第三十一章 Menace
「ひょっとして貴方、探偵?」
耳触りな音が、室内に響いた。
「いやあ、たいしたものです。」画面の向こうの若い男が、大袈裟に打ち合わせた両手をこれ見よがしに返してみせる。「是非、貴方が講じた手段についてその詳細を知りたいものです。おっと、こういう言い方は不謹慎でしょうか。失礼しました。」どうしてこうも丁寧なのだろう、とふと思う。それが染みついている……いや、身に付いているからだろうか。「我々もこういった技術に携わる者として自負するところは少なからずあるのですが、その我々ですら、今回の貴方の技量には感服するしかないのが実情でしてね。恥ずかしながら、御教授を願いたいのですよ、まったく。」それこそ、兜を脱ぐという言葉通りに男は頭に乗せていた制帽を外した。別に隠れていた訳ではないが、今以ってようやく男の素顔があらわになる。彼が姿を表してから一分も経っていないはずだが、実にもったいぶっていたように彼には思えた。
「おっしゃっていることの意味がよくわからないんですが。」桐生渉は即座に返答した。いや、否定の意味ですらないそれは、返事として成り立つのだろうかと彼は思う。「手段とか技量とか……何の話ですか?俺が御原さんを殺した、その方法についてですか?それなら……」勢い言葉が出る。だが今の渉にとって、それはさほどためらいのある言葉ではなかった。
そう、何を今更である。
「とんでもない。」オールバックの黒髪をあらわにした男……日本人、年齢は三十代だろうか。とにかくその男は、これまた大袈裟なポーズで首を振った。「我々は技術者といっても、有機的な諸々については甚だ無知でしてね。人を殺害する方法の是非について考察することなど不可能です。」茶化すようでなく語るこの男には、何かの能力がある、と渉は思う。「絞殺とか刺殺とか……確か、色々と種類がありますね?無駄な分類のような気もしますが、それほど他人の死というものは興味をそそるものなのでしょうか?」男は理解できないというように続ける。「望む望まぬという意志に関わらず、必ず死は訪れます。自分のそれでなければ、気にしても何の意味もないと思うのですが。ましてや他に対するそれ……つまりは殺人など、どう考えてもリスクが大きいばかりで、決して良策とは思えません。ですから我々は、貴方のそういった行為については何の興味もないのです。」
「そうですか……」渉はかすかに乱れる呼吸を感じる。いや、そもそもこの男……不意に現れたこの男は、何者なのだ?
渉は注意深く画面の向こうを観察する。相変わらずの白い部屋であり、同じ椅子が見える。そこに腰掛けた男、それ以外には何もない。背後にセキュリティが立っていることもない。
「失礼ですが、貴方はどなたですか?」軽く、息を吐く。頭痛はしていない。いや、感じなくなったのかもしれないと思う。「俺に、貴方の質問に答えなければならない理由があるんですか?」そう、いつからだろうか。渉は目を逸らさずに男を見つめ、そう思った。
そもそも、今は何時だろう。航海四日目の……もう、昼になっているだろうか。だが、まだ食事は運ばれていない……「いやこれは、申し遅れました。我々……」男はそこで、気付いたように笑う。柔らかそうな笑いながら、渉はその瞳の色に、どこか挑戦的な……いや、油断のならない様相を感じ取る。「いや、私は宮宇智と申します。ミヤは当り前の宮殿のミヤですが、ウは宇宙のウ、最後のチは知恵のチですね。ただし、トモと書く方です。下に白が付く方ですね。まあ、ありふれていますよ。」
「宮宇智さん、ですか?」渉は聞き返す。「宮と……宇に、知……あ、智、ですか。」ミヤウチ。ありふれた読みだが、字の方はありふれていないのではと渉は思う。
