針葉樹林が覆い尽くした、広大な緑の大地。
起伏の大きな山々と谷。文明地を遥か、そこに人の住む気配は微塵も感じられない。
そんな風景の一ヶ所で、ふと、何かが動いた。
野性動物だろうか。二頭の……つがいのようにも見えるそれが、静かに、ゆっくりと山肌を降りていく。
まさに野性の獣のように、音もなく。
二頭の獣は、何かを狙っているようだった。生命の摂理にしたがって、糧を求めているのだろうか。
人の背丈ほどもある二頭の獣は、器用に崖を降りて……そして、その動きが止まった。
何かを待っている。いや、待ち伏せしているようだ。
何を待っているのか。小鹿か、それとも野兎だろうか。
そして……獣の見下ろす先に、それが現われた。
大地を踏みしめる足。自然のものでは決してない、身に付けた装備。手にした武器。
それは、人間だった。迷彩の施された機能的な衣服を身に付け、ライフルを手にした男。
それを認めて、獣の頭部がわずかに揺れた。
まさか、襲おうというのか。これを待っていたのか。
と、先の一頭が飛びかかろうとする姿勢になり……それを、もう一頭が制した。
いや、制止したのではないのかもしれない。だが、そう見間違えてもおかしくない、知性ある動きだった。
獲物ではないのだろうか。
頭上の岩肌に取りつく二頭の獣に気付くことなく、通り過ぎようとする人間。
その時……
獣の一頭、後背のそれが、姿勢をほんの少し崩した。
足下の岩肌に、小石が転がる。小さな……しかし、確実な音が、静かな森林に流れた。
人間が振り向いた。その目は見えない。黒光りするゴーグルだけが、不気味に輝いた。
そして、瞬間。
獣が飛んでいた。
人間……男の、驚きの声。構えようとするライフルよりも遥かに速く、その身に伸しかかる獣。その動きは、尋常ではなかった。
いや、異常だった。
男の腕を、胴を押さえつけ、組み伏せようとする。のどぶえに牙を突き立てるでも、胸元に爪を繰り出すでもないそれは、まさに異様としか形容できない動きだった。
男が声にならない何かを叫ぶ。そして、ままならぬ動きの中で、ベルトから……そこに備えつけられていた、ナイフを引き抜こうとした。
獣が男の顔面を殴った。爪で裂いたのではない、殴ったのだ。
だが、必死の男もさるものだった。片方の……押さえられた腕を渾身の力で自由にし、そして、手にしたナイフを振りあげる。
鮮血が散った。
伸しかかる獣の……頭部への一撃。それを防ぐようにして獣が上げた片腕を、鋭利なナイフの刃が捉えていた。
深い手ごたえにだろうか、男が歓喜のような叫びをあげる。どこか獣じみた声がそれに続き、そして……男の頭上の獣が、変化した。
いや、その頭部から肩口が……ぐにゃりと、溶けるようにしてめくり上がったのだ。
漆黒が舞った。きらめく、鋼の光と共に。
ゴーグルに隠れた男の瞳は、きっと見開かれていただろう。驚愕と、そして戸惑いで。
頭上の獣は、獣ではなかった。
漆黒の髪を舞い散らせた、美女。どこまでも黒い……黒曜石のような瞳が、男を見下ろす。
この世にもっとも冷たいものがあるとすれば、それは彼女の瞳だったかもしれない。
絶対零度……科学的な専門用語で比喩したとしても形容できぬ、冷たさに満ちた眼。相手を見下し、侮蔑し、卑下し、憎悪し……ありとあらゆる負の感情が満ちた、冷たい瞳が、男を見下ろしていた。
その手に握られた、黒光りする小型の銃と共に。
獣でなく、人間。だがその瞳は、獣よりも恐ろしい。
男が何か、かすれたような声を発した。
目の前に迫る、確実な死の銃口。引き金をしぼる漆黒の美女……死神のごとき冷酷な笑みを見上げて、男は放心していた。手にしたナイフを再度繰り出そうとする意志の力も、何もなかった。
そして。
「やめろ、つぐみ!」
にぶい銃声と同時だった。緑の森林に、鋭い声が飛ぶ。
静寂、そして。
男の脳天に穴を穿つはずの銃弾は、わずかにそれて……その耳に傷をつけていた。
