魏志倭人伝時代の日本列島在住の人間が「卑弥呼」をなんと発音していたかは、判りません。
しかし、中國人は、日本列島在住の人間の「卑弥呼」を呼ぶときの発音を聞いて、「卑弥呼」と記しました。
中國人にとっては、「卑弥呼」に近い発音と思われる漢字が「卑弥呼」であったのでしょう。
としますと、「卑弥呼」という文字列を、当時の中國人は何と発音していたかが判れば、「卑弥呼」がどう言う発音であったかの推定が、容易になります。
しかし、ここで問題が起きます。
当時の中國人と言っても、魏、呉、蜀、の方言(発音の違い)の存在があったことは間違いないと考えられます。
さらに、中國人自身が日本列島在住の人間との間に立って通訳をしたり、聞き取った言葉を記録していたのでしょうか、それも疑問です。
朝鮮半島の住民や、日本列島在住の人間が、通訳を行った可能性も否定出来ません。
安房守の考えで言えば、通訳を行ったのは日本列島在住の人間で、さらに中國人の通訳と一緒になって行い、両者で記録の正当性を担保した可能性が高いと考えています。
当時も、日本列島在住の人間は、完璧ではないにせよ、漢字を書けなくとも、漢字を読むことが出来た可能性が高かったと考えます。
一応は、国家間の交渉までとは言えなくとも、意思の疎通に齟齬を来す可能性が低くなるような人間を選択したと考えます。
つまり、当時の日本列島在住の人間がその中國人通訳が作成した記録を見て、「卑弥呼」の発音は日本列島在住の人間が聴いても似通った発音で有った筈です。
しかし、当時の日本列島在住の人間が、「卑弥呼」に当て嵌められた漢字「卑弥呼」を、どのように発音していたのかを知ることは出来ません。
少々、時代は下るのですが、古事記、日本書紀、万葉集から、「卑弥呼」の個々の漢字が、どの様な発音に対応させることが出来るのかを知ることが出来ます。
この発音が、3世紀半ばの発音から、大きく外れていないと仮定し、「卑弥呼」の個々の発音に、当て嵌められる可能性を探って見ました。
後漢から晋の中国語による発音も「ひみこ」に似通っていたのでしょうか。
中華民国の小學堂中古音(https://xiaoxue.iis.sinica.edu.tw/zhongguyin?kaiOrder=795)で卑彌呼の発音を調べて見ます。
中古音 卑
時代 聲韻系統名稱 韻部 聲調 聲母 韻母 備註
魏 支 jiei
晉 支 jiei
隋唐 擬音/高本漢系統 p jie
隋唐 擬音/王力系統 p ie
隋唐 擬音/董同龢系統 p je
隋唐 擬音/周法高系統 p iɪ
隋唐 擬音/李方桂系統 p jie
隋唐 擬音/陳新雄系統 p iɛ
魏晉に聲母が無く、隋唐になって突然現れるのには疑問を感じます。
安房守の知識不足によりそう見ている可能性もあります。
上古音 卑を調べて見ます。
時代 聲韻系統名稱 韻部 聲調 聲母 韻母 備註
先秦 高本漢系統 p ieɡ
先秦 王力系統 支 p ie
先秦 董同龢系統 佳 p jeɡ
先秦 周法高系統 支 p jieɣ
先秦 李方桂系統 佳 p jig
兩漢 西漢 支
兩漢 東漢 支
漢から晋の間だけ聲母が抜けている事に、やや疑問を感ずる。
聲母としてp または、それに近いものの存在があったものと思えます。
従って、「ひ」よりは「ぴ」に近い発音であったと想像します。
中古音 彌と、上古音 彌
同様に彌を調べると、卑と似て漢から晋の間だけ聲母が抜けている。
従って、「み」に近い発音であったと想像します。
中古音 呼
時代 聲韻系統名稱 韻部 聲調 聲母 韻母 備註
魏 魚 o
晉 魚 o
南北朝 齊梁陳北周隋 虞模 u
隋唐 擬音/高本漢系統 x uo
隋唐 擬音/王力系統 h u
隋唐 擬音/董同龢系統 x uo
隋唐 擬音/周法高系統 x uo
隋唐 擬音/李方桂系統 x uo
隋唐 擬音/陳新雄系統 x u
