渉は両目を見開いた。全身に、大きく震えが走る。それは弛んでいた全身に震えが走る……いや、今の今まで眠っていた意識が覚醒する、という表現がふさわしいであろう変転だった。
そう、渉の意識は目覚めた。心身が、最大限の緊張を以って動き出す。鳥肌が立つようにそれは瞬時に跳ね上がり、そして、強大無比な認識……『自覚』と呼ぶべきそれが、渉の心を駆け巡り、専有した。
静寂なる朝。
だが、閑寂ではない。閑静に包まれてもいない。
言うなれば、嵐の前の静けさであったろうか。
そう、すべては……そうだ、閑却するべき小事であったのだ。
この静けさが、何を意味しているのか。
陽光に照らされた寝室の中央で、渉は不動のまま黙していた。
昨夜、何があったのか。
何が、起こったのか。
俺は、何を体験したのか。
それは、記憶。
まさに戦慄すべき、一夜の記憶であった。
渉は無意識に片手を握った。そう、手のひらの感触。指の感覚。それが、確かにある。そして、再び手を開いた。
次に、目で見る。そう、俺の手はここにある。そして、ここには何もない。
それはあって、そして、それはない。
渉は目を閉じた。息を吐き、ゆっくりと目を開く。
刻まれる、秒針。
静かなる、歯車の音。
それは聞こえない。だが、聞こえるのだ。
聞こえないはずのそれが、はっきりと聞こえる。
あって、なきもの。
そう、存在している。部屋はここにある。そして、俺はここにいる。
ならば、これは現実だ。今俺は、ここに存在している。
この、海の上に。
そこまで確認すると、渉は思わず笑った。そう、笑ったのである。不敵なそれか、馬鹿馬鹿しさからのそれか、それともまったく別の意味で笑ったのか、それまでは考えない。
そう、俺は生きている。今は、それでいい。だからこそ、こうして考えることができる。思うことができる。
そうだ、それが可能なのだ。
ならば、進もう。いや、進まなければならない。選択肢は数あれど、それを選ばないことはできない。
そう、俺にはできないのだから。
渉は寝室を出た。短い通路から、洗面所に入ろうとして……ノブを捻った渉の動きが止まった。
鍵がかかっている。
鍵、だと?
心臓が鼓動するのを感じる。消えていない緊張。その中で、渉はゆっくりと目の前の扉を見つめた。
どうして、鍵がかかっているのだ。
誰かが使っているのか?いや、そんなはずがない。この船室には俺だけのはずだ。
ならば、誰かが鍵をかけたのか?違う、ノブには鍵穴などない。だが、向こう側から鍵をかけられるタイプだとすればどうだ?しかしそうなると、向こうに……バスルームに誰かがいるということになる。
渉はそこで、ドアの脇についた小さな青いセンサに気付いた。青い……そう、自分の着ている寝巻きと同じ色の、光。
青い、光。
黙してそれを見つめた後、渉は大きく首を振った。意思を取り戻す。そう、そんなことではない。今は、どうして目の前の扉……俺の船室にある浴室のドアに鍵がかかっているのかを考えなければならない。
誰かが中にいるとは考えにくい。現に、何一つ音などしていないではないか。そして、このドアにはセンサがある。だとすれば、誰かが外から鍵を閉めることが可能なのだ。そう、俺が閉めることもできるはずだ。カード……ゲストカードがあれば。
そう思い、次の瞬間渉は笑った。そう、それも今や必要ない。少なくともこの俺の船室の中では、そんな道具に頼る必要はないのだ。そう、そのはずじゃないか。
「カサンドラ、ドアの鍵を開けてくれ。」渉は目覚めてから初めてとなる声を発した。「洗面所のドアだ。わかるな?」
「認識しました。」天よりの声。聞き慣れた女声に、渉は驚きではなく……いわばその逆の、安堵そのものである思いを抱く。そう、彼女がいる。いや、いてくれるのだ。コンピュータ(しかもその中の一プログラム)を『彼女』と称する自分をどうかとは思いもするが、そんな考えこそどうでもいいと、渉は笑って首を振った。そう、カサンドラはカサンドラだ。女声であるのだし、彼女、と呼んで何の不都合もない。
カチッ、という音が目の前の扉から鳴るまでは、渉の命令から半秒もかからなかった。そしてそれが、カサンドラの瞬時の応対が、渉の中の安堵感をさらに強める。そう、彼女がいるならば安心だ。俺の声が届く場所にいる限り、安心していい。
だが、本当にそうだろうか?
