何をしているのかわからなかった。
どこに行きたいのかもわからなかった。
ただ……気が付いたら、車のハンドルを握っていた。
暑い季節。曇りがちの空。車内は蒸していて、薄生地のブラウス越しにねばりつくようだった。
でも、私はエアコンをつけなかった。肌も服も、シートも汚れるかもしれない。だけど、それこそ私にふさわしい、と思う。ひどい女に。
そう、私はひどい女。悪辣で節操のない、罪深い人間。
そんな女なんて、消えてしまえばいい。
だから、アクセルをただ踏み込んだ。どこか、知らない場所に行きたかった。
あの子も……彼も、誰もいない場所に。
想いに気が付いたのは、本当に偶然だった。
二人で、ただ語らっていたとき。
約束してくれた。私の作ったスープを食べてくれると。それが嬉しかった。
嬉しくて……そして、その喜びの中で、気付いてしまった。
私の中に、そういった気持ちが生まれていたこと。
ううん、その感情が既に、私の心を捉えてしまっていたこと。
気付かないうちに芽吹き、いつのまにか成長していた想い。
私の心に根を張り、全てを覆い尽くすほどに……大きくなっていた気持ち。
恋。
燃え上がるようでもない。だけど、ほのかでもない。
はっきりとした、意識できる想い。
でも、それは……
決してしてはならない相手への、恋だった。
ほたる。
私の妹。可愛い妹。愛する妹。
いつも私のあとをついてきた。両親は比較的厳格な教育者だったから、物心つく頃から、ほたるは私のことばかり頼っていた。そして、私もそんなほたるが可愛くてしかたなかった。
仲のよい姉妹、と言われるたびに、私は嬉しかった。ほたるが泣いたり、悲しんだりすると、私も同じように悲しみを抱いた。胸の中で泣きじゃくるあの子を、どれだけ慰めてあげただろう。何度、あの艶やかな黒髪を撫でつけてやっただろう。
あの子は光だった。私にとっても、周囲にとっても。天真爛漫なあの子の行くところには、常に暖かいほほえみがあった。みんながほたるを可愛がり、愛してくれた。
私はそれがとても誇らしかった。自分のことのように嬉しかった。帰宅したほたるが、今日あったことを私に伝えてくれる。それが、そのまま私の成果のように思えた。ご褒美よ、と言って私がお菓子を焼くと、ほたるはとても喜んでそれを食べてくれた。ときどき行き違いからケンカになっても、私がお菓子を出すか、ほたるがそれを要求して、私たちはすぐに仲直りした。
ほたる。かけがえのない、私のたった一人の妹。
でも、それはもう崩れてしまった。
何年も、何年も、ずっとそうしてきたのに。この関係が、ずっと続くと信じていたのに。
それが、たったひと夏で壊れてしまった。何もかも、すべてがもう戻らない。
私のせいで。
あれは、いつのことだったろう。
ほたるから、好きな人ができたと聞いたとき。
嬉しかった。同級生だというその男の子のことを評し、どれだけ格好よくて、素敵かを照れながら説明するほたる。パパやママにはナイショにしてね、という仕草が可愛くて、私も喜んで応援を約束した。
もちろん、少しだけ不安もあった。ほたるの無邪気さは、時折私に言いしれない不安を抱かせることがある。あの子の言うままの相手ならいいけど……まさに保護者のような気持ちで、私はそう思っていた。
でも、それは単なる杞憂にすぎないことを私はすぐに知った。
ほたるの告白。彼が落としたという携帯電話がつなげた、二人の対面だった。
そして、あの子の恋が実った日。
あの日ほど、ほたるが嬉しそうにしているところを私は見たことがなかった。私に抱きつき、母に抱きつき、戻って来た父にまで抱きついていた。放っておいたら、窓から近所に向かって大声で叫びだしそうなほど。
よかったわね、ほたる。私は心からそう言うと、中学時代からの親友と長電話をはじめたあの子のために、とっておきのケーキを作った。
父と母は何のことかわからないようだったが、私とほたるにとってまさにあの日は記念日だった。寒い冬、暖かい御馳走とケーキであの子の想いの成就を祝った日。大げさだったかもしれない。滑稽に見えたかもしれない。でも、私たち姉妹にはそれが自然だった。
そして。
恋をすると女の子は奇麗になる。ほたるはまさに、その詞のままに輝いていた。
その語り口に、はしゃぐ様子に、相手への気遣いに、姉のこっちがあてられてしまうような日々。
ほたるは幸せだった。そして、それは私の幸せでもあった。可愛い妹、私のほたる。年頃の花のような恋をして、ときめきに胸を弾ませて、日々を過ごしていく。
でも、私にはわかっていることがあった。ほたるの幸せな毎日が、儚くついえる運命にあることを。
ううん、それはほたる自身も知っていたこと。
ピアノ。天賦の才能を持つあの子が、その道を進むために必要な旅路。
この夏のコンクールに優勝したら、海外に留学する。
その話を持ちかけられたとき、不安をおぼえたのはほたるではなく、むしろ私の方だった。
姉妹という絆。大きくなったほたるが、手の届かないかなたに旅立ってしまう。
どこか身勝手な、まさに親馬鹿とでも言うべき喪失感だった。でも、誰でもないほたる自身がそれを決意したとき、私も認めなければならなかった。そして、私はそれほど大きく、強くなったほたるを……姉として、とても誇りに思った。
