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野嵜さんの闇黒日記に以下のような記述が在ったので、僕なりに考えてみました。
- 平成十五年十一月二十三日
- 毎年書いてゐるけれども「勤労感謝」つて何ですか。
- 勤勞してゐれば自然に分る事で、わからないのは勤勞してゐない證據だとか、「まづは働いてみる事です」とか、言はれても……波江の「字数歌」ではあるまいし。
- と言ふか、世の中、何でも教訓にしたがる人ばかりらしいですね。教訓話風の解釋しか聞いた事がないのですが、語そのものの意味を知りたいのです。5W1Hのきちんと揃つた合理的な説明を聞きたいのです。
- 「勤勞を感謝する」としたら誰がした勤勞を誰にどうやつて感謝するのですか。プロレタリアートが資本階級に感謝する日であるのだとしたら、共産黨邊は「勤労感謝の日」に反對しないと拙いですね。
- 「勤勞に感謝する」としたら誰が感謝するのですか。そもそも、勤勞なる概念は、人間に感謝されて嬉しいのですか。
- 「勤勞で感謝する」としたら、なぜ休みになるんですか。
- もちろん、このやうな事を質問する方がをかしいのでせう。何も考へずに休みの日は休む、と云ふのが「普通の日本人」だからです。
僕ならば「国民が勤労できる事に感謝する日」と読みます。これは日本人(というか神道)の労働観を根拠にしています。多くの神社で行われている「お田植祭」は、稲作(労働)を神様から委任されて行う神事と捉えたものと考えられるからです。働く事が神様に仕える事なのですから、労働を神聖視し、働かなくても十分に食べていけるのに働けるうちは働きたいと願う訳で、長期の休暇を取るのにも抵抗を感じるのではないでしょうか。働かないと神様に申訳ないという考えが欧米人には理解できない為、日本人は働き過ぎだと批判されてきたのでしょう。ユダヤ教・キリスト教・イスラム教では、労働は神が人類に与えた懲罰だと考えているようですから。(プロテスタントは違うかも) これって5W1Hのきちんと揃つた合理的な説明
にはなってませんね。(笑)
脱線ついでに言うと、佛教は労働に対して基本的に無関心です。出家とは生産活動から遊離する事ですから、労働を重要視していません。かと言って、出家者を支えるのは在家信者の労働による布施ですから、労働を蔑視(または軽視)している訳でもありません。禅宗における作務は仏道修行ですが、根底にあるのは「少欲知足」であり、必要以上の労働はしないのが原則です。働く事が良い事だとすると、何かの事情があって働けない人は悪人ですか? 違いますよね。働ける時は働けば良いし、ダメならダメで良いではないですか。今そのままの自分が既に救われていると考えるのが佛教です。