「そうです。三文字ですね。」その宮宇智が笑う。声を出さない笑みもまた、渉の意識の何かを刺激した。「当て字のようですが、どうもそこそこ古い名前だそうで。私も職業柄よくこの名字で苦労するのですが、改名しようにも由緒があるのでは少し決まりが悪くて。仮にも再先端の技術に携わる者として、そんな姿勢もどうかと思うのですがね。」丁寧なようでどこか自信……いや、自尊のようなそれが見受けられる宮宇智の物言いに、渉は再び何かを感じる。そう、この男は……「おっと、これでは先程の悴山先生のようですね。今は論点を明解にしておきましょう。時間は何よりも価値がある、貴重なものです。無駄には消費できませんし、他人のそれを無駄遣いさせるなどもってのほか。それが、我々技術者の数少ない総意の一つでしてね。貴方もそう思いませんか?時間は有限、俺の仕事に余計な口出しをするな、と。」
渉は微笑する。「時間は無限に続く、とよく言いますが。」言葉を選んだ。「個人のそれに限れば、有限と言ってもいいかもしれませんね。だとすれば、今この時間も大切にしないと。」時間を大切に、という言葉で何かを思い出す。そう、他人の時間を奪うことは最低の行為、確かそうだったろうか……「貴方の名字はわかりました、宮宇智さん。でも俺が知りたいのは、貴方が具体的にどなたで……はっきり言えば、この船でどういう地位にいる人かということです。貴方はクルーですか、ゲストですか?」不思議な感覚に渉はほくそえんだ。何だろうか、いい気分だ。子供じみた感覚かもしれないが、渉は今、はっきりとそう思った。
そうだ。妙な……そう、高揚感とでも称すべきそれがある。それは、決して目の前の相手……宮宇智が驚いた顔をしているからではない。むしろ、自分の……何か、自分の行動に対してのそれだった。
そうだ。俺は今、自分の態度に満足している。
「これは失礼。」宮宇智は小奇麗な椅子に腰掛けたまま軽く頭を下げた。「時間の貴重さを訴えておきながら、無駄話をしようとしていましたね。さすがに、専門の方と対等以上に話されるだけのことはあります。私などまさに別世界……いえ、別次元の作法ですな。いやはや。」芝居がかった仕草に渉は思わず失笑する。それが間違いなく演技であることは見て取れたが、この状況であえてそれを行っている宮宇智という男に少なからずの興味……いや、別の意識を持たざるを得ないこともまた事実だった。
そうだ。悴山貴美……彼女もそうだが、実に色々な人間がいるものだ。各々が意識しているのか、はたまた自分ではそうと気付かず、言ってみれば自意識そのものから出るのか、皆が皆、強烈な自己主張をしている。無論、今まで渉が出会って来た人々の多くもそうであったろう。だがこの船……独立した小さな社会とでも言うべき場所を来訪し、何一つ勝手知らぬそこで暮らしてみて初めて、渉はそれを認識できたと感じる。
本当に、人はそれぞれ違う。今更のように、渉はそれを理解する。まさに、人とは万華鏡のようだ。
「いえ、俺も貴方と知り合えて……話ができて嬉しいです。何しろ、ここには娯楽も何もなくて。退屈というと聞こえが悪いですが、貴方が映っているこのスクリーンで映画でも見られたらいいな、と思いますよ。部屋も適度なサイズですから、音も聞こえがいい。防音もしっかりしていますね。かなり頑丈でしょう。船の構造はよく知りませんが、部屋の一つ一つがブロック構造になっているんですか?」適当なことを口にしながら、個人用の映写室、という言い方は遠まわしに批判していることになるのだろうかと渉は思う。「そうだ。宮宇智さんは、どんな映画が好きですか?」
自分でそんな質問をしておいてと渉は思ったが、それよりもむしろ彼を驚かせたのは、たわいないその質問を聞いた宮宇智の反応だった。吹き出すようにして背を曲げて、苦しそうに胸を抑える。面立ち……彼は間違いなく悪い顔はしていないと渉は思う……が、呼吸が苦しいかのように歪み、そして、たちまち元に戻った。「これは、参りました。ですが、私は映画とかテレビとか、ラジオも含めて……実は、まったく見ないのです。」どうも、いったい自分はこの男に好感を抱いているのかそうでないのか、渉には今一つ釈然としなかった。「だからですか。私は、こういった話題にはとんと疎くて。三十を過ぎた今まで結婚の機会に恵まれなかったのも、これが原因でしょうね。もっとも我々の大部分がそうですが。まあ、総じて一般社会に対する適合性というものが低い訳です。」宮宇智の口にした結婚、という言葉が渉の中に小さく響いた。身近なのか、遠いのか、そのキーワードとでも言うべき言葉が、渉の中で反芻する。「まあ結婚や家庭などは、引退……定年になってから考えることだというのが総意ですね。他から見れば甚だ屁理屈になるのでしょうが。」
