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いまのところ、画像の投稿もできず。
それさえ、分かっていれば、それなりに使えそうです。
あいうえおかきくけこさしすせそたちつてとなにぬねのはひふへほまみむめもらりるれろ
投稿するたびに、(今のところ)色が違います。
あいうえおかきくけこさしすせそたちつてとなにぬねの
色の使い方が分かりません。
画像の掲載も分かりません。
たしか、1ページに、20投稿のはずです。
米田さん
ありがとうございます。
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│◆◆◆ 巻第七 天皇本紀 ◆◆◆
│
│神武天皇 ←:(阿達羅王を、ここでは神武天皇にしている。)
│太歳甲寅(きのえとら)年冬十月五日(辛酉(かのととり))。←(174年)
│天皇自ら諸皇子を率いて西宮より出発し、船軍を組んで東征に向われた[天孫紀に出ている]。
│
│(二十日 詔を有司にして都の造営を始めた。)
│天太玉命(あめのふとだまのみこと)の孫の天富命(あまとみのみこと)は(云々。)
│その忌部の末裔が居るところは紀伊の国の名草の御木(みき)と麁香(あらか)の二郷である。
│その材を取る忌部の居るところを御木と言い、殿を造る忌部の居るところを麁香と言う。
│
│◆◆◆ 巻第六 皇孫本紀 ◆◆◆
│
│乙卯(きのとう)年三月六日 移動して吉備の国に入り行宮(かりみや)を ←:(175年)
│造り落ち着かれた。この宮を高島宮(たかしまのみや)と言う。
│三年かけて船●を修理し、兵食を蓄え一挙に天下を平定しようとされた。
│
│戊午(つちのえうま)年二月十一日 皇軍は遂に東に向け出発した。←:(178年)
│(東征の続きです。神武天皇が一度敗退します。)
│六月二十三日 軍は名草邑(なくさむら)に到着した。 ←:「名草」は、忌部の故地。
│名草戸畔(なくさとべ)を誅殺した。 ←:(女性で、忌部の族長)
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※:「阿達羅王=御食津臣命」は、(吉備にいた「卑弥呼」に命令されて、)紀伊の国を攻めた。
_:そして、178年、名草戸畔(なくさとべ)(媛蹈鞴五十鈴媛命=阿田邑の吾平津媛)を誅殺した。
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│179年12月の主な出来事
│鮮卑(せんぴ)が幽州(ゆうしゅう)と?州(へいしゅう)に侵攻する。
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(高句麗本記:179年)
:秋9月、国相の〔明臨〕答夫が死去した。 ←:(国相明臨答夫=天日方奇日方命、濊貊の首長)
:冬12月、(新大)王が薨去した。
(新羅本記:184年)
:春3月、(阿達羅)王が薨去した。 ←:(おそらく、伐休王=手研耳命に、殺された。)
(新羅本記:184年)
:伐休尼師今が即位した。 ←:(伐休王=手研耳命、と想定。)
:脱解王の子「仇鄒角干(新大王=神武天皇)」の子である。
:王母は、姓が金氏で、只珍内礼夫人(吾平津媛=姫蹈鞴五十鈴媛命)という。
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