外れた弾丸。それに男が気付く前に、首筋に別の何かが押し当てられる。
握られた、皮下浸透型の注射器。駆け寄って来た、もう一頭の獣……そうであったものの手に、それが握られていた。
強力な薬なのか、瞬く間に効果が現われる。男は苦しそうに喉を押さえ、何度か大きく痙攣すると……放心したように動かなくなった。
それを確認して、ホッと息をついて屈めた姿勢を戻す……獣だった、もの。
男だった。まだ若い……二十歳そこそこだろうか、栗色の髪の青年。
獣だった下半身が、まるで……そう、映像のようにぼやけ、厚手のコートのような布になる。
それを脱ぎ、全身をさらした彼の前で、黒髪の美女が立ち上がった。
いまだ変わらぬ冷ややかな視線が、倒れた男から青年へと移る。
周囲を見回していた青年は、その視線に気付き、わずかに狼狽したようだった。
そんな彼に、美女が口を開く。
「どういうつもりなの、武。」
武……そう呼ばれた青年が、眉を吊り上げて言い返した。
「そりゃこっちの台詞だろ。いきなり殺そうとすることはないだろーが。俺たちは……」
「命は大切とでも言いたいの?甘いわね、武。こんな奴らに、命の価値なんて理屈が通ると思う?殺さなければ殺されるのよ。」
自分の腕……たった今、ナイフで裂かれた部分を見せる美女。深手のはずだが、その動きにも表情にも、苦痛のそれは見当たらない。
「だからって、出会い頭に殺そうとすることはないだろ!俺たちゃ軍隊か?この先にいる奴、一人残らず皆殺しにしながら進むのか?」
「そんなこと言ってない。だけど、必要なら私はためらわない。武みたいに甘い考えじゃ、絶対に生き残れないわ。これは、殺るか殺られるか……奴らとの、命をかけた戦いなのよ。」
「ああ、もうこいつは……いいかげんに目を覚ませよ!俺たちは復讐でこんなことをしてるわけじゃないだろ?何のためか、思い出せよ!」
「わかってるわ、そんなこと。だからこそ、目的のためには他のことに構ってなんかいられない。それは武、あなたにも言えることよ。」
「なに?」
眉をひそめた青年に、美女はさらに言い放った。
「邪魔しないで。私を巻き込まないで。あなたが勝手に殺されるなら、それでいい。でも、私を巻きぞえにしないで。私の邪魔をするなら、帰って。武みたいな考えでいられると、迷惑よ。」
「つぐみ……本気で言ってるのか?」
「本気よ。任務は私一人でやるわ。武は一人で戻って。じゃ。」
「お、おい!待てよ、つぐみ!」
漆黒の髪を一振り、美女が駆け出す。青年はあわててその後を追いかけた。
二人は無言で進み続けた。森を潜り、川を越え、そして小さな谷にたどりつく。周囲を崖に囲まれた、空からでも見つけられないような、山合いの小さな盆地だった。
そこに、建物があった。緑や茶色のシートで擬装され、この距離ですらはっきりとそれと気付かせないような、巧妙なカモフラージュ。
黒髪の美女、そして青年が、木陰からそれを見下ろした。
取り出したスコープのついた調査装置で、建物の子細を確認する。
手首の時計で時間を確認。夜は間もなくだった。
二人は身にまとっていた衣を隠し、別の装束に着替えた。ボディにフィットした、黒と青のスーツ。体に回されたベルトにつけられた、様々な小型の特殊機器。そして、銃。
「つぐみ、準備はいいか?」
先程の口喧嘩を忘れたかのような、真剣な青年の表情。美女もまた、黙ってうなずいた。
互いの装備を確認し、再び建物を見張る。そうしながら、青年がつぶやくように言った。
「さっきの怪我……大丈夫か?」
「皮肉のつもり?こんな傷……何ともないわ。」
青年は苦笑し、美女は無言でその横顔を睨んだ。
そして、山間に闇が降りる。
「行くぜ、つぐみ。」
無言の同意。視線を重ねて、二人はうなずきあった。何か、決して断ち切れることのない、絆のような輝きを放つ一瞬。
夕闇の森林。
建物に向かって、二人は身を躍らせた。