これらの中から見る限り、「呼」は、魏晋では「お」、劉宋あたりでは「う」です。
以降は聲母が入ってしまい、「こ」の発音に近づいているように見えます。
それでも、聲母を無視すると「う」または「うお」となっています。
それでは、「ひみお」との発音が当時の日本列島では有り得たか、それを考えます。
連母音は上古には無かったとの研究があります。
「ひみお」は「himio」となり「io」が存在しており、連母音となります。
このことから、「ひみお」との発音の存在は否定されます。
卑を「ひ」よりは「ぴ」に近い発音であったと想像しますと述べました。
これから、「pimi?]または、「himi?」が候補としてあげられると考えます。
卑彌呼
卑弥呼を「ひみこ」と発音するようになったのは何時からでしょうか。
ある書に、新井白石が魏志倭人伝を読んだ時に、中國語の出来る通辞に「卑弥呼」の発音を尋ねて
「ひみこ」との答えが有ったとか、読んだ気がします。
その根拠を探そうとしましたが、「日本の名著15 新井白石」(中央公論社 昭和44年6月14日再版)中の
「折りたく柴の記」「古史通・古史通或問」「読史世論」の中からは、見出すことは出来ませんでした。
注意力不足で見落とした可能性は否定できません。
現代でも、「卑弥呼」を、私達が発音すれば、「ひみこ」以外の発音を思い浮かべることは困難です。
では、wikiにはどう述べてあるのでしょうか、以下に引用した結果を示します。
「wiki 卑弥呼」より一部引用
引用開始------------------------------------------------
現代日本語では一般に「ひみこ」と呼称されているが、当時の正確な発音は不明である。
ひみこ(日巫女、日御子) - 「日巫女」は太陽に仕える巫女の意。「日御子」は太陽神の御子の意。
ひめこ(日女子、姫子) - 駒澤大学教授の三木太郎の説。男性の敬称「ヒコ(日子)」に対する女性の敬称。
ひめこ(比梼q、比売子) - 古事記における音読み表現[11]。
ひめみこ(日女御子、姫御子)
ひみか・ひむか(日向) - 松本清張が唱えた、日向(日向国)と関係するとの説。
ひみか・ひむか(日向) - 原田大六、古田武彦が唱えた、糸島の平原遺跡と福岡の奴の国を結ぶ日向峠に由来するとの説。
ひみか(日甕) - 古田武彦が唱えた、筑後風土記に登場する女性・甕依姫に該当するという説。聖なる甕という意。
ぴやこ、みやこ(宮居) - 1937年に藤井尚治が「国史異論奇説新学説考」の中で唱えた説。
中国の学者が、「宮居」を人名と誤解したとし、卑弥弓呼は「ミヤツコ(宮仕)」に、卑狗が「ミコ(皇子)」になるとする。
ひむか・ぴむか - 長田夏樹『新稿 邪馬台国の言語 ―弥生語復元―』学生社 2010年。3世紀の洛陽音の復元による。
など諸説あるが、その多くが太陽信仰との関連した名前であるとする。
一方、中国語発音を考慮する(呼にコという発音はない)と、
当時の中国が異民族の音を記す時、「呼」は「wo」をあらわす例があり(匈奴語の記述例など)、
卑弥呼は「ピミウォ」だったのではないかとする説もある。
------------------------------------------------引用終了
いずれも、「呼」の読みは、「か」または「こ」で有る事が主流の様に見え、一説として、「wo」を紹介しているに過ぎません。
魏志倭人伝が書かれたのは、3世紀から4世紀に掛けての事です。
その時代(後漢から晋)の中国語による発音も「ひみこ」に似通っていたのでしょうか。
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┌
│ところで、系図のもとになったテキストは何でしょうか。
└
※:テキストは、日本書紀・古事記・先代旧事本紀などです。
_:饒速日尊=黒速=新羅婆娑王
