感情を抑制できない、未熟な自分……「ま、いいけど。少し、落ち着きなよ。煙草、吸う?」あくまで平然と富名腰は言う。今以て、まったく動じない……こんな場など、幾度も越えて来たとでも言いたげな様子に、悔しさを覚える。
だが同時に、彼女は一つの結論に至っていた。
やはり、思弁なのだ。知識だけを修得して、実践のない人格なのだ。どこまでも、子供なのだ。
大人のふりが、できない。そうだ。今、目の前の女性は、完璧に大人のふりをしている。それを、こなしている。自分には、それができない。しようとして、失敗する。できると思って、できていない。
矛盾。そうだ。元はと言えば、どうしてここにいるのか。どうして、こんなことをしているのか。どうして、こうなってしまったのか。
彼女は、目を閉じた。
子供だから、大人になろうとする。
大人でないから、子供のまま生き続けてしまう。
どちらが、自分なのか。
どちらが、本物なのか。
わからない。
答えが欲しかった。
それだけがあれば、よかったのかもしれない。
こんなことをする必要も、なかったのかもしれない。
教えて欲しかった。
たとえ、教えてくれないとわかっていても。
それを、教えてくれる人が、欲しかった。
矛盾が、苦しいから。
それを受け止めて生きているのが、辛いから。
答えが出ない計算式が、許せないから。
そうだ。誰もが、答えを知らないのならいい。
誰一人、知らなければいい。
それなら、それでよかった。
なぜなら、皆、同じだから。
自分と、同じだから。違っているけど、それだけが、同じだから。それならば、それでよかった。
でも、違う。絶対に、違う。
彼女は、それを知っていた。知ってしまっていた。
答えを知っている存在が、いる。
そうだ。だから……
「先生……」
涙が零れる。どうしてだろう。泣きたくなんてないのに。悲しくなんてないのに。
ただ、悔しいだけだった。あの日から、ずっと、それだけだった。
潤んだ瞳を開いた彼女の視界を、誰かが過る。
それは、違った。だが、そのままだった。あの日のまま、そこにいた。
彼女は、涙を拭う。手を振った。ここがどこかなど、相手が誰であるかも、気にしない。
「先生、こっちこっち!」白い手を振って、彼女は叫んだ。衆目が集い、そして、彼女が呼びかけた相手が気付く。地味な服装だった。着飾ればいいのに、と思う。心底から、そう思う。
「あら、お友達?」富名腰レイは、まだそこにいた。どこか含みのある表情で、微笑する。「ふーん……じゃ、私はそろそろ行くね。」ばつの悪さを気にしたのだろうか。わからないが、もうどうでもよかった。
挨拶を済ませて去った富名腰と入れ違いに、その人物がピアノの横にたどりつく。彼女はゆっくりと相手の格好を観察した。もう、涙はない。「こんにちは、先生。」にべもなく、相手が赤くなる。
「先生、ってのはやめて欲しいな。」先生、は言う。「ね、わざとやってるね?」
「じゃあ、ドクター。間違ってないでしょ?」楽しそうに彼女は笑った。いや、本当に楽しいのだ。そう思い込む。まさに、それもある意味で間違いではなかった。
「それは、そうかもしれないけど……」ドクター、は照れているようだった。彼女は昔を思い出す。何かが違う、と思った。「ね、普通に名前でいいんじゃないの?」違っているが、同じだ。
「名前でいいの?」彼女は、真剣な顔で尋ねた。「私の名前、呼んでくれる?」
一瞬、二人の間に沈黙が訪れた。
「ええ、そうね……富名腰、さん。」ドクターは、口許を緩めてそう言う。
辛そうだった。
彼女は、笑った。「何でしょうか、悴山、さん?」
二人は、再び黙した。
長いようでいて、ほんのわずかな間。
距離と、方向。
二人は、見つめあった。
先に動いたのは、悴山と呼ばれた女性の方だった「ピアノが弾けるなんて、知らなかった。」短髪を軽く散らして、笑う。
富名腰と呼ばれた彼女は、長髪を軽くかきあげてみせると、笑い返した。「弾けないわ。習ったことないもの。」悠然とピアノの前に腰掛けて、白い両手を膝の前で揃えてみせる。努力して、澄まし顔を保った。
二人は、再び見つめあう。
そして、プッと吹き出した。
ころころと、笑う。強かに、笑い合う。
二人の女性の笑い声に、大広間の客が何事かとこちらを振り向くほどのにぎやかさだった。
だが、二人は気にしなかった。気にするはずもなかった。
ただ、二人で、笑いあう。おかしそうに、楽しそうに、ずっと。
それだけでよかった。それだけで、満ちていた。
これまでも、ずっとそうで、
今も、それは、変わっていない。
それだけが、等しかった。
そして、笑いが終わる。苦しそうに、おかしそうに、二人はまた、黙した。
「ごめんなさい。」彼女は言う。「私、そろそろ行かないと。」また、笑った。「もう一度、話せてよかった。」