渉は身震いした。張り詰めていた緊張感が、警告のように自分を刺激したのだと自覚する。
そう、そうだ。確かに、そうかもしれない。可能性は否定できない。
だが、だとすれば……俺は、どうすればいいのだ。何もしない……ベッドで縮こまっている、そんな選択肢を選ぶのが正解か?何もしないで、それで満足か?それでも、お前は後悔しないか?
桐生渉。お前はただ座して、その時を待つのか?
渉は首を振った。こめかみを手で抑える。気付くのは、包帯の感触。そう、あれは夢ではない。そして、これも夢ではない。
これは事実だ。そして、現実なのだ。
そうだ。だとすれば。
だとすれば、俺は。
俺は、どうすればいい?
渉は笑った。
そう、まさに堂々巡りだ。
過去を見る俺。
未来を見る俺。
そんな俺が、今に生きている。
ならば、行こう。いや、行くべきだ。
理由?
簡単だ。
俺が、生きているから、だ。
今生きているから、それができる。
だから、そうするだけだ。
逃げかもしれない。茶化しているだけかもしれない。本来あるべきものから、目を背けているだけかもしれない。
だが、それでも。
俺は、そうしたい。
立ち止まっていたくはない。
だから、進むだけだ。
渉は笑った。奇妙な感覚に意識を任せながら、洗面所のドアを開く。たちまち、湯気がもうもうとそこから漏れた。昨日もそうだったが、今日も当たり前のように朝風呂が沸かしてあるようだ。しかも、この湯気の量はまるで、『早く入って下さい』とでも訴えているようじゃないか……と、渉はほくそえみ、バスルームと一体になった広い洗面所に足を踏み込んで……
湯気の中に、白い裸身が浮かび上がった。
意識が判断するより前に、渉の視覚がそれを捉えていた。そう、湯船の横に誰かが立っている。いくつかあるシャワーの一つより振り注ぐ湯を浴びて、こちらに背中を向けている姿。
しなやかな……いや、少しばかりふくよかにすら見える、美しい体躯。輪郭以外は湯気で隠された中に、完璧とも言える背筋のラインがあった。
そして、ふっとその顔が……濁りのある短い髪を貼り付けた横顔が、揺れる。
女だ。渉は、まさに目を奪われる光景の中で、裸身を晒した女性が肩越しにこちらへ振り向くのを見つめていた。動きは取れなかった。美しさ、と言えば良いだろうか。淫猥な念などではない、そこに至る余裕すらない……ある意味裸体の美しさそのものに見とれるという、ギリシャ彫刻を前にした者が抱く、自然な思念が生じていたのだろうか。そして、その整った面立ちが渉を見据えて……
「桐生渉?起き抜けでいなければ、正しいのですか?」目線が合致し、少しばかりの距離を置いて……渉と女性が視線を交わす。そう、渉がそれと気付き、判断する前に……新たに聴覚が伝えた情報が、渉自身の思考を決定付けていた。彼女が、誰かを。
「あ……」渉の舌が震える。「す、すみません!」叫んだ。うなじ越しに目を細め、ゆっくりとほほえんだ女性……シャワーの中の、デビィ・ホロウェイ婦人に。「あ、あの、俺……すみませんでした!」まさに首まで赤面し、渉は脱兎の如くに洗面所から飛び出した。そして、叩き付けるようにドアを閉める。
何という……
渉は喘いだ。息が詰まる。深呼吸もできないほど。
そう、何という……馬鹿な奴だ。
それと共に、起きてから抱いたいくつかの疑念が氷解していくのを感じる。知らなかった天井のギミック。着ていたパジャマ。そうか、そうだったのだ。確かにそれならば納得が行く。無論、筆頭のそれ……俺がこうなる羽目に至った理由まではわからないが、それ以後のことは自明となった。
だとすれば、だ。
そう。だとすれば……俺は、とんだ三枚目だ。
渉は息を吐いた。今さっき覚醒した何かが、緊張し続けていた心身が、今の大失敗で一気に破砕……いや、見る見る萎縮していくのを感じる。自分自身への情けなさと、他人……そう、デビィ婦人への申し訳なさで渉は頭をかき、再び包帯に気付いた。そうだ、俺は……