_:神武天皇=新羅仇鄒王=高句麗新大王
_:婆娑王については、「南堂朴昌和と彼の遺稿」
を利用しています。
「南堂朴昌和と彼の遺稿」の中の「婆娑尼師今記」では、
新羅婆娑王が、158年に亡くなったと、なっています。
それを、饒速日尊=黒速=新羅婆娑王、として、
日本書紀・古事記・先代旧事本紀に当てはめると
下記のようになります。
そうすると、同じ、神武東征の記事と云いながら、
注目する処や、年代が、微妙にズレていることが分かります。
──────────────────────────
<神武天皇の東征(物語)の中での、饒速日命の
エピソードは、全体としては、作り話である。
(悲劇の死亡記事の大半は、ウソであるが、)
一つ一つのエピソードは、案外正しい。>
──────────────────────────
「日本書紀」
饒速日命は、長髄彦の性質が反抗的で、
天と人との際を教えてもだめと見て、殺した。
饒速日命は、その衆をひきつれ帰順した。
┌─長髄彦(159年没)
○─┤
└───三炊屋媛───┐
├─宇摩志麻冶
饒速日尊(158年没)─┘
****************************
「先代旧事本紀」
長髄彦は、「天神の御子は二人も居る訳が無い。」
天孫の軍は連戦したけれども勝事が出来なかった。
この時、宇摩志麻治命は舅の作戦に従わず、
帰ってきたところを誅殺した。そして、
(宇摩志麻治命は)衆を率いて帰順された。
┌─長髄彦───────女──┐
○─┤ ←「舅」 │
└─○ ├─○
饒速日尊──宇摩志麻冶─┘
*****************************
「古事記」
登美毘古を殺したのは、神武天皇。邇芸速日命は、
神武天皇のもとに参上した(帰順した)。
邇芸速日命が登美毘古の妹の登美夜毘売と
結婚して生んだ子は宇摩志麻遅命である。
┌─登美能那賀須泥毘古(長髄彦)
○─┤
└─登美夜毘売─┐
├─宇摩志麻遅命
饒速日尊──┘
*****************************
「先代旧事本紀」
饒速日尊は天磐船にのって、
河内の国の河上の哮峰(いかるがのみね)に天下った。
大倭の国の鳥見の白庭山(しらにわのやま)に移った。
饒速日尊は長髄彦の娘の御炊屋姫を娶り、懐妊させた。
子ども(=猪手)が生まれる前に、饒速日尊はお亡くなりに成った。
───────────────────────
神武天皇による東征は、なかったと思いますが
饒速日尊の天磐船は、157年にあったと思います。
───────────────────────
※:左記三書の合成図
(159年没)┌─御炊屋姫─────┐
┌─長髄彦──┤ │
○─┤ └──女────┐ │
└─三炊屋姫─┐ ├─○│
├─宇摩志麻冶─┘ │宇摩志麻冶
(黒速) │ (葉江) ├─○(猪手)
饒速日尊────┘──↑───────┘ ↑
(158年没) (天香語山) (158年生)
***************************
※:三書を合わせると、「神武天皇」の存在が薄くなるだけで、
_:系図自体は、間違っていないことが分かります。
※:そして、それぞれの主張や、何をごまかしてきたのかなど、
_:全体のつくりが、見えて来ます。
┌
│[11] 名草戸畔について
│From:akaosa
│最近、神武東征記事を読んだところです。
│神武が即位するまでは年月日は干支表記されており、それなりの伝承性があると
│思いました。
│
│内容も具体的であり、八咫烏は鳥ではなく、ある集団であることがわかります。
│トーテムかもしれません。
│
│古代の生活の様子を垣間見た気がします。
│
│ところで、系図のもとになったテキストは何でしょうか。
│
│2022年03月09日 (水) 19時22分
└
Akaosaさんへ
返信ありがとうございます。
┌