彼女は頷く。「うん。私も話しができて嬉しかった。」笑う。笑わなければならなかった。「それじゃ……」軽く手を上げて、彼女は頷く。
「さよなら。」
彼女は、去った。
残された彼女は、ただ、その場で黙した。
呼び止めたかった。いや、違う。金切り声で、叫びたかった。
だが、できない。したくないわけではない。心の底から、それがしたかった。
でも、できない。してはいけない。したいのに、できない。
わけが、わからない。
泣きそうな顔で彼女を見送ると、彼女は元の表情に戻った。再び、ピアノに向かう。ゆっくりと、鍵盤に触れた。たちまち、音色が響き始める。本当に、見事な調べだった。
やがて、放送が入る。広間の反対方向、壇上の司会者が何やら告知を始めていた。
式が、始まるのだ。彼女は時間を確認する。正午をほんの一分、過ぎていた。
焦る。無駄な時間を浪費したと思う。だが、何かすべきことがある訳ではない。そうだ、既に準備は完了している。何もかも、終わっていた。できることはもうない。後は、実際にそれが行われるだけだ。確認するだけだ。仕掛けは完璧だった。あらゆる面で一分の隙もない。すべては、彼女の望みのままに進むはずだ。それは、それだけは、間違いない。
絶対に。
司会の言葉が進む。音楽が鳴り始める。彼女は息を詰めた。動悸が激しくなるのを感じ、そしてそれとは逆に、意識がみるみる冷たくなっていくのを感じる。何をしているのだろう、何をしてしまったのか。冷たい何かが、心に降りてくる。一つ一つが、重い石のように伸しかかってくる。それは、信じられないほどの重圧となって彼女自身を苛んだ。涙が出そうだった。
だが。
振り払う。それを、力一杯に払い除ける。心中にある、怒りのままに。誇り、あるいはプライドだろうか。何でもいい。その、彼女の意識の最も深層部に沈殿する感覚が、それを一喝するように叫ぶ。すべてを、否定する。
そうだ。
許さない。許せない。
だから、生かしてはおけない。
あいつを……
あの女を……!
「皆様、盛大な拍手を……」いつから聞こえていたのだろう。いや、すべてを把握していたはずだ。挙式は今、滞りなく進んでいる。司会の若い男が、白い髭も豊かな、この船で最も高い地位にある男性を紹介している。重々しく責任感のある声で、大きな手を振って、スピーチを重ねていたのだ。「……新郎新婦の入場です!」
照明が消えた。窓のブラインドが一斉に降りる。間違いなくコンピュータ制御で行われたそれは、まさに整然としていた。隣の楽団が、ファンファーレを鳴り響かせる。その轟音に彼女は身震いした。
きらめくカクテルライトが部屋に走る。七色のそれが一つに集まり、金色の筋となって、ステージから対角線上にある……彼女の目と鼻の先にある、一枚の扉に注ぎ込まれる。
小さな扉だった。だが、それはライトの光を受けて、まばゆい輝きを放っていた。神々しく、黄金色に。
黄色の扉。彼女は呆然とそれを見る。
違う。
そして、正しい。
開けられるべきは、ライトが注がれるべきは、この扉ではない。そのはずだった。
だが、それを認識してなお、彼女は戦慄に身を強ばらせていた。
金色の扉。
黄色い、ドア。
そして、それが、
始まった。
始まっていた。
明滅する、照明。
そして、耳ざわりなノイズ。
ざわめきが走る。
大広間の、百人を越す招待客から。
かすかに、悲鳴すら上がった。
司会者が、何か意味のない言葉を口にする。
もう一人、誰かが叫ぶ。鋭く重々しい声を、彼女は聞いた。
そして、声が答える。誰かではない、何かの声。
「予期しないエラーです。」
すべてが、凍りつく。
魂が、引き裂かれるような感覚。
ただの比喩だった。
だが、表しようがなかった。
再び、それを目にしても。
身体は、動かない。どうしても、動かない。
ドアが開く。闇に包まれた部屋。備えられたライトのすべてが注がれた、黄色いドアが開く。
そして、それが、
現れた。
いや、既にいたのだ。
ドアの向こうに、いたのだ。
それが、ただ見えただけ。
ちらつく照明。
耳に不快な、ホワイトノイズ。
その中に、それが、現出した。
違う。
それだけを、彼女は知る。
それは同じで、そして、違う。
正しいは、正しくない。
そうだ、一人ではない。
ひとりではない。
それは、ふたりだった。
孤独、ではない。
孤独で、いたくない。
だから、帰結するべき位置。
目指した、場所。
たどりついた、末尾だった。
それは、矛盾している。
だが、現実だった。
二つのシルエット。
黒いタキシード。
白いウエディングドレス。
あまりにも、整然と。
それらは、並んでいた。
人形のように。
張り子のように。
二人が、並んでいた。
ドアの向こうに、扉の向こうに。
そして、動き出す。
手を取り合って、広間に入ってくる?
