皆様、おはようございます。
世間はコロナ、米大統領選等々が連日新聞紙上や電波等で大きく扱われているようです。
さて今日は長谷川伸そのLです。 前回取り上げた婦人公論昭和8年新年号の続きです。
あの戯曲に不服の人が相当多い、或る人はわざわざやって来ていった。(あれは怪〈け〉しからんです、ああいふ子の情〈じゃう〉といふものはありません、あんな結末では結局愚作といふ他はないです。) (さうですか。)私は反駁(はんばく)しなかった。よき母をもった奴(やつ)にあの気もちがわかるものか、何をいってやがると身内(みうち)にうづく叛骨(はんこつ)を外に出さず、ただ笑って済ました。 『瞼の母』が映画化される時、片岡千恵蔵(かたおかちゑざう)氏に主人公の性根(しゃうね)をよく理解してもらう為(ため)、私は嵯峨野(さがの)の撮影所にゆき、たった二人きりで『瞼の母』の来歴を語ったことがある。 千恵蔵氏は眼を充血させて聞いてゐたが遂(つひ)に泣いてしまった(注1)。無論、私も涙を浮べてゐたことだらう。
(結末をどうしませう?)千恵蔵氏は、主人公が母に背(そむ)いて去るといふラストを改変したいといふ意志でもないのだ。 (映画だけは、主人公を母に合はせるか。)私の頭の中には京都府の××に住む老ひたる女性(注2)が、どんな機会で見ないものでもない、その時に、私といふものが、背いて去る意志を明白地(あからさま)に見せつけることが忍びない気がした、会はぬ生みの母だけに映画の方だけでもよくして置いてあげたい、そんな弱い気から原作と相違することを私が進んで認めてしまったのであった。(略)(注3)
会って喜び泣く感激は、私にあっては一瞬の感情だとしか思へない、会(あ)はで懐しむは私の死ぬる時までつづいてくれるのだ。私は鍵をすててゐる、会うて喜ぶ一瞬のために、瞼のうちに描(えが)き得 (う)る宝を失ふのは厭(いや)だ(注4)。私は鍵をすててゐる、幾つかの鍵をみんな棄(す)ててゐる。(略)
生みの母の味方で、大世帯(おほじょたい)の主婦で、つくり酒屋から材木商と、幕末から明治へかけて、変転の激しい世の中を経てきた祖母は、生みの母の為(ため)に私の父を刺し殺すといって、白刃(しらは)をひっさげて追ひ廻(ま)はしたといふ、その祖母が、父の零落(れいらく)が再興の光明(くわうみゃう)をみせかけたばかりの頃、死の近寄りを予感したものか、道具一ツなく押入(おしいれ)の襖(ふすま)と壁ばかりの、狭い二階でそッといったことが再々だった。
(日出太郎〈亡兄〉の方はどうにかなるが、お前の方は 。)今でおもふと絶望したいひ方だったのだらう。その頃私は自力で食べてゐた、一ケ月二円五十銭の稼(かせ)ぎから、二円三十銭義母に払ってゐたのだから、私は決して養育されてなんかゐないと思ってゐた、その故(せい)で温順でなかったのだらう。 (おばあさん、もう直〈ぢ〉き死ぬだらう。おばあさん生きてたらお前達が大きくなったら、本当のおッかさんに会はせに連れてゆくのが楽〈たのし〉みだが、それまで生きてゐられまい 伸。聞いてゐるか。) 私は聞いてなどゐなかった方が多かったらしい。或る晩の夜更(よふけ)に、私は祖母に起(おこ)された。 (伸、よく聞いて置け。大きくなって、おッかさんに会ひたくなったら、日出太郎の顔をみろよ、兄の顔はおッかさんそッくらだ。忘れるだらうのし、お前といふ奴〈やつ〉は。)私は、これだけは、たった一度だけいはれたのが忘れられなかった。(略) (次回に続く)
(注1)片岡千恵蔵氏は最初に映画化されたときの主演役者。彼も3歳のときに母を失っていた。 (注2)長谷川伸は母が生きているとしたら京都に住んでいると思っていたらしい。 (注3)「俺あ厭だ・・・だれが会ってやるものか」というあの結末(定稿)は多くの人たちが不服であったらしい、それが問題になった。それで長谷川伸の別のやさしい配慮があって、映画では忠太郎の心がほどけて母子二人が抱き合うというラストシーンにしたのだそうだ。真実は判らないが異本(二)は映画化におけるこのような経緯があって加筆されたのかも知れない。 (注4)「瞼の母」最後の方の(考えてもみりゃ俺も馬鹿よ、幼い時に別れた生みの母は、こう瞼の上下ぴッたり合せ、思い出しゃあ絵で描くように見えてたものをわざわざ骨を折って消してしまった。おかみさんご免なさんせ)を想起させる。もし生きていてそして再会できたとしてもそれが幸せなものになるのか、大きな不安があったに違いない。
| 投稿者:肥後の駒下駄
投稿日:2020年02月12日 (水) 17時37分 No.1936 |
|
|
皆さま、こんばんは!
塞翁が馬さん、連載(13) ありがとうございます😊。
野村監督が、お亡くなりになりました。先頃は、大投手・金田正一さん、歌謡界では、「こんにちは 赤ちゃん」の梓みちよさんと、昭和を代表する様な方々がなくなり、とても寂しい限りです。
片岡知恵蔵の「番場の忠太郎・瞼の母」は、1931年の無声映画(活動写真)ですね。 私は、無声映画を見た事はありませんが、今密かなブームになっているそうです。 無声映画の全盛期は、活弁士が7000名もおられたとか。それと楽団も・・ 女性活弁士の澤登 翠(さわと・みどり)さんの紹介画像も見ましたが、映画の登場人物の何人も声色を変えての熱演、素晴らしいものです。もし、無声映画を見る機会があれば是非参加してみたいと思いました。
|
| 投稿者:じゅんこ
投稿日:2020年02月13日 (木) 11時38分 No.1940 |
|
|
皆さま、おはようございます。
塞翁が馬さん、シリーズもはや13になりました。 ありがとうございます。
昨夜の島津亜矢さんの「歌のあとさき」でも 『♪瞼の母』うたってらっしゃいました。
原作者、長谷川伸先生の背景を知るうちに、ますます この歌の重みが伝わって来るようです。
|
|