21世紀。かつて、夢の未来と呼ばれた時代。
人類はまだ、恒久的な平和を掴んではいなかった。
いや、そもそもそんなものが、この世にあるのだろうか。
願っては裏切られ、望んでは絶望し、決して掴めないそれ。
国家間の争い。経済、宗教、政治……ありとあらゆる問題が争いの火種となる時代は、まだ続いている。
やはり、人は……戦っていた。
Everlasting Promise
かつて、楽園と呼ばれた地を遥か。
海中を旅してきた一隻の潜水艇が、その施設に到着した。
開かれたハッチから、二人の男女が降り立つ。
「お帰りなさい、倉成さん。小町さん。」
二人を待っていたのは、海藻のようになめらかな髪を伸ばした、美しい女性だった。
いつものように、白を基調とした大胆なドレスを身に付けている。
窮屈そうに特殊スーツの襟元を広げていた青年……倉成武は、にこやかに笑った。
「ただいま、空。とはいえ……くーっ、ハナからちょっときつかったぜ。危うく死にそうになるしな。」
「大変だったようですね。モニターしていて……とてもハラハラしました。お怪我はありませんか?」
「あ、そりゃ大丈夫。それより空。まったくもって、いつも奇麗だな。」
女性……茜ヶ崎空の頬が、真紅に染まった。
「あ、ありがとうございます……擬体の調整も終わったばかりで、とても快適です。」
ニッコリと笑う空の声に重なるようにして、鈍い音が二人の背後から響いた。
二人が見ると、潜水艇から重い装備を下ろした女性……小町つぐみが、それを投げ捨てるようにして放っている。
一瞬、三人の視線が重なった。
「そ、それでは倉成さん。小町さん共々、博士の所に報告をお願いします。」
無言のまま、つぐみが発着ベイを出ていく。武もまた、肩をすくめるとうなずいてそれに続いた。
残された空は、扉の向こうに消える二人の背を見つめて……それが閉まると共に、静かに目を伏せた。
合金製の廊下。ライトの照らすそこに、足音が響いていた。
静かな、だがハッキリとした足音に、テンポのずれたようなそれが続く。
「なに怒ってるんだよ、つぐみ?」
「別に、怒ってなんかいない。」
「じゃあ、どうしてそんなにカリカリしてんだ?さっきだって、空に挨拶もしないでさ。」
少し遅れて歩く武の言葉に、つぐみの目尻がかすかに狭まった。
「空は関係ない。武が鈍いだけ。」
「俺?俺がどうかしたか?俺は別に……」
「鈍感。ううん……わざとやってるなら、それこそ許せない。」
「だから、何だよそれは?お前、さっきから……いや、そもそも今回の任務の最初から変だぞ?俺はな……」
「私はまともよ。おかしいのは、武の方。」
「なっ。こ、この……!」
歩みを止めて、睨み合う二人。
と、回廊の曲がり角から、現われる人影。
黒髪を左右の白いリボンで止めた、まだハイティーンの少女だった。
二人を見つけ、その顔が嬉しそうに輝く。
「おかえりっ!パパ、ママ!」
飛び込んできた少女……松永沙羅は、二人をそろって抱き締めるように両手を広げた。
その嬉しそうな顔に、武の表情も緩む。
「おう、沙羅か。ただいま。」
「みんな心配してたんだよ。でもよかった、無事で……」
「あぁ、沙羅のおかげだ。ウィルスもバッチリだったし。警備システムの乗っ取りも、即興でやってくれたしな。」
額を小突く武の手。くすぐったそうに身をよじって、沙羅は笑った。
「あの時は、空に呼び出されてビックリしたんだから。でも、間に合ってよかったよ。予備のコンピュータがあるなんて、思わなかったから。」
「まったくだ。ホント、沙羅は命の恩人だ。な、つぐみ?」
今まで黙って二人の会話を聞いていたつぐみは、突然の問いに目をまたたかせた。
「えっ……あ、うん……そうね。」
「えへっ、そんなことないよ。でも、よかった。お兄ちゃんと二人で祈ってたんだ。パパやママが、どうか怪我しないようにって。」