「いえ、俺の知っている人にもそういう人がいますよ。」思い出す。テレビもラジオも新聞も、そういった社会から提供されるデータにつき何も知らない……いや、興味を示さない人物。
だがそれでも、彼は生きている。そう、生きていけるのだ。生きている上で本当に必要なものなど、どれだけ微小なものだろう。渉は現在の自分の状況を鑑み、そう思う。
ならば、どうしてエネルギーだ環境だと人は騒ぐのか。生きていけるならそれでいいではないか。たったこれだけ……そう、俺のいるこの空間程度しか生きていくのに必要でないのなら、どうして、こうも世界にはトラブルが発生するのだろう。隣にいる人間が、思うままにならない相手がいることが、どうにも我慢できないからか。目にした見知らぬ相手に、自分を陥れる企てがないかと、怒りや畏れを感じるからか。ならば、今の俺のようにすべてを隔ててしまえばいい。一人一人がこうして隔絶すれば、何も起こらない。押しなべて安全だ……「犀川先生ですね?御名前はかねがね窺っていますよ。犀川先生は我々の分野において、真の意味で賞賛に値する研究者の一人ですからね。特に数値的な演算における解析プログラミングでは、先生は世界的に名の知れた……いえ、現在生きておられる中で随一のプログラマと言ってもいいでしょうね。」
この見知らぬ男が不意に画面に現れてから、渉がこれほど仰天したことはなかっただろう。男……宮宇智が自分が指導を受けている大学の助教授の名を知っていたこともそうだったが、彼の口から漏れた言葉は、その渉すら耳を疑うものだった。「犀川先生を御存じなんですか!?」思わず聞き返してしまう。そう、何だって……世界的?「先生を、その……」言葉が出ない。渉は戸惑った。
「あ、これは種明かしをしないといけませんか。」宮宇智は笑った。「なるほど、悴山博士はさすがというか……やはり私は、そういったことにはほとほと向かないようですね。」実に楽しそうだ。だが、悴山……そう、宮宇智がさっきから何度となく口にしている彼女と決定的に違うのは、この男の仕種はあくまですべてが仰々しく、わざとらしいことだろう。はっきり言えば、相手の反応をわかってやっている、とでも評すべきそれである。つまり、自分は演じているのですよ、と公言しながら言葉を発しているようなものだ。ドラマや映画で、物語の登場人物でなく俳優の名前が表示されているようなものだろうか。劇ならば零点だな、と渉は心中で冷笑し、そして、ふと思う。
どちらがいいのだ?
そうだ。俺を観客として考えた時、どちらの演技が、俺にとっていいことなのだ?
悴山貴美……無邪気で、口を開けば次から次へと喋り続ける、まさに朗らかであけすけな……そう思える、思えていた、彼女がいいのか?
それとも、この宮宇智……いや、この男だけではない。最初に現れた北河瀬粂靖もそうだ。言っていることと言いたいことは百八十度違っていても、それがこちらに、はっきりとわかる方がいいのか?
そう、俺にとって、観客にとって、どちらが……
どちらの態度が、好ましいのだ?
『私、精神科医なの。』そう囁いて、消えた悴山。あの悪戯っぽい……いや、少し悪びれたような、だろうか。彼女の顔を、渉は思い出す。
「まことに失礼ですが、貴方の素性……いえ、そういってはさらに失礼ですか。つまり貴方の学歴については、色々と存じ上げています。」宮宇智は渉の思考に関係なく話を続ける。「もっとも、私個人が犀川先生を知っているのは、それよりも遥かに前からの話ですが。というか現状、この分野において彼の名前を知らない者はおそらく世界にいないでしょう。特に、去年のことがあってからは。」渉は再び衝撃を受ける。
今、この男は……何を言ったのだ?
去年の……こと?