│ところで、系図のもとになったテキストは何でしょうか。
└
※:テキストは、日本書紀・古事記・先代旧事本紀などです。
_:ほかには、三国史記も利用しています。
_:新羅本記:173年の倭の女王卑弥呼の記事は、正しい。
_:饒速日尊=黒速=新羅婆娑王
_:神武天皇=新羅仇鄒王=高句麗新大王
_:婆娑王については、「南堂朴昌和と彼の遺稿」を利用しています。
_:そのほかには、『古代豪族系図集覧』も使っていますし、
_:事代主命=天富命、として、「天富命」の伝承(wiki)も
_:使っています。
_:「阿達羅王=御食津臣命(=彦ホホデミ尊:伝承のみ利用)」
_:として、「高忍日賣大神」の伝承を利用しています。
※:人物を重ねていくと、日本書紀は、いろいろな記事・伝承を
_:パッチワークのように、継ぎはぎしていることが見えて来ました。
12番の投稿内容を直そうと思いましたが、方法がわかりません。
┌
│[13] 投稿の訂正方法
│From:赤尾
│12番の投稿内容を直そうと思いましたが、方法がわかりません。
│
│2022年03月09日 (水) 19時30分
└
[編集]の方法について
この掲示板の一番下まで、画面を下げてください。
出てきた画面の一番下のほうに、
Number[_]がありますから、 12 と入れてください。
Pass[__]は、残っていると思います。
そして、[編集]と[削除]のボタンがあります。
[編集]をクリックすると、編集の画面に移行します。
ある投稿に対して「返信」をクリックすると、その投稿の後に掲載されます。
8番に「返信」すると、私の11番がその下に掲載されました。
これは、討論室的運用ですね。
問題は、蓄積が進むと全体像が見えなくなることだと思います。
蓄積されるほど、
画像が投稿出来なければ談話室用でしょうか。
写真等画像の投稿ができないのですね。FBは、写真容量に制限なく、動画もUPしやすいです。非公開のグループも作れます。
あいうえおかきくけこさしすせそたちつてとなにぬねのはひふへほまみむめもらり
女(70年生)─┐
├──遂成(帥升:次大王:146〜165)
(宮:121年没) │ │
─于氏脱解王───┘──┐ (神武天皇) ├─○
(天日鷲命) ├──仇鄒角干────│┐
許婁葛文王─┐│ ││ (A手研耳命)
(47年生) ││(媛蹈鞴五十鈴媛命)│├─新羅:伐休王
解氏再思────┐ ││(阿田邑の吾平津媛)││ (不肖の子)
(下照比売命) │ ├──只珍内礼夫人─┐─┘┘ 阿達羅王
│ ││ (名草戸畔)┌┘ │
(70年頃生)├─女┘┘ │ (140年生) │
┌─毗可──┘(89年生) ├─阿道─┐(愛礼) (女) ├〇
│ ┌─────勢漢────┘(美礼)├─首留─┐(内礼)│
├─金閼智─┘ (女)│(女) │(天村雲命)
│(建沼河男命)┌─葛文王摩帝(長髄彦)───┘ ├─郁甫──○
│ ├─史省夫人──────祇摩王『葉江』─┘ │
─〇┤(75年頃生) │(登美夜毘売) │┌○
↑└─許婁葛文王─┘───────┐ (天日方奇日方命) ├┤
↑ (事代主命) │ ┌─又日(国相明臨答夫)─┘└○
↑ ├─┤(138年生・双子)
─金首露王 沙乙那─┘ └─又韓─────┐
(大国主命) (五十鈴依媛命)│(倭の女王)
(42年生) (高麗:新大王) ├─「卑弥呼」
─于氏脱解王──仇鄒角干(神武天皇)──────┘
(御食津臣命)
─阿達羅王─┐(174年頃生)
├─伊賀津臣命
─内礼夫人─┘
最近、神武東征記事を読んだところです。
神武が即位するまでは年月日は干支表記されており、それなりの伝承性があると思いました。
内容も具体的であり、八咫烏は鳥ではなく、ある集団であることがわかります。トーテムかもしれません。
古代の生活の様子を垣間見た気がします。
ところで、系図のもとになったテキストは何でしょうか。