純朴な顔を覗かせた沙羅に、つぐみがほんの少しだけ口元をほころばせた。だが、すぐ真顔に戻る。
「武、報告に行かないと。」
「あぁ、沙羅、ありがとな。話はあとでゆっくりとするから。今は、こわーい女先生にお話をな。」
寂しそうな顔になりかけた沙羅だが、すぐに納得したのか、うなずいて笑った。
「あ……うん。それじゃ私、お兄ちゃんといっしょに待ってるね。」
手を振って去っていく沙羅。それを見送って、二人はお互いの顔を窺い……
そしてまた、歩き出した。
縦横にパイプやケーブルが行き交う、無機質そのものの廊下が続く。
天井も床も装飾はほとんどなく、言うなれば機能的にのみ作られた冷たい世界。
そんな回廊を進んでいった二人が、やがて終着点にたどりついた。
大きめの扉だった。ドイツ語で記されたドアプレートがかけられている。咳払いした武が、ドアの開閉装置に触れようとした途端……不意にそれが開き、一人の少女が飛び出して来た。
「うわっ!」
「キャッ!」
危うく衝突しそうになった少女と武。たが、寸前でそれは回避された。バランスを崩した二人が、互いの正体を認め合い……
「あっ……」
「なんだ、優か。アブねぇな、気を付けろよ……ってお前、血相変えてどうしたんだ?」
潤んだ瞳に、赤い頬。噛んだ唇は結ばれ、肩が小刻みに震えている。何かの感情が吹き出した直後であるということは明白だった。
優……田中優美清『秋』香菜は、武とつぐみを見て、ばつが悪そうに顔を背けた。
「なんでもない。悪かったわね……それじゃ。」
「お、おい、優。待てよ。」
行こうとする優。その二の腕を掴んで、武は引き止めた。
優が、キッと武を睨み返す。
「何よ!あの人に……お母さんに用があるんでしょ。さっさと行けばいいじゃない。」
「そりゃそうだが、どうしてそんな顔してるんだ?先生と何かあったのか?」
優の瞳が震えた。口元が結ばれ……大きな瞳が、何かを耐えるようにギュッと閉じる。
「ううん……何もないよ。だから、手を離して。私、これからラボに行かなきゃならないから。」
きっぱりと、断固とした調子の物言いに、さすがの武も手を引いた。
「悪かったな……でも、何かあったら言ってくれよ。俺たちは仲間だし……」
「仲間……?」
優が武を見つめた。厳しい、翡翠のような瞳。
「勝手なこと言わないで。倉成……さん。あなたの知ってる優は、私じゃないでしょ。私と同じ顔した、あの人……お母さんのことじゃない!私は、あなたなんて知らない……だから、勝手に仲間みたいな顔しないで!」
叩きつけるように言うと、走り去る優。
「な、何だってんだよ……あいつ……」
唖然とそれを見送った武の横で……腕を組んだつぐみが、冷ややかに彼を見つめた。
「鈍感……」
「御苦労さまでした。」
輝く室内で、二人は彼女と対面していた。
立体表示装置を内蔵したシステムデスク。その向こうに腰掛けた人物。
肩までの短髪。二十歳そこそこの美顔でありながら、その表情に掘り込まれた陰影は深く、濃い。
この施設の責任者であり、武を含めた皆のリーダーである、もう一人の優……田中優美清『春』香菜博士。
毅然とした態度で二人に言葉をかけた優は、パネルを操作していくつかのデータを表示させた。
「ミッション遂行の概要は空から聞きました。具体的にはどうでしたか?」
「それなんだけどな……ん?」
口を開きかけた武を制して、つぐみが進み出る。
「潜入は成功。目標到達後、ターゲットの被験者四名を確保。研究所の電子システムはデータ奪取後、ウィルスによって破壊。データバンクも同様です。」
つぐみが小さなディスクを差し出す。それを受け取って、優はうなずいた。
「被験者は全て、待機していたネットワークの保護員に引き渡しました。その後、帰還。追尾された形跡はありません。口頭報告は以上です。」
半歩下がるつぐみに、優はうなずいた。
「見事でした。後日詳細な報告書を提出して下さい。ご苦労さま。」
