No.3087 わが人生に悔いあり 投稿者:木器 投稿日:2025年12月02日 (火) 16時07分 [ 返信] |
まえの投稿であげた白内障の歌の作者・永田和宏の名が、なぜか気になりました。 どこかで見たような気がしたので、検索してみたら、心に沁みるような感性で数々の賞を受けたあの有名な歌人・河野裕子の夫でした。
ここに生まれたのが、現代の「相聞歌」と言われる夫婦愛の歌でした。 このあたりはベストセラーにもなった『たとへば君 四十年の恋歌』に明らかです。学生時代の出会いに始まり、妻が闘病の末に先立つまでの40年間が、互いの短歌と散文で表現されています。
この本のタイトルにもなった、二人の関係の始まりを象徴する、河野さんの最も有名な一首。
「たとへば君 ガサッと落葉すくふやうにわたしを攫つて行つてはくれぬか」(河野)
そして幸せだった二人の生活に、妻の病気が影を落とします。
「きみに逢う以前のぼくに遭いたくて海へのバスに揺られていたり」(永田)
「一日に何度も笑ふ笑ひ声と笑ひ顔を君に残すため」(河野)
「わたくしは死んではいけないわたくしが死ぬときあなたがほんたうに死ぬ」(永田)
「手をのべてあなたとあなたに触れたきに息が足りないこの世の息が」(河野)
「あほやなあと笑ひのけぞりまた笑ふあなたの椅子にあなたがゐない」(永田)
胸が痛みます。
そしてこの胸の痛み中で、なおビックリなのは、当方が不勉強だったに過ぎないのですが、二人が歌人として育ち、属した短歌結社は「塔」だったということ!
この「塔」というのは、木器が大学時代、憧れてお宅にも伺ったドイツ文学の教授(当時は助教授)の高安国世先生が始めたものだったのです。 先生はリルケの研究で有名で、その後、カフカの翻訳も世に出しています。自らが歌人でありながら、異国の詩を翻訳するその姿に、もう理想的な憧れを持ちました。 でも喘息の持病をお持ちで、病弱なのが気になりました。
まだ大学も新入りほやほやのころお宅に伺って、「高安月郊というのは先生の伯父さんに当たるんですか?」と、よくも知らないのに生意気な質問をしたら、「そうですが、よく知っていますね。古い人なのに……」とほめてくれました。
しかし、ほめられたのは後にも先にもこの一度だけ。学生に甘い土地柄に甘えて、分のいいアルバイトと〝人生勉強〟に打ち込みすぎ、ちゃんと学科勉強をしないまま卒業してしまいました。 最後のお別れパーティでも、先生に顔向けできず、ろくにお話もできないままお別れしてしまいました。
その先生の教えを受けたのが永田さんであり、のちに「塔」を率いることになるのが河野さんだったというわけです。さらには今、読売歌壇の選者をやっている栗木京子さんも、高安先生の弟子筋にあたるはずです。
そんなこんな、今更悔やんでも仕方ありませんが、もっとちゃんと勉強していれば、高安先生とのご縁も続き、こうした素晴らしい歌人ともお付き合いできたかもしれないのに。 「わが人生に悔いなし」とは、木器の場合、なかなかいかないようです。
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