No.3069 大苦と勘気 投稿者:木器 投稿日:2025年11月13日 (木) 09時52分 [ 返信] |
早くも「よいお年を」のセリフを聞いたばかりですが、それに加えてすでにあちこちで年末の恒例、『第九』の演奏会の案内を見かけます。 過去には何回かこの案内に応じて、世間並みに年末『第九』のコンサートに出かけましたが、今年はさっぱりその気になれません。
世界のあちこちで人の殺し合いが続いており、申し訳ないくらい平和と言われた日本でも、野山どころか市街地にまで殺気立った熊やイノシシ、野猿などの野生動物が現れて人間を襲います。
この野生動物の恐怖は、先日も書いた吉村昭の小説『羆嵐』の世界に近いものを感じさせます。何がどう狂ってきたのでしょうか。 狂っているのは人間のほうで、その人間の所業に神々の怒りが降りかかっているような気もします。
そんな中で『第九』で歌われる「歓喜の歌」が、何か空々しく響いてしまうのです。
昨日も整形外科に行く自転車をこぎながら、ふとその歌詞が口を突いて出ましたが、「歓喜よ、神々の美しい霊感よ。我々は火のように酔いしれて汝の聖地に入る。汝の魔力が過去の断絶を繕い、すべての人類は兄弟になる。汝の柔らかな翼があるところ……」と歌われても、大体その火のように酔いしれるほどの「歓喜」そのものが、今の世になじみがないではないか。
あとに続く歌の内容も、「大きな成功を勝ち取った者」「心優しき妻を得た者」「一人でも心を分かち合う友を得た者」などは、歓喜せよ、それがどうしてもできなかった者は、泣く泣くこの輪から去るがいい、と来て、冷たいなーと感じます。
ただ次には、すべての生き物は自然の乳房から歓喜を飲み、善人も悪人も自然の恵みを受けるし、虫けらのようなものにも快楽は与えられると、急に寛大になります。
そして一転、励ましの言葉の連続となり、天の星が駆け巡るように、兄弟よ自らの道を進め、英雄が勝利を目指すように、抱き合おう、全世界に口づけを、創造主を信じ、星空の上に神を求めよ、星の彼方に必ず神は住んでいるのだから……。
って言われても、今の世の中は「第九」も「大苦」に聞こえ、「歓喜」もむしろ神々から下された「勘気」(怒り)ではないか、と思えてしらじらしてしまうんですよね。
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