そして、背後で音。「お風呂は、桐生渉が入りました?」目の前のドアが開き、そこから濡れ髪のデビィ婦人が顔を出した。「渉は、僕と一緒に入りましたね?」渉の心臓が大きく跳ねる。
「ノー!」渉はとっさに叫んでいた。「ノー!ノー・サンキューです!」
「No,thank you?」デビィ婦人が目を丸くする。渉は何度も頷いた。考える余地はなかった。「そうなれば、どうしても入りますね?僕は、当然です。それでも信頼できませんか?」渉は赤面した。耳まで赤くなっているであろう自分を感じ、まさに子供だと自覚する。
「結構です!」叫んで答えつつ、同時に今の返事は不適切な語句なのではないかと思う。案の定、デビィ婦人は当惑したように口許を抑えて……そう、まるで乙女が恥じらうようにして、湯上がりのほのかな頬をさらに赤く染めているではないか。「い、いえ、違います。」渉はさらに焦った。「そんな……そういうつもりじゃないんです。つまり、誤解です。俺が悪くて……」まさにコメディドラマの三枚目の台詞だ。渉は情けなさに頭をかきむしりたくなった。穴があったら入りたいとは、こういう場合に相応しい言葉だと思う。「ごめんなさい……本当に、すみませんでした!」結果、渉はそれを実践した。すなわち、すぐ近くの別の扉を開けて、その場から退散したのだ。一目散に。
それはまさに、数日来慣れ親しんだ場所であったからであろう。渉は反射的に広間への扉を選択し、そこに入って扉を閉めると、豪壮な扉によりかかる形で深々と息を散らした。
まったくもって……
そう、まったくもって、だ。
俺は、まったく……!
だがそこで渉は、再び緊張しかける意識に身を強ばらせた。そうだ、あの婦人……デビィ婦人は、俺のように一人ではない。もう一人……そう、博士だ。世界屈指の建築学博士であるジェームズ・ホロウェイ博士、彼女の伯父である人物が、この部屋を利用しているはずだ。
渉は汗を拭った。先程の湯気のせいだろうか、首筋にまでそれが流れている。
そう、犀川助教授ですら手放しで認めるホロウェイ博士……彼が、自分の姪に対して俺が行ったことを知ったら、どう思うだろうか。いや、そんな下世話な話ではない。俺の蛮行……いや、愚行を知ったら、博士がどう思われるか、だ。自分の評判などどうでもいいが、ただでさえ西之園さんのために迷惑を被らせてしまったホロウェイ博士に、これ以上の不快感を与えたくはない。渉はそう思い、博士が部屋にいない……そう、この事態に気付いていないことをひたすら願った。
呼吸を整えて広間を見回し、ようやくほっとする。とりあえず、ここに博士はいない。以前、彼が腰掛けていたソファにもいない。それと共に、渉はここが確かに自分の船室ではないことを認識した。そう、おそらくは婦人の持ち物であろうが、こまごまとした台所用具や本……向こうには折り畳まれた車椅子もある。その、銀色のパイプでできた簡素な車椅子に気付いて、渉は心底から安心した。この広間に博士はいない。おそらくは隣の部屋……あの客間(いや、書斎か)にいるのであろう。朝……渉は大きな時計で時間を確認する……既に九時を回っているとはいえ、まだ眠っているのかもしれない。
よかった。そう思った直後、渉は自身の無恥に呆れた。桐生渉、お前は既にホロウェイ婦人……あの親切なデビィさんに対して、取り返しのつかない程の失礼を働いてしまっているんだぞ。それを他人に知られないからといって安堵するなど……
頭痛を覚えたように頭を手で抑えて、渉は窓際の……バー・コーナーの椅子に歩いた。慣れ親しんだその一脚に腰掛け、息を吐く。勿論、慣れ親しんだのは自分の船室のそれで、厳密な意味でなくてもこの椅子とは違うのだが、そこまでは気にしない。いっそこの部屋を去ってしまおうかとも考えたが、流石にそれこそ非礼以外の何物でもないであろうと思い留まる。当然ながら、自分がそうしたいかどうかなどは別問題だった。