ほたるのピアノ。人の心を感動させることができる、あの子の翼。
それがわかっているからこそ、ほたるは残された日本での日々を大切にしていた。大好きな想い人との最初で最後の夏を、ほたるはとても大事にしていた。練習は辛く厳しかったけど、ほたるはもう泣きごとを言わなかった。そんなあの子の背中を見つめて、私は迫る夏の終わりに向けて、寂しさと誇らしさが共存する不思議な感慨を味わっていた。
そう、精一杯応援してあげよう。それが、姉としてあの子にできる最後の愛情。私にとっても、彼にとっても、ほたるとの生活がもうすぐ終わるのだ。一番辛いのはあの子なのだから、そのために私もできるかぎりのことがしたい。
ほたるには、最後まで笑っていてほしかった。私の大好きな、いつものほたるでいてほしかった。そうなるはずだった。
そう、そのはずだったのに。
気が付くと、フロントグラスに水滴が弾けていた。
通り雨のようだった。ワイパーのスイッチを入れて、私はバックミラーの自分に笑った。スピードは落とさなかった。
私の心のままな、この天気が悔しかった。
人を好きになる。
好きになってはいけない相手を。
彼との初対面は、私自身が計画したことだった。
家に連れてくるように私がすすめ、ほたるが頬を染めて了承する。
やってきた男の子。ほたるの同級生。
ぱっと見は、どこにでもいるような男の子だった。スポーツマンで、サッカー部のエース。
今年の夏は、ほたるを国立競技場に連れていってくれるんだよね。はしゃいてくっつくほたるに、照れたように赤くなって口ごもる彼。
可愛い、と思った。ほたるから聞かされていた通りで、それで……期待していた以上に真面目そうだった。私の作ったお菓子を、ほたると二人で楽しそうに喋りながら食べてくれた。
純情で、ごく当り前の、普通の男の子。
嬉しかった。この少年となら、きっとほたるも楽しい思い出をたくさん作ることができる。私はそう思い、それから時折、会うたびに彼を気遣った。
サッカーで負けたとき。私は自分のことのように泣きじゃくるほたるを抱き締めた。ほたるもまた、彼のことをこうして慰めたのだろう、と思った。だから、私はほたるに言った。精一杯の思い出を作って、そして、ほたるも頑張って。
ほたるは頷いた。その先に、大好きな彼との別れがあると気付いていながら。
そして、夏が来た。ほたると彼と……私の、夏が。
レストランで語らった。海にも行った。二人は誰からも祝福される幸せなカップルだった。いつしか、ほたるに接するように……私は彼に接していた。ほたるも彼も、私の自慢の二人だった。誰よりも幸せになってほしい、可愛い二人。
だから、私は前以上にほたると彼のことを気遣った。そして、ささいなことから二人が行き違いをした、と聞いたときには、懸命に彼にアドバイスをした。ほたるのことも、何度も元気づけた。
だけど、二人の間はどんどん離れていった。彼は失意にくじけ、ほたるは光を失っていく。
私は奔走した。必死だった。私の大事な二人に、何もできない。誰よりも大切な二人の関係が、崩れていくのを止められない。
でも、私はまだ気付いていなかった。私とほたるは姉妹。でも、私と彼は他人だった。
ううん、私と彼は……男と女だった。
そして、私は気付いてしまった。
ほたると彼の仲が、目の前で壊れていく。その絶望感と、悲愴感の中で。
いつしか、彼に恋をしている。そう考えている自分がいる。
信じられなかった。
親愛の情。可愛らしさ。極論すれば、年下に対する母性愛。
そういうものだと思った。それが転じて、ふと迷わせただけだと。
けれど、何かが違った。
私は喘いだ。認めるわけにはいかなかった。認めたくなかった。否定したかった。
でも、それは真実だった。
そして……私にとって、死の宣告にも等しい言葉が待っていた。
彼も、私を好きになっていたこと。
私のせいだ。
自分の気持ちは裏切れない。彼が言ってくれた言葉。それが、彼の正直な想い。
だけど。
どうして?どうして、私を求められるの?こんなつまらない女を。ほたるじゃない、私を。
お菓子を食べてくれた。アイスを食べてくれた。笑ってくれた。
私はそれが楽しかった。ただ、嬉しかった。
そして、それが恋だった。
でも、彼は私の妹の恋人。私は、彼の恋人の姉。
ほたる。
彼を失って、ピアノを失って、闇の中ですすり泣くほたる。
私の心を切り裂くような潤んだ瞳で、言葉でない思いを訴えるほたる。
あのときと同じ。忘れることのできない、遠い昔と。
私にとって、それはどんな辛苦よりも激しい痛みだった。
私が悪い。彼を誘惑し、あまつさえ自分自身も同じように考えている私。最低な、ひどい女。
でも、私の心に灯った火は消えなかった。どれだけ自分を責めても、消えてくれなかった。
彼の熱さ。あの激しい想いに、のまれそうになる自分。
恐かった。そんなこと、できるはずがないのに。
あの子の笑顔。
彼の笑顔。
私の……
クラクション。けたたましいそれ。
ワイパーの先の視界。そこは歪んでいた。激しい雨のせい……それだけでなく。
わからなかった。何が起こったのかも。
今の、私の心と同じように。
強い衝撃が身体を走って、そして……
ふっと、すべてが暗くなった。