|
投稿日:2003年02月02日 (日) 23時30分
 |
1997年5月、チェスの世界チャンピオン、ガルリ・カスパロフと IBMのコンピューターが戦った。人間代表のカスパロフは、1985年に22歳で世界チャンピオン、チェス史上最強と言われるプレイヤーである。
対するIBMのコンピューターは、ディープ・ブルーと名付けられた大型コンピューター、1秒間に2億手読むと言われていた。
この両者は1996年にも6番勝負を戦っていて、この時は三勝一敗二引き分けでカスパロスが勝った。当時のディープ・ブルーは、一秒間に一億通り以上の指し手を読む計算力を持ち、過去100年のグランドマスター(名人戦)のデータも入力されていた。
この時カスパロフは初戦こそ敗れたものの、それでディープ・ブルーの思考パターンを掴んだらしく、残る五戦を三勝二引き分けとして、勝利者賞金四十万ドルを手にした。最終戦を終えた後、彼は「こんなに強敵とは思わなかった」と話している。
一方IBM側は「ディープ・ブルーは記憶された多数の手筋から最適手を高速に選択するだけでインテリジェントとは言えない。特定の局面では神のように振る舞い、別の局面では子供のようだった」と語っていた。 こうした経緯があって、両者の再戦となったわけだ。
カスパロフとディープ・ブルーの戦いは、初戦、再戦ともに六番勝負だった。3年に一度行われる世界チャンピオン戦は24番勝負であって、勝局は一ポイント、引分けは0.5ポイントづつとなっており、先に12.5ポイントを得た方が勝利者になる。
チェスの対局は偶数になっている。 チェスにおいては先手有利が明確で、先手番、後手番を同数にしないと不公平になるからである。さて、カスパロフとディープ・ブルーの再戦を再現してみたい。これは当時、すべてテレビ実況されていたんで観た人もいるかな。こっちではどうだったかよくわかんねえが。
実況はともかくその後の顛末はNHKでドキュメントが作成され放映されたから、覚えている人も多いだろう。
第一局、先手のカスパロフは三手目で長考し、定跡を外した。ディープ・ブルーにはここ100年間に世界のグランドマスターたちが指した定跡がインプットされているので、カスパロフはそれに該当しない手を指したのである。
中盤、カスパロフは駒を自陣の三段目までしか進ませず、行ったり来たりを繰り返し、コンピューターの思考の裏をかくという作戦で勝利したのだ。
第二局はディープ・ブルーの先手。ディープ・ブルーはなんと最も古典的な定跡を選んだ。ルイ・ロペスという僧侶が約500年前に指し、以来多くのプロ棋士によって研究されてきたものである。ディープ・ブルーのこの選択は正しかった。500年の間にその定跡からの変化は 研究されつくしていて、それを全て記憶しているのだから。
カスパロフが勝つには新しい変化を見つけ出さなければならなかった。 記憶力対創造力、明らかにコンピューター側が有利である。カスパロフはなんとか研究済の定跡から逃れようと試みるが、とうてい無理である。
中盤に入ってディープ・ブルー圧倒的優勢、ついに決定打が出る局面を迎えた。ディープ・ブルーのクイーンがカスパロフ陣に入り込む手が発見されたからである。誰もが固唾を飲んで見守る中、なんとディープ・ブルーは別の手を指した。 場内が大きくどよめいた。まったく関係ないポーンをひとつ進めたのだ。全く不可解な選択と言えた。結局、その後序盤の優勢を守ってディープ・ブルーが勝ち切った。 しかし、なぜあの場面でディープ・ブルーが決定打を指さずあれほど緩い手を指したのか、誰にも理解できなかった。カスパロフはしばらく盤から離れず考え込んでいた。そして彼には珍しく局後の記者会見をキャンセルし、無言で会場を去った。
第三局は、先手のカスパロフが非接近戦に持ち込んで引き分けとなる。 続く第四局も引き分け。
第五局は、先手のカスパロフが第一局と同じ形に誘導したが、ディープ・ブルーは途中で第一局とは違う指し手を選択した。終盤、カスパロフが敵陣にポーンを送り込みやや優勢になった。ディープ・ブルーは勝ち目がないと知って、千日手の引き分けを目指したのだ。
カスパロフはそれに気づき体が小さく震え出した。結局、引き分けに持ち込まれた。この局面から先手を引き分けにされたことは、カスパロフにとってみれば大きな痛手である。ともに一勝一敗三引き分けで迎えた第六局は、あっけない幕切れとなる。
カスパロフが七手目に決定的なミスをして、敗れたのである。ディープ・ブルーが人間を退けたのだ。
この勝負の山場は第二局に尽きる。あの局面、ディープ・ブルーが決定的に優位を確保する手がありながら、それを指さず、別の手を選択したのは何故か? カスパロフは何故あの後勝てなくなったのか?
カスパロフは沈黙を続け、もちろんディープ・ブルーは何も語らない。 後日、その局面を多くのグランドマスターたちが研究し、世界のチェス界を驚愕させた事実が発表された。あの局面には重大な秘密が隠されていたのである。 それは二つ有った。
その一、 居並ぶグランドマスター達が思わず声を挙げそうになった手、悪手だと解説者に散々罵倒された手、カスパロフ陣営が天を仰いだその手、実は、巧妙に計算された天才カスパロフの罠だったのである。
カスパロフはその手の先に実は驚くべき反撃の手を用意していたのだ。 99.9%の確立で相手が指すだろう手に、それまでの劣勢を一気に逆転し、必勝に至る罠が仕掛けて有ったのだ。 先ず、それがマスメディアに大きく取り上げられた。
そしてその二。 なぜディープ・ブルーがその罠を見破れたのか?世界中のグランドマスター達でさえあの瞬間、カスパロフの悪手をなじり、ディープ・ブルーの勝利を確信したのだ。その絶妙なトラップを何故コンピューターが? 過去の記録には無い指し手を何故コンピューターが看破出来たのであろう。
しかし、ここでまた世界は驚かされる。ディープ・ブルーはカスパロフの罠を読み切っていたわけではなかったのだ。では何故あの局面で決定打を指さなかったのか。IBMのプログラマーがコンピューターの思考プロセスを解析していくと、あることが明らかになった。
それは、なんとディープ・ブルーが「警戒心」を持ったということであった。ディープ・ブルーは局面を点数化して比較検討する。 決定打と見えた指し手は、その局面では群を抜いて最高得点になる手で、当然それは必勝を意味する数値であった。
ところが、その何手か先を同じように分析してみると、依然としてディープ・ブルーは圧倒的優勢なのだが、その前に比べて得点は下がっていた。ディープ・ブルーは、カスパロフの反撃の罠までは読んでいなかったのだが、将来、点数が下降線を辿ることに「警戒心」を抱き、 最高の数値が出現した手、言わば最善手を捨て、他の手を選択したのである。
長い間沈黙を守っていたカスパロフがその心境を語ったのは、全てが明らかになった後の事である。「全ての手は彼に読まれていると感じた時、突然100%勝てる道が見えた。 世界中の人々を錯覚に陥れることが出来たのに、なぜディープ・ブルーはその道を避けたのか。 説明を聞いたとしても、私には理解できない。 ただ、私が今言えるのは、あの局面で彼が私だったとして、彼には私のイメージしたトラップは考えつかないと確信している」と。
|
|