気持ちを落ち着け、窓の外の景色を眺める。確かに景色は同じだ。だが、同じでも、たった一つだけ違う点がある。それは、窓の外の光景、その左右があべこべになっている……いわば、丸ごと逆になっていることだった。渉の船室では窓に対して左から流れていた海原が、こちらの部屋では右方向から流れている。いや『船が航海している』と言った方が正しいか。結果、渉の部屋は船首に向かって右側にあり、ホロウェイ博士のそれが左側に位置しているのだとわかる。さらに頭の中の図面として二つの部屋の構造を当てはめ、渉はこの部屋がホロウェイ博士とその姪であるデビィ婦人の船室であるとさらなる自覚を得て、結果、先程の自分の行いに羞恥心を募らせた。
まったく、俺はどれだけの失態を繰り返すのだろうか。この船に乗り込んで、今までどれだけのミスを重ねただろうか。昏倒し、叱責され、泥酔し、騙され……思い返してみれば、それはもう数限りない。その度に嘆き、悲しみ、悔やみ、そしてもうごめんだ、こりごりだと自覚する自分がいる。だが、その自省の結果はどうなのか?
そうだ。渉は認めた。結局、何も変わってはいない。俺は反省した後も新たな失敗を重ね、再び、嘆くだけだ。何一つ、うまくは行かない。いや、例えうまく行ったと思えることでも、さらなる日を重ねて省みれば、結果、災厄を招く因子の一つとなってしまっている。
ならば、本当に正しかったことはないのか。
俺の人生には、何もないのか。
このままずっと、大小様々なミスを繰り返すだけなのか。
そうかもしれない。
所詮、俺は凡人だ。ただの大学生で、並以下の能力しかない人間だろう。
何もできはしない。そう、俺は何も知らない。この数日で、それを思い知ったではないか。
まさに俺は、無知蒙昧で厚顔無恥だ。
「出ていませんか?」突然の声。渉は驚き、顔を上げる。
首を巡らせた渉の目に、先程自分が飛び出してきた大きな扉……寝室や洗面所に続く扉を開けて、顔を覗かせているデビィ婦人が映った。「桐生渉には、食事をしていますね?朝食は、もう食べることを許せません。ですけど、待っても無駄ですか?」デビィ婦人は真紅のバスローブ姿であった。渉は、先程の遭遇を思い出して戸惑う。
「あ、あの……」デビィ婦人が片手を持ち上げると、どこか芝居がかった仕草で広間の一角を指し示した。渉はそちらに向き、広間の中央にある大テーブル……そこに、何かが乗せられていることに気付いた。そう、たくさんの皿とカップ。まるで朝食のような……「僕は、待っていませんね?」デビィ婦人が、微笑を残して扉を閉める。
渉は思わず立ち上がった。だが、婦人は既にいない。まさか、追いかけて聞き返す訳にもいかなかった。
とりあえず、渉はバー・コーナーからテーブルに歩む。はたしてそこには、渉が察したものが整然と並んでいた。パンにサラダ、種々様々なチーズとハムとソーセージ、そしてミルクにコーヒー、デザートとしてのフルーツ等々……まさに婦人に似合いの『ヨーロッパの家庭の朝食』とでも呼ぶべきそれが準備され、並べられている。既に自責の思いで胸をいっぱいにしていた渉ですら、食欲を覚える程の見事な盛り付けだった。
だが、そこで渉は気付いた。朝食のための個々の食器が、二人分しか用意されていない。
どうしてだろうと思い、次に渉は苦笑した。首を振る。
何を考えているんだ、俺は。婦人の部屋にいるのだから、婦人の作った朝食を食べるのが……いや、御馳走されるのが当り前か?桐生渉よ、航海三日目でもう精神がブルジョワの仲間入りを果たしたのか?立場をわきまえろ。元々、西之園さんがあんな企てをしなければ、そもそもこんな場所にいられなかったのではないか。