「失礼します。」
抑揚のない口調で、身を翻して歩み去るつぐみ。慌てて呼び止める武の声に振り向きもせず……ドアの向こうに退室していく。
「……お、おい!つぐみ……!」
「倉成くん、報告は終わったわ。あなたも行っていいわよ。」
「ち、ちょっと待ってくれ。何もそんな事務的に……つぐみは置いといても、そうだ!優……あんたの娘のことだ。何かあったのか?」
優……『春』香菜は、表情も変えずに答えた。
「別に何も。あなたが気にするようなことではないわ。」
「気にせずにいられるか!俺たちは仲間だろ?しかも今は、一つ間違えば命の危険をはらんだ状況にいるんだ。目的のために協力しあう仲間同士、お互いのことを気にしないでいられるかよ!」
沈黙。そして、小さな吐息。
そして……優は初めて笑った。
「あの子は、私に実動メンバーへの編入を希望して来たの。」
「えっ……?」
「もちろん却下したわ。あの子はキュレイじゃない。ただでさえ危険で過酷な任務につけるわけにはいかない。そう言ってね。」
武は無言でうなずいた。自分の腕を見る。
そこに、小さな傷跡があった。今回の任務遂行中に受けた傷だった。だが、もうほとんど消えかけている。
「でも、あの子はどうしても納得しなかった。あげくには、自分でキュレイになりたいとまで言ったわ。私はそれを叱咤して……あの子の頬をはたいた。それだけのことよ。」
「そうか……悪かったな。でも、優の奴が……」
武は黙った。複雑な表情の彼の前で、優『春』がつぶやくように言う。
「あの子は、自分自身が歯がゆいのよ。」
「歯がゆい?」
「えぇ。キュレイでないから、私たちのように前線には立てない。沙羅さんや空のように、バックアップ要員として特筆すべき能力を持っているわけでもない。だから、自分を役立たずと思って……」
「そんなバカなことがあるか!優は……あんたの娘は俺たちの大切な仲間だぜ?キュレイであるか、能力がどうだとか関係あるか!そんなこと、負い目に感じる必要なんてない!」
じっと武の瞳を見つめて、優はうなずいた。
「ありがとう、倉成くん。本当はあの子も、それはわかっていると思う。」
「そうだぜ。ココみたいな奴もいるし、何を気にすることがあるんだよ。」
優は微笑した。彼女としてはめずらしい、自然な笑みだった。
「あの子には才能があるの……同じ遺伝子を持つ者として、私には確信があるわ。でも、それは同時にあの子の負い目でもある。あの事件を計画して、引き起こしたのはまぎれもない私……その娘だという、負い目が。」
「それも納得したことだろう?ああしなきゃならなかったんだし、だからこそ俺もココもこうして生きてる。それは感謝してるし、だからこそ……」
「そう、私たちは目的に向かって努力している。二度と繰り返させてはならないし、だからこそ、こうしなければならない。それが、私たちの選んだ道……」
永劫の決意。瞳に宿った、炎のようなそれを覗かせて、優は立ち上がった。
「ありがとう、倉成くん。お疲れさま。今日はゆっくり休んで。」
「わかった。じゃあな……」
ドアの前で、武は立ち止まって振り向いた。
「優、あいつは強い奴だぜ。大丈夫だ……ホクトもいるしな。」
また、かすかに笑う優『春』。
「そうね。親同士としては、子供の動向を暖かく見守っていればいいのかしら。」
「そうだ。信じてやろうぜ、あいつらをな。」
「ありがとう。倉成くん。」
「くん、はよしてくれよ。倉成でいい。」
「そうもいかないわ。でも……ありがとう、倉成。」
ドアが閉まる。
それと共に消えた、なつかしい響きの韻を含んで……優はそのままたたずんだ。
ふと、デスクの小さな引き出しを開く。古いサインペンが、そこにしまわれていた。
じっと、それを見つめる優。
しばらくの後……部屋の奥にある別のドアが開き、予定通りに青年が入ってくるまで、彼女はそうしていた。
そして、入って来た者の顔も見ずに、また微笑する。
「桑古木……彼は、変わらないわね。」
「えぇ……そうですね。あの時のままの武……俺がなりきろうとして、それでもできなかった、本当の『武』……」
扉から出て来た青年……桑古木涼権もまた、かすかな笑みを浮かべていた。
「目の前に何があってもあきらめない……仲間か。」
「仲間ですよ、俺たちは。」
肩に乗せられる手。それにうなずいて、優は立ち上がった。
「ありがとう、桑古木……あなたがいてくれたから、ここまで来れたと思う。本当に、ありがとう……」
「水くさいですよ、博士。俺はいつまでも博士と共にいます。だから……」
「ありがとう。あなたの想いもきっと、いつか届くと思うわ。」
涼権の瞳が、わずかに揺れた。そして、無言でうなずく。
「未来は一つじゃない……ですからね。」
「そうね。その通りよ……」
優は瞳を閉じた。
それが開いた時、もうそこには感情的な色はなかった。
「さあ……仕事よ。私たちを待っている人たちのため、あの子たちのため……」
「はい。」
終わりはないかもしれない。それは考えるだに果てしなく、そしてきりがない道のりに思えた。
だが、二人は不屈だった。
信じれば、やり遂げることが可能なことを……誰よりも知っている二人だから。
低い音と共にドアがスライドし、そこから武が顔を出す。
生活感あふれる……どこか雑然とした部屋。そこにいた少年が、武の顔を見て飛び上がった。
「あ、お父さん!おかえり!」
「よ、ホクト。」
走り寄ってくる少年……ホクトをぐいっと押しのけて、武は室内を窺った。
「どうしたの?父さん……」
「いや、実はな……ホクト、つぐみを見なかったか?」
小声になった武に、ホクトは目をまたたかせた。
「母さん?うん、さっき一度戻って来たけど……着替えたら、そのまま出てっちゃった。」
「そうか……もしかして、怒ってたか?」
神妙な顔で、ホクトはうなずいた。
「う……うん。あの様子は、かなり……怒ってたんじゃないかな。」
「そうか……参ったな。あいつ……」
「お父さん、お母さんとケンカしたの?」
心配そうなホクトの目。武は苦笑いすると、その頭部に腕を回した。ギリギリと締め上げる。
「わ……い、痛い!痛いよ、父さん……!」
「黙れ、不肖の息子。それより、沙羅はどうした?確か、お前と部屋にいるって話だったが……」
「沙羅?沙羅は……ホールじゃないかな?ココの勉強につきあうって、昨日言ってたから。」
「ココ?あぁ、例の奴だな。また、空が根をあげてるんだろ?」
「だと思うよ。ココって沙羅の言うことだと、割と素直に聞くんだよね。」
「ううむ、謎だな。それはともかく、よし息子よ。お前に特別任務を与える。」
「えっ……?」
ヘッドロックの体勢でホクトを固めた武は、その耳元にささやくように告げた。
「田中優……オータムの方だ。彼女を捜し出せ。」
「えっ、優……優がどうかしたの?」
「どうもしない。とにかく厳命だ。お前は彼女を捜し出すこと。基地中、くまなく捜せ。ラボ方面が怪しい。いいな?」
「えっ、い、いいけど……どうして?」
「それを知る必要はない。とにかく捜し出すのだ。いいな?」
「う、うん……わかったよ。それで、見つけたらどうするの?お父さんのところに連れて行けばいいの?」
「そんな必要はまったくもって完全にない。優がいたら、あとは好きにしろ。そうだな……デートでいいんじゃないか?何でもいいから語らえ。楽しくな。」
「え、デ、デート?だって、そんな……お父さん!」
「わかったな。任務は必ず遂行しろよ。お父さんは、ママと重要な話がある。」
「え、ええっ……あ、お父さん!」
走り去る武。呆然とそれを見送って……ホクトはどうしようかと立ち上がった。
父を追いかけて問うことも考えられたが、その任務は重要そうだった。それに、彼にとっても、ある意味願ってもない任務だった。いわば、御墨付きだ。
ホクトは部屋を飛び出した。