「偉大なる故人の名を私などが口にするのはどうかと思いますが、真賀田四季博士については……」渉は再び戦慄する。この若い男の口から、次々に出てくる言葉。そう、渉を数々驚かせるその中でも、今、この男は……「神格化、などとという言葉では到底追い付けないほどの権威を誇っているのが、我々コンピュータ・プログラムに携わる人間にとってごく当り前な……つまり、基本的な概念でしてね。まさに典範というか、そういった意識が、我々にとっての常識なのです。」渉は宮宇智の顔をまじまじと見つめる。オールバックで清潔感のある身なりと、その丁寧な……まるで従僕の如き口ぶり。だが、その眼光……いや、表情だろうか。どこか、油断のならない……!
渉は思い出す。「失礼ながら、昨年の夏、日本……三河湾沖の妃真加島で起こった事件については良く知っています。私も真賀田博士を信奉していると自負する一人として、それを調べずにはいられませんでした。」渉の動揺は消えない。「いや実際、先程の話ではありませんが……真賀田博士については、有限の時間を無限に費やすだけの価値がある。博士の言葉、博士の行動、博士の意思、博士のプログラム……真賀田博士に関わるありとあらゆることすべてに、一千カラットのダイヤモンドよりも遥かに価値があるんですよ。そして、それは間違いなく人類全体にとって共有すべき、絶対的な最高度の価値感だ。貴方もそうは思いませんか?」そうだ、この男は……あの日、俺を、この船に……
渉は今、それを知る。あの日、出航の日……乗船時に、横浜港で出会った係員。いや、係員だと思っていた男。
あの男、だった。渉に、この船……月の貴婦人号のセキュリティその他を説明した、あの男。
だが、渉は思う。そうだ、今の制服……見慣れないスーツとあの時の係員の如き制服、それぞれ格好がまるで違う。だから俺は気付かなかったのだ。そう思い、そして苦笑する。顔も言葉遣いも記憶のままなのに、たったそれだけで俺は気付かなかったのか。おそらく向こうは……いや、この男は、最初からそれを理解していたはずなのに。
いや、もっと前から、俺を認識していたのかもしれない。
渉は目を凝らす。見慣れない制服……なのだろうか。灰色のツナギのようにも見えるそれを着た男、宮宇智……渉はまじまじと画面の中の男を見返した。そう、熱に浮かされたように語る男。その姿も、渉にとって何かのデジャヴになる。そうだ、これほど熱っぽい……「ならばこそ、去年妃真加島で起こったことは、残された我々にとって人生のすべてを懸けるに値する出来事でした。」残された、という言葉が渉の思考の何かをざわめかせた。「偉大にして唯一絶対の存在であった、真賀田四季博士……彼女が没する時、何をし、何を考え、何を遺したのか。それを何一つ漏らすことなく収集、集積し、一切を記録し考察し研究することが、我々コンピュータ・プログラミングに携わる研究者にとって最大級の使命ではありませんか。いや、勅命と言ってもいい。まさに、それこそが神の遺志です。」唾が飛びそうなほどの熱意。いや、熱情だった。渉は、まったくと言っていい程に変貌した宮宇智の有様に戦慄を強める。
そう、この男は……「彼女は我々にとって指標であり、道程であり、すべての示範だった。彼女が生まれて以来、彼女が示したもの、ただ、それだけを我々は研究している。彼女が十年前……いや、二十年以上前に推論し、理解し、構築したことを、今、我々は必死になって……天文学的な財力と労力を費やして研究しているんです。」皮肉に、笑う。それは、明らかに自分への……己への自嘲に見えた。「だがそれは、それでもなお遅々として進まない。まさに、音速を越えて天を舞うジェット機に負けないと、子供が手折りの紙飛行機の折り方と飛ばし方を研究しているようなものです。」芝居がかった仕草で男は肩を竦めた。「我々の投げるそれはことごとく墜落し、ちぎれ、ばらばらになっていきます。そうして幾度も挫折しながら、それでも我々はやはり、研究を続ける。それがどうしてかわかりますか?」渉はたじろぐ。どうしてだろうか。そうだ、二人は……どこか、似ている。「それは、真賀田四季博士が存在したからです。彼女は、確かに生きていた。彼女が、すべてを遺した。だから我々は、すべからくそれを信じるのです。