そして、再び扉の開く音。「桐生渉、どうかしていますね?」
「あっ、いえ……すみません。」渉は振り向くと同時に謝る。情けない、という感覚。
「謝るには、間違っていませんね。」変わらぬ笑みを湛えて、部屋に入って来たデビィ婦人。赤いバスローブを薄茶色のガウンに着替えた彼女は、まだ濡れている頭髪にタオルを巻き付けながら続けた。「桐生渉は、とてもいいです。けれど、駄目かもしれません。」短い髪が隠れ、グリーンの瞳が渉のそれを見据える。「一つだけ勘違いをしましょう。やはり、決して悪くないとは思えません。」
ほほえむデビィ婦人。肌と同じ純白のタオルの隙間から、幾筋かの頭髪が濡れて素肌に張りついている。その白金のような色と緑の瞳を見つめて、渉は思わず先のバスルームでの出来事を思い出していた。何かが、少しだけ高まる。
「す、すみません。」渉は頭を下げた。「その、さっきは……とても失礼なことをしてしまって。本当に申し訳ありません。俺……」言い訳を並べようとして、渉は首を振った。そう、結局、してしまったことだ。今更、自分を取り繕ってどうする。「すみません……」だが、それ以外の言葉が見つからなかった。この婦人……デビィに伝わらないと思った訳ではない。おそらくは自分の言うことを理解しているとは思う。だが、それでも……いや、だからこそ渉には次の言葉が見つからなかった。自分に向けた……そう、己を罵倒する言葉なら、いくらでも浮かんでくる。
「嬉しかったですか?」渉は息を詰まらせた。「桐生渉は、僕と入りたくはない?それにしても、よい始まりではないですか。謝りを続けて、どうしようもないはずはありませんよ。」
渉は顔を上げた。そこには、優しげなデビィ婦人の顔があった。だが、それはどこか違う……そう、ほんの少しだけ心外な色の覗く、まるで怒っているようにすら見える顔だった。教え諭すとでも称すればいいだろうか。「指摘されると、謝りは勘違いです。桐生渉は、どうしても必要がありませんね。」そして、そんな婦人の表情が……グリーンの瞳が、渉の心に何かを導く。
そうか。
そう……そうなのかもしれない。
もし、そうだとすれば。
「朝食は、お見舞いによい?」まさに突然に、渉はそれを理解した。婦人が何を言っているか、何が言いたいか、それではない。「後で、食べてしまっていますね。しかし、僕は御馳走するのですか?」そうだ。おそらく……いや、間違いなく、そうだったのだ。だとすれば、簡単なことじゃないか。
そう、無用だ。そんなことをする必要はない。彼女も、そして……おそらくは、俺も。
渉は息を吸った。そして、静かに吐く。もう一度そうして、渉は言葉を選んだ。
そう、言葉を選び、用意する。
だがそれを、詞にはしない。する必要がない。
しては、いけないのだ。
「デビィ。ありがとう。俺。謝る。繰り返し。悪い。その通り。反省。朝食。御馳走。デビィ。手作り。食べる。空腹。幸せ。」ゆっくりと、単語……十五のそれを並べていく。一つ一つ、正確に。
デビィ婦人が、目を見開いた。翡翠のような、濃緑で深い色あいの瞳。それは、とても美しかった。
そして、ほんの少しの時が流れる。
彼女は頷き、ほほえんだ。
そう、ほほえんだのだ。
「桐生渉。怪我。倒れる。救助。船員。夜。運ぶ。船室。眠る。起きる。朝食。作る。食べる。一緒。嬉しい。」
一つ、一つ、ゆっくりと言葉を並べる婦人。
量ったかのように、その数もまた、十五であった。
そして渉もまた、精一杯の表情でほほえみを返した。
互いに見つめあい……そして、小さく吹き出す。
どちらが先だったのか。
渉からか、緑色の目の婦人からだったのかは、定かではない。
二人は、共に吹き出して……そして、おかしそうに、愉しそうに笑い続けた。
窓の外には、変わらぬ青。
桐生渉の航海三日目は、こうして明けた。