違う。
入場したのは、新婦だった。
新郎は、いない。
いたはずなのに?
白い、ウェディングドレス。
それが、揺れた。
そして、扉を潜る。
あまりにも、滑らかに。
誰に、腕を取られることもなく。父親すら、同席しないまま。
彼女は、再び、その姿を見せた。
再会。
まばらに、拍手が上がった。
狂っている、と思う。
これを見て、正気でいられるのか。
これが、演出だと思っているのか。
それは、正しくもあり、正しくなかった。
何という皮肉だろう。
彼女は、打ちのめされる。
トレースと、リプレイ。
だが、それでも、
身体だけは、反応する。
心を、置き去りにして。
意識を離れて、肉体だけが動く。
意識など、ないのだと言いたいように。
物言わぬ身体が、主張するように。
彼女は、叫んだ。
「死んでいるのよ!」
絶叫だった。
切り落とされた、何か。
一本の糸。
細く紡がれていた、何か。
それが、今、断ち切られた。
だが。
そうだ。
彼女は、気付く。
これは、終わりではない。
これが、始まりなのだ。
自分だけが、理解できる。
自分だけが、それを知っている。
ならば、だからこそ、
二度と、ごめんだ。
繰り返すのは、嫌だ。
そうだ。そのために、すべてを準備した。何もかも、犠牲にした。
それでも、だけど、もう二度と……
負けるのは、嫌だ。
彼女は、睨みつける。
黄色い、ドア。
既にそれは、黄色くない。
照明は、広間に滑り込む新婦の姿を追っていた。
選択の時が訪れる。
それは、瞬間で、
そして、無限だった。
過去と未来。
その狭間に、自分が生きていると感じる。
昨日までの、今までの自分は、もういない。
そして、あの先にも、それがあるとは思えない。
それでも、彼女は、ドアに走る。
それは、怒りだったのか。
それとも、悲しみだったのか。
精一杯の、抵抗だったのか。
アーチに、飛び込む。
逃がしはしない。
決して、行かせはしない。
唯一にして、最大のチャンス。
それに成功して、彼女は勝ち誇る。
勝った。すべてが、終わりを迎えた。
これでもう、逃げられない。
勝った。
高笑いが漏れた。
悲鳴をあげたはずの唇が、笑いを吐き出す。
その背後で、冷たい音がした。
彼女は、振り返る。
ドアが、閉ざされた。
闇。
彼女にとって、未知の世界。
再び、訪れた場所。
矛盾の中に、答えはない。
わからない。
恐怖。
恐慌。
悲鳴をあげる。
名を呼んだ。
彼の名を。あの人の名を。
だが、答えは返らない。
ここに、いないからだ。
そうだ、誰もいない。
私一人しか、ここにいない。
ひとり。
真の孤独。
それは、初めての恐怖だった。
知らない、こと。
未知である、こと。
全身が震える。膝が屈する。冷たい床だった。
閉ざされた。すべてが、閉ざされてしまった。
もう、何も、わからない。
だとしたら……
私はこれから、どうすればいい?
「同じことを、彼女が言ったよ。」
声が、聞こえた。
「俺は、それに答えた。今も、あの日の答えが間違いだとは、思っていない。」
声が、聞こえる。
「でも、正しくもなかった。だって、俺自身がわからないことだったから。」
彼女は、顔を上げる。
「だから、自分で決めるべきだと思った。この世界に、正しいことなんて一つもない。信じられることなんて、何もない。だから、自分で決めなければならない。正しいことを、信じることを……」
そこに、彼が、いた。
怒りだろうか。それとも、悲しみだろうか。
二つの瞳が、揺るぎない光が、彼女を見つめていた。
「だから、今俺がしたことも、正しいかどうかはわからない。きっと、正しくもあり、間違っているんだろうとも思う。だけど俺は、信じることができる。正しいと思うことができる。間違っていると思うことだってできる。それは、すべて自由だ。一人一人が、決めることができる、その人にとっての、最高の自由だ。だから、俺は、ここにいる。」
憐憫でもない。冷淡ですらない。
優しく、静かに、桐生渉は彼女を捉えていた。
「西之園萌絵さん。」告げられる、名前。「君が、すべてを仕組んだんだね……?」
彼女は、起き上がる。身を支える。その緩慢な動作は、憔悴だろうか。
腕を回した。そのまま、重く、邪魔でしかないものをかなぐり捨てる。
笑った。微笑ではない。ほほえみでもない。ただ、笑った。
力なく、彼女は、笑った。
彼も、笑ってくれる。
そう思った。そう信じた。
駄目じゃないか、と笑ってくれる。
仕方ないな、と笑ってくれる。
そうだ。
笑って欲しいから、私も笑う。
今も、そうだ。ずっと、そうだ。
でも、本当にそうなのだろうか。絶対に、そうなのだろうか。
わからない。
だから、笑った。
そして……
桐生渉の手のひらが、西之園萌絵の頬を叩いた。