もう絶対に読売には渡さないってやってきましたからね。
 これは佐藤栄作総理の時ですね。見返りはなしですよ。新聞ってのはそこが強いんですよ。新聞が金あったりなんかしたらおかしいですから。
 ただまあ、佐藤さんとしてはこれで読売が味方についてくれれば有り難いと、産経より遥かに影響力が強い新聞だからという気があったのかなと思いますね。
朝日には表に出ていない共産党員が600余人いると言われてましたからね。朝日の対抗馬としての読売の位置があるわけです。うちでは、読売の争議で共産党員を整理しましたから。それでも共産党員が60人でしたかな、おりましたよ。朝日の10分の1です。(以下、省略)


著者略歴 (「BOOK著者紹介情報」より)
氏家齊一郎
1926年東京に生まれる。1951年東京大学経済学部卒業。株式会社読売新聞社入社。1974年同社経済部長。1975年同社広告局長。1977年同社取締役広告局長。1980年同社常務取締役。1982年日本テレビ放送網株式会社代表取締役副社長。1988年セゾングループ最高顧問。1992年日本テレビ放送網株式会社代表取締役副社長。同社代表取締役社長。2001年同社代表取締役会長。社団法人日本民間放送連盟会長、東京都現代美術館館長、公益財団法人東京都歴史文化財団理事長などを歴任。2011年3月28日84歳で死去

塩野米松
1947年、秋田県角館町(現・仙北市)に生まれる。東京理科大学理学部応用化学科卒業。小説と職人の聞き書きを中心に執筆活動を行っている(本データはこの書籍が刊行された当時に掲載されていたものです)

https://www.amazon.co.jp/昭和という時代を生きて- より



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