なぜなら、彼女こそは絶対の具現者だからです。彼女にミスはない。彼女は決して誤らない。それが確実であり、100%であるとわかっているからこそ、我々は彼女を模範とするのです。バグのないプログラムはない。ミスをしない人間はいない。だが、彼女だけは違う。彼女だけは、その概念から……常識から外れることを、ただ一人許されていた。だから、我々はそれを指標にするのです。彼女の存在そのものを、典範とするのです。」宮宇智は鬼気迫る勢いで訴える。「それは、彼女の生死には関係ない。真賀田四季という存在が地上にあった、過去も未来も含めてそうであるから、私達は学ぶのです。だからこそ、学び続けられるのです。果てしなく思える未知の世界、今を以って理解できることなどほとんどないと言っていい、この不可解な分野を歩き続けることができるのです。彼女という、灯火が存在したからこそ。」深く、息を散らす。
渉の前で、宮宇智の瞳が……少し薄い栗色の瞳がきらめいたように見えた。
「古代より多くの数学家が遺した数々の数式。それを解析、実証していくように、我々は今、真賀田四季の遺した論文やプログラムを、我々の理解できるものとして認知するために研究を重ねている。つまり、我々無能極まる研究者達の理解が少しでも及ぶように、彼女が作り出した物のレベルをひたすら落としているのです。そして、ただそれだけの作業のために、我々は日夜悪戦苦闘している。どうです、真賀田四季という存在の偉大さがわかるではありませんか?」
渉は黙した。いや、黙し続けている。だが、心の中ではそうではない。
そう、真賀田四季。
「彼女に追い付くためではない。そんなことは不可能だ。少なくとも、今この世に生きている我々の世代では……いや、あと百年、千年経とうと、まだ我々は彼女が立っていた位置にたどり着けないかもしれない。それほど、真賀田博士が指し示した世界は遠いのです。」嘆くように、だがやはり、熱に浮かされたように宮宇智は首を振る。「だがそれでも、我々はそれを理解するために、一歩一歩努力を重ねるしかない。彼女という存在が永遠に世界から失われた今、我々には他に手段がないのです。彼女に比べあまりに凡骨な我々に遺されたのは、彼女の表面的な意思とその指標のみ。本当の彼女は、永遠に理解できない。ならばこそ、我々は彼女に近付こうとしているのです。ほんの少しでも、そう、一ミクロンの距離でもいい。彼女に近付くことができれば……それはそれだけで人類全体の価値となり、偉大なる業績となる。そう、彼女……真賀田四季博士が生きていた証しとなるのです。」
そこで、宮宇智は息を吐いた。深く嘆くように、沈むように。
「彼女は亡くなりました。そのことが人類全体にとってどれほどの損失か、理解している者は信じられないほど少ない。一部の研究者や企業家など、それを喜んでいるほどです。まったく、無能で無恥としかいいようがない。全人類的な視点……いや、人として各々の視点から飛躍してみれば、それがどれだけ我々人類の未来を放棄した愚かな言い草か。まったく、唾棄すべき思考だ。」悲しみに沈んだ瞳、だった。「しかし、甚だ残念ながら、彼女が去ったことによって我々の研究に拍車がかかったのは事実です。そう、我々の遥か……無限と断じていい先を歩み、ただひたすら孤高に……永遠に遠ざかり続けていた彼女は、あの日突然、その歩を止めた。そう、悲しむべきかな、永遠にです。」
渉は息を吸う。そして、それを静かに吐いた。熱くなっているのか、それとも正反対なのか、自分のことなのに理解できない。
「もう二度と、彼女が歩むことはない。つまり、これは私個人の意思とは甚だ方向性が違いますが、彼女の死によって我々は限界を……最終的なラインを知ることができたのです。つまり、無限……数学のそれと同じく果てないものだった我々の研究の終極が……完了、つまりはフィニッシュとなるべきそれが見えた。」宮宇智は低い声で、笑った。「彼女はいみじくも、自らそれを示してくれましたね。まさに、残された……この世界に彼女を失い、永遠に取り残されるであろう我々を笑うように。そう、あれは彼女の笑いだったと、今も私は思っています。貴方は御存じですね。真賀田四季博士が遺された、最後のメッセージ……」
渉は戦慄する。
「……すべてがFになる。」
全身を